第208の扉 素直な言葉
「話とは?」
風花たちが家にたどり着いていた頃、スケート場の外で彬人と一葉が対峙していた。「話が、あるの」と呼び出された彬人だが、彼には一葉が何を言おうとしているのか分からない。
「ぁ、あき、と……」
彬人がキョトンと首を傾げる中、一葉はゆっくりと息を吸って、言葉を紡ごうとする。しかし、乾いた空気が喉を締め付けて、思ったように出てきてくれない。
「どうした?」
口ごもっている一葉の様子を見て、彬人はますます首を傾げた。無邪気な彼の瞳が、一葉を追い詰めていることには気がつかない。
んぅ……そんな純粋な目で見ないでぇ。何か、キラキラしてないか、こいつの目。もしかして、私が何を言うか楽しみにしてる?
……え、やだ何それ可愛い。でも、そんな期待されても困る……ますます言えなくなっちゃうじゃん。
「ぁ、あの……え、っとぉ……」
「?」
くっそぅ、全然言葉が出てこない。動いてよ私の口!!!
私の気持ちを言うだけでいいの、それだけでいいのに……
言うよ! ちゃんと言うの! はい、せーの!
「……」
なんでよぉぉぉ。今いける感じだったじゃん。勢いつけて一気にいける感じだったじゃん! なんで、言えてないのよ、意味わかんない!
一葉は悶々と自分の心と戦い始めてしまった。ここに来るまでに覚悟は決めていたのに、いざ本人を目の前にしてしまうと、思ったように言葉が出てこない。
「よいっしょっと」
「え……」
一葉が一人で苦戦していると、彬人の声が響いた。彼女がそちらに視線を向けると、彬人が地面に座り込んだところだった。
「何してんの、あんた」
「俺はいつまででも待つから、ゆっくりでいいぞ」
「え……」
「ちゃんと聞いてるから」
地面に胡坐をかきながら、彬人がふんわりと微笑む。彼は一葉の気持ちが整うまで、何時間でも待つつもりなのかもしれない。一葉が気をつかわないように、座って「待つ」宣言をしてくれた。
思い返してみれば、いつも彼は自分を気にかけてくれる。
思い返してみれば、いつも彼の瞳は自分を見ていてくれる。
思い返してみれば、いつも彼はその優しさを注いでくれる。
あぁ、私やっぱりこいつのこと……
「……き」
「ん?」
「私、……あんたのことが好き」
やっと、言えた……自分の気持ち。
今まで素直になれなくて、何だか恥ずかしくて、言葉が上手く紡げなかったのに……
「いつもふざけてて、何言ってるか分かんないことも多いけど、いざという時はちゃんとしてて、優しくて、頼りになって……」
自分が苦しんでいた時、一番に気がついて、気を遣って、助けようとしてくれたのは彼だった。その優しさに、温かさに今まで何度も何度も助けられた。
「あんたのその真っすぐな目も、優しく笑ってくれる口も、私の名前を呼んでくれるその声も、全部、全部、好き」
好き好き好き、大好き、彬人が大好き。
「だから、あ、の……私と、私と……え」
夢中で言葉を紡いでいた一葉だが、ふと顔をあげると……
「あんた、何で……」
「あ、れ?」
ポロポロと涙を流している彼の姿が。彬人自身自分がなぜ泣いているのか分かっていないのだろう。流れている涙を手で拭いて不思議そうに眺めていた。しかし、ぬぐっても、ぬぐっても彼の涙は止まらない。その涙を見て、一葉の胸がズキンと痛みだす。
「泣くほど、嫌だったの?」
「違う」
一葉の問いに間髪入れずに彬人は言葉を返す。そして、強引に一葉の手を引き、ムギュッと思いっきり抱きしめた。
「あき……」
「ありがとう」
彬人は震える声もそのままに、流れる涙も止めぬまま、真っ直ぐに一葉に言葉を届けてくれる。
「すごく胸の中が温かい。こんなに心地いい気持ちは初めてだ。何だろう、この気持ち」
彬人の中にポカポカと温かい感情が広がっている。それはさっきから一葉が言葉を紡いでくれる度に温度を増していた。
「あぁ、そうか……誰かに好きになってもらえるって、こんなに嬉しいんだな。初めてだ、こんなに温かい気持ち」
彬人は涙を流しながらも、一葉を抱きしめる腕に力を込める。ギュッと力強く、壊れる程力強く抱きしめた。
「そういうことか……だから、あの言葉」
彼のその言葉を聞いて、一葉は小さく笑った。だけど、その微笑みはどこか寂し気で。それでも今にも砕け散ってしまいそうな彼の身体をギュッと抱きしめ返した。
彬人が今感じている、初めての感情。
「好きな人はいるの?」という問いに「俺には無理だろうな」と、泣き出しそうになりながら紡いだ意味。
漆黒と深淵の中に自分自身を隠していること。
よくおつかいを頼まれ、お母さんのことを「悪の覇王」と呼ぶこと。
クラスメイト達はカラフルなお弁当を持ってくるのに、彼だけはいつもコンビニのおにぎりかパンで、一度もお弁当を持ってきたことがないこと。
他にもたくさん……ヒントは最初から零れていた。
「俺には愛された記憶がない。だから、好きが分からない、愛が分からない」
彬人は震える声もそのままで、言葉を紡いでくれる。
『好きが分からない』『愛が分からない』
彼が人との距離が近かったりするのはそのためかもしれない。適度な人との距離感が分からない。だから必要以上に近くなってしまったりする。
そして、彼の真意を隠すように放たれる意味不明な言葉たち。彼は厨二病という鎧を纏って自分自身を守っていたのだろう。その理由は……
「俺は、望まれた子供じゃないんだ」
「……」
「父は俺が母のお腹にいることが分かった途端、他に女を作って母を捨てた。だから、会ったこともない。今は母と二人で暮らしているけど、『お前さえ生まれなければ』『産まなければ良かった』ってよく言われる」
母親の鋭い言葉に、厨二病の鎧で対抗する。好きという感情が分からないことを、漆黒の陰に隠し通す。そうして彼は生きてきた。
「今お前の言葉を聞いて、好きを、愛を、初めて分かった気がする」
彬人の心の中にあった感情の扉が、一葉の言葉の鍵で今開いた。扉の中でくすぶっていた小さな灯が、大きな火に変わり、逞しい炎として燃え上がる。
「誰かに好きって言ってもらえることは、愛してもらえることは、こんなにも、こんなにも……温かいのだな」
「あき、と」
「だけど、少し時間をくれないか」
彬人は抱きしめていた一葉を離すと、彼女の足元に跪く。そして、彼女の手の甲を、自分の額に押し当てた。
「必ず伝えるよ、俺の気持ち。今は胸がいっぱいで上手く言葉が出そうにないんだ」
彬人の心の中に渦巻いていた黒色の感情たちがスッと消えていく。彼の優しい瞳がより優しい光を放ちだした。
「待つよ、いつまででも」
一葉はその愛しい瞳に微笑んで、答えを返す。
彼はいつ、どんな言葉を紡いでくれるのだろうか。それは自分にとって望んでいる言葉ではないのかもしれない。不安はあるけれど、不思議と心は晴れやかだった。
友人か恋人か。先の未来は分からないけれど、どんな形であれ今後の彼との関係が楽しみで仕方ない。
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