シフト

 屋久島には、二回行っている。


 一回目行った時、どうして帰ってきてしまったかというと、原因不明の微熱が続いたからだ。


 島のお医者さん、実家近くのお医者さん、実家近くの大きな病院、どこへ行っても原因がわからず、しかし、症状は続いていた。


 微熱というのがとても怖かった。万病の元なんじゃないかなどと言われたりして、結構神経質になってしまった。


 当時私は高卒で12年間勤めた会社を辞め、意気揚々とキャンピングトレーラーでの田舎暮らしを開始し、順風満帆のはずだった。しかし、いざ暮らしてみると、なかなかキツいものもあった。


 当時の屋久島は、安房沖の海上で、ようやく携帯電話が繋がるという状態。島では殆どダメだった。連絡などもあるので、とびうお漁師の親方の土地にキャンピングカーを置き、住まわせてもらっていた。


 これに、当時幼稚園、小学校に入ったばかり、という位の年齢の、親方の子供、親方の弟の子供の1号2号が興味を示さない訳がない。親方や親方弟の制止もむなしく、毎日こちらのお相手をすることになった。子供は好きなのではじめは歓迎していたが、やはりせっかくの田舎暮らしでようやく掴んだと思われたプライベートを捧げ続ける毎日となると辛いものがあった。


 毎日の洗濯は、側溝を流れる水で行っていた。傾斜があったので、適当に流れていて、洗濯には都合がよかった。当時は一人暮らしを始めたばかりで何もわからなかったので、昔母親がやっていた洗濯を真似して、たらいと洗濯板とで洗っていた。綿の下着類が多かったのと、雨が多い事もあり、これも辛かった。今、私の家の周りには、ざっと数えるだけでも5つ以上コインランドリーがあるが、当時の屋久島には、私の探した限り、こんなものはなかった。何度か島を行き来している時、フェリー屋久島2の洗濯機で何度か洗濯をしたけれど、一回目の屋久島行き時、機械で洗濯をしたことはなかった。


 私のキャンピングトレーラー、カシータは、まんまるで、気密性が高い。その中で、冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、ファックス電話、アメリカ製の古くごっついエアコンなどを使っていた。これも身体にいいとは言えない環境だ。


 とにかく、私は微熱が心配で、一回目、屋久島を離れた。


 しかし、実家に帰れど、症状は改善しなかった。


 毎日起きて行くところがない、やることがないのは、とても辛かった。


 医者がわからないと言うのだから、もうどうでもいいと開き直り、当時高給を売りにしていた佐川急便の面接を受け、セールスドライバーとして働き出したところ、毎日死ぬような思いをしたからか、微熱のことなど忘れてしまい、自然に治ってしまったというのが事の顛末だ。


 今、カミサンも同じような状況にある。


 幸いにもメガネが合い、目はそこそこ見えるようになったようだが、脳の障害の後遺症なのか、頭の中がぼやけた感じが、まだ少しあるのだという。


 彼女に再び私の経験を話してみた。人間、放り込まれてしまえば何とかなると。


 ちょっと乱暴だったかもしれないが、カミサンは職場復帰に向けて、努力をしてくれている。少し不安はあるようだが、来月の職場のシフト表には名前が入っていて、全盛時の8割程度の感じで仕事をしてみると言う。


 がんばって欲しい。



 

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