4-46 再会

 一か月ぶりに帰国した日本の空は、清々しく澄み渡っていた。

 門出かどでの日には、うってつけの天気だろう。黒いスーツケースを引いて山道を歩きながら、イズミは木々の隙間から空をあおぎ見る。

 帯状の木漏れ日が地上へ降り注ぐ眺めは、以前とほとんど変わらない。ただ、先月よりも日差しの強さが和らいでいて、せみの声も聞こえない。ささやかな季節の移ろいが感じられて、つい微笑みが零れ出る。――日本は、やはり美しい。

 再会の瞬間の第一声は、一体何と言うべきか。漫然と思考を巡らせながら、イズミは御山の襤褸屋ぼろやへ足を向けた。

 スーツケースのこまが、がりがりと土草と小石を踏んでいく。自然をおびやかすような侵略のおとの無粋さから、辺りに対して無性に申し訳ない気持ちになってしまう。拝殿はいでんへの参拝は済ませていたが、後でもう一度詣でようかと益体やくたいもなく考え始めたところで、木々が連なる景色が開けて、泉が眼前に現れた。

 ――の泉の向こうに、ようやく見つけた。

 襤褸屋ぼろやの外、縁側の手前で、掃き掃除をしているらしい、痩せた老人の立ち姿を。心が、ふわりと軽くなった。

御父様おとうさま

 イズミが声を張ると、相手はとっくに気づいていたのだろう。ちらと胡乱うろんな目を此方こちらに向けて、溜息をくような素振りを見せた。可愛い孫の帰国だというのに、全くもって感動が薄い。の相手に求めるものでもない気がしたが、ともあれイズミは微笑んだ。

「御父様。呉野和泉がただいま戻りました」

仰々ぎょうぎょうしくわんでも見たら判る」

 素気無い返事が飛んできた。心底どうでも良さそうな返答だったが、堅物なのだから仕様がない。イズミは心持ち早足で呉野家の玄関に向かい、其処そこへスーツケースを置いてから庭の縁側に直行し、祖父の正面に立った。

 呉野國徳くにのりの、正面に立った。

 見下ろせば、頭一つ分は下の位置に顔がある。やや不機嫌そうな顔つきだが、元気そうなので何よりだ。

「御父様。改めまして。ただいま戻りました」

かしこまらんでいい。全く、貴様の喋り方は好かん」

「そう言われても困ります。僕は生まれてこのかた、こんな日本語の使い方しかしてこなかったのですから。今更どうやって年頃の少年のような喋り方を会得えとくしろというのです? そちらの方が難しいのですよ」

 難癖に対して律義に応答していると、國徳くにのりが鬱陶しそうに目を細めた。イズミの話し方が、余程の居心地悪さを誘うと見える。可笑おかしくなってイズミが笑うと、國徳は余計に面白くなかったのか、ふいと此方こちらに背中を向けて、つかつかと歩いて行ってしまった。

 の行き先を目で追って、嗚呼ああとイズミは納得する。

 掃除中かと思っていたが、然ういうわけでもなさそうだ。

「今からですか」

 イズミが訊くと、國徳は振り返らないまま、「心算つもりだ」と短く答えた。

 全く性急なことだと思う。イズミは苦笑した。

「御父様、昼食はまだ召し上がっていないのでしょう。克仁かつみさんが差し入れを持ってきてくださるそうですよ。それまでに終わらせる気ですか?」

「ああ」

 國徳が、振り返る。

 竹箒を持っていない方の手には、赤いライターが握られていた。

此方こちらの準備は出来ている。和泉、貴様も用意があるならさっさと出せ」

「僕には何もありませんよ。貴方のお手伝いこそが僕の目的です。貴方が燃やしたいと思うものを、僕も一緒に燃やします。彼女への怨嗟に繋がるような品など、僕には一つもありませんから。御父様の物を、僕にも共有させてください。僕はそれでいいのですよ」

「……好きにしろ」

 着物の裾を翻して、國徳が縁側から庭に向かう。縁側には、衣類や文房具を始めとする彩り鮮やかな品々が、ずらりと並べて置いてあった。

 全て、女物だろう。紺色の浴衣を見下ろしたイズミは、國徳を振り返る。

 浅葱あさぎ狩衣かりぎぬに、紫紺しこんはかま。神主たる祖父の華やかな姿を見つめてから、次いで己の格好を見下ろした。

 半袖の白シャツに、黒のズボン。東袴塚ひがしこづか学園高等部の制服だ。

 制服が礼装である期間は、もう半年程しか残っていない。高校三年生とは果たして、子供なのか大人なのか。一体どちらだろうとイズミは考える。

 確たる答えは出なかったが、れでも一つ、判ることは。

 時は流れ、イズミは確実に大人になっていく。子供の時間は終わるのだ。

 まるで、〝アソビ〟が終わるように。

 のようにして己の成長を意識した時、ふと思いつくことが一つあった。

「……。僕は、歳を取り過ぎたのかもしれません」

 國徳が、不可解そうな顔で振り返る。イズミは、訥々とつとつと心の内を語り始めた。

「たった今、思ったのです。今こうして貴方と共にいる僕が、もっと幼い少年であったなら。今回の事でもっと怒りを見せたかもしれませんし、哀しみを露わに泣き崩れていたかもしれません。僕はおそらく、実年齢よりもだいぶ物分かりのいい子供です。子供と言っていい歳なのかは曖昧ですが、ともあれ……僕は、その所為で。彼女を恨むことも、家族の死を悲しむことも、どちらも中途半端になってしまいました。僕は、最愛の家族の死に対して、もっと恨むことも、悲しむことも出来たはずだと思うのです。せめて僕が、もう少しだけ若かったなら。……そうですね、例えば」

 イズミは、思案気に首を傾ける。

「……中学生くらいの歳の頃の、少年少女の感性。そんな若さが、今の僕にあったなら。僕はもっと、父の死をいたむ事が出来たでしょうか」

阿呆あほらしい」

 あっさりと一蹴された。

「貴様の偏屈ぶりは、ちょっとやそっと若返ったところでどうにもならん。……悼み足りんと思うなら、手伝え。和泉。れからも悼めば、れで足りる。くだらんことは考えるな」

「……はい。御父様」

 イズミは、笑う。

 苦く、同時に温かな郷愁を胸に抱きながら、己の制服からも遺品の数々からも目を逸らして、祖父を手伝うべく、痩せた後姿を追いかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る