第72の扉 水の国編その5
「もう、少しです……」
苦しそうな玲奈の声が響く。彼女はかなり体力を消耗しているようだ。国一つを覆う結界を、一人で作り上げようとしている。体力だけでなく、精神面も負担は大きいだろう。国の命運が彼女一人にかかっているのだ。
「あと少しで終わる」
翼は火力の調整に集中しながら、戦況を観察していた。
翼はまだ自分の中にある恐怖を必死に押し込めて、杖をギュっと握った。しかし……
「?」
翼の視界にカカシが映る。彼は今、階段の前にいるのだが、その顔に笑みを携えているのだ。戦況は明らかに翼たちが有利な状況。その笑顔の理由は何だろうか。
「っ!?」
翼が嫌な予感を感じていると、カカシは一気に不気味な雰囲気を纏った。身体に禍々しい闇を纏わせて、ギロリと目を光らせている。そして……
「階段の下に居た騎士団のみなさんですが、残念ながら全員亡くなったそうですよ」
「え……」
一瞬で祠までの距離を詰め、玲奈の耳元で残酷な言葉を放つ。玲奈の身体がぴくりと反応し、結界が揺れた。
「玲奈さん!」
「みなさんお強かったので手こずりましたよ。そのせいで見るにも耐えない姿になってしまいましたが……」
「嘘でしょ、騎士様、たちが、そんな」
翼が彼女へと呼びかけるも、もう遅い。玲奈の心が恐怖と絶望で支配され始めた。彼女の精神状態に比例して、結界が形を崩し始める。
「
風花も異変に気がついたが、カカシは止まらない。軽々と攻撃を弾き、玲奈に言葉を投げ続ける。
「嘘ではありませんよ。あの妖怪たちの大群をあなたも見たでしょう?」
「いやだ、いやだ!」
「亡くなったのですよ、みなさん」
「あぁ……う」
カカシの言葉に玲奈の心が砕かれる。彼女が今まで立っていられたのは勝の支えがあったから。幼い少女に伸し掛かる重い運命を、彼が一緒に支えてくれた。でも、もう、彼は……
「騎士、さま」
玲奈の心が絶望に包まれた。彼女の透き通った瞳が黒く染まっていく。ポロポロと涙を流しながら、支えを失った彼女は崩れ落ちた。
「玲奈さん!」
風花が駆け寄り呼びかけるも、全く反応が返ってこない。目から涙が流れ続け、瞳は虚ろ。彼女は今、目の前に広がる絶望しか見ていない。
そんな彼女を見て、風花の瞳にも絶望の色が浮かんだ。玲奈と風花は似ている。幼いながらも、残酷な運命を背負う少女。助けを求めて震えた手。仲間がいないと歩いていけない未熟さ。
風花の感情が玲奈と同化し始め、絶望の底へ彼女もいざなおうと誘った。
「桜木さん!」
「ぁ……」
風花が引きずり込まれそうになっていた時、一つの暖かい声が響いた。黒く塗りつぶされかけた彼女の心を、明るく照らしてくれる暖かな声が。
「あい、はらくん……」
風花が目を向けると、そこには翼が。力強く自分の肩を掴んで支えてくれていた。肩から伝わる彼のぬくもりを感じ、風花の瞳から絶望の色が消えていく。
大丈夫、自分は一人じゃない。支えてくれる仲間はここにいる。自分はまだ歩いて行ける。
「ふふっ。これでおしまいですね」
風花が杖を持ち、立ち上がった時、後ろからはカカシの声が。彼は大きな禍々しい魔力の塊を作り出している。玲奈の息の根を止めるつもりだ。
彼女はまだ絶望に飲み込まれたまま。玲奈が復活して儀式が成功しなければ、翼たちは勝利できない。どうしたらいいのだろうか。
「玲奈さん」
翼が焦る中、ポロポロと涙を流し続ける玲奈の元へ風花が。先ほど翼が支えたように彼女の肩に手を置いた。
「騎士様は、約束を破るような方ですか?」
風花の問いかけに玲奈の瞳が若干揺れる。彼女の暖かい声が玲奈の心に届き始めたのだろう。
「騎士様はきっと、今も必死に戦っています」
「……」
「生きている保証はないけれど」
「……」
「私は、必ず追いつく、と言った彼の言葉を信じたい」
虚ろだった玲奈の瞳に光が宿り、ポロポロと流れ続けていた涙が止まる。絶望の底に居た玲奈に、風花の言葉と温かさが届いた。
「一緒に信じましょう」
「はい」
玲奈は差し出された風花の手を取り、立ち上がった。
騎士様、あなたはご無事でしょうか。私は早くあなたに会いたい。いつもの暖かな微笑みで笑いかけてほしい。その大きな手で触れてほしい。
だから私は必ずやり遂げます。あなたに再びお会いするために。
玲奈が再び作り上げた結界は、先ほどのものとは比べ物にならない程、力強い。彼女はもう大丈夫、そう思わせるほどの強さを感じる。
「くっそ、あ、うぁ……」
結界がかかり始めて、清浄な空気が神殿内に立ち込めた。それと同時にカカシたち妖怪が胸を押さえて苦しみだす。邪気を纏う彼らにとって、清浄な気は毒なのだろう。
「やった、の?」
「終わったぁ」
優一、美羽、一葉は妖怪たちの様子を見て、ぺたんとその場に崩れた。初めての本格的な戦闘。一歩間違えれば、自分たちの命が消えていてもおかしくないという状況。相当な緊張状態から解放されたのだ。
「っ……」
優一が自分の手を見ると、まだブルブルと震えていた。そして、ふと隣でへたり込んでいる美羽へと声をかける。
「横山、大丈夫か?」
「あ、うん。ごめんね、いろいろありがと」
優一の問いかけに美羽はにこりと微笑んでくれる。しかし、彼女の微笑みから悲しい感情を読み取り、優一の顔が歪んだ。
美羽のおかげでパンクした翼は復活し、彼は最後まで戦い抜くことができた。しかし、彼を励ます時に『怖い』と口にしてしまった美羽は、より恐怖の感情を自覚してしまったのだろう。彼女はもう限界が近い。
「壊れる前に何とかしないとな……」
「良かった」
翼は風花と一緒に玲奈の幻想的な光景を見ていた。彼女の身体は光り輝き、ふわりと宙に浮いている。紺色の髪が風になびき、巫女衣装が太陽の光を反射していた。妖怪たちの脅威は去り、結界は元通り。水の国は救われた。
「ん?」
翼はふと自分の隣で玲奈を見ている風花に視線を映す。彼女は今玲奈に見惚れているのだが、何やら違和感を覚えた。風花は今何を思っているのだろう。
翼が考え込んでいる間に、宙に浮いていた玲奈の体が元に戻っていく。ふわりと地面に降り立つ彼女の元へ、一人の人物が。
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