4-45 氷花

 廊下の薄暗がりには、夏の静けさが満ちていた。

 蒸した夜気と虫の音が、霧のように揺蕩たゆたう闇の中。和室から退室した男は、ふすまをぴたりと閉めてから、階段の傍に立つ浴衣姿の少女に気づき、息を呑んだ。

 そこに居るとは、思わなかった。そんな驚きの目で見下ろす男へ、和装の少女は微笑んだ。

「お父様。ただいま戻りました」

「ああ……おかえりなさい。夏祭りは楽しめましたか?」

「ええ。とても。ですが、少し疲れてしまいました。お部屋で少しだけ休んでから、すぐに台所を手伝いに行きます」

「いえ、今日は結構ですよ。君はいつも気が回りますね。ただ、疲れているところ悪いのですが、君に一つだけお願いがあります」

「あら。お父様が私にお願いだなんて、珍しいですね。何でしょうか」

「イズミ君が、君のお部屋で眠ってしまいました。……タオルケットを、掛けてあげてください。風邪を引いては事ですから。君には申し訳ありませんが、お部屋を一時間ほど貸してあげてください」

「お兄様が」

 少女は、口元に手を当てる。長い睫毛を伏せて「判りました」と答えると、閉ざされたばかりのふすまを開き、静々と自室へ入ろうとする。

 その背中に、「氷花さん」と男が声を掛けて呼び止めた。

「はい?」

 少女が、振り向く。

 呉野氷花が、振り向く。

 男は、藤崎克仁ふじさきかつみは――「いえ、何も」と言い直して、薄く笑った。

れでは、夕飯の支度をしてきます。君は私の部屋で休むといいでしょう」

「はい。ありがとうございます」

 氷花は、そう言ってふすまを閉じた。廊下と和室が分断され、六畳一間に沈黙が満ちる。紫紺しこん色に血液を溶いたような薄闇に、ささやかな蝉のが流れた。

 退廃美に染まった室内の奥、文机ふづくえの傍の畳には、灰茶の髪の異邦人が、身体を横向きに倒して眠っている。

 男を一瞥いちべつした氷花は、足音を立てないまま押入れのふすまを滑らせて、中から白いタオルケットを取り出した。それを表情もなく兄の元まで運んでから、浴衣を着た長身痩躯そうくへゆっくりと掛ける。そして己の浴衣の裾を押さえると、畳へ静かに腰を下ろした。

 男の隣――呉野和泉の隣に、腰を下ろした。

「……夏って、いやね。兄さん」

 氷花は、言う。淡々としたその声音は、先ほど同じ中学校へ通う少年に向けたものと同じ、感情の欠落した声だった。

「兄さん。貴方、どうして私の部屋で寝てるのよ。迷惑だわ。死ねばいいのに。……ねえ。本当は、起きてるんじゃないの?」

 和泉は、返事をしない。タオルケットの胸元が、規則的に上下する。氷花は、溜息をついた。

「いいのよ、どちらでも。起きていても、寝ていても。生きていても、死んでいても。……でもね、兄さん。貴方を殺すのは、私なんだもの。だから、困るのよ。こんなところで、死なれたら。ねえ、死んでいるなら、生き返って。私が殺し直してあげる」

 氷花は、言う。感情が消えた声のまま、はなから返事など期待していないような投げやりさで、眠る兄の頬に手を伸ばし、触れて、撫でた。

「お兄様。貴方、綺麗よ。起きている時の貴方は、意地悪だから嫌い。でも、こうしている貴方は嫌いじゃないわ。だって、お兄様に見えるもの。〝アソンデ〟くれた、お兄様に見えるもの」

 和泉は、返事をしない。妹に触れられて尚、目覚める様子は全くない。死人のように黙している。氷花の手が、目覚めない兄の首に伸びた。

 白い指が、うなじを撫でる。

 もう片方の手も伸びて、両手が、和泉の首に掛かった。

「……」

 虚無を映していた瞳に、惑うような光が揺れる。抵抗しない兄の首から、ぱっと氷花は手を外した。美貌に、自己嫌悪が薄く浮かぶ。莫迦ばかなことをしたと自分自身を蔑むように、和泉から目を背けている。長い黒髪が大きくたわみ、眠る和泉の胴に掛かった。

 白いタオルケットを掠める毛先が、黒く艶やかに流れていく。

 氷花は身体をゆっくりと倒し、和泉の隣に横たわった。

「……私、酷いことを言われていたのよ。お兄様。知らなかったでしょう」

 氷花が、兄に身体を寄せる。

 衣擦きぬずれの音が、微かに響いた。蝉が、まだ鳴いていた。

「あの頃のことは、忘れてしまったことも多いけど、覚えていることも多いのよ。お母様は、私の事が嫌いだったのね、って。今なら判るわ。でも、あの頃は判らなかった。私は、お母様が好きだった。お母様も、私の事が好きだと思ってた。お母様は、綺麗なものがお好き。私も同じよ。美しいものは好き。でも、いくら美しいものを集めても、お母様は私を愛してはくれなかった。好きだと思っていたのは、私の方だけだった。それが判るまで、随分と時間が掛かったわ。伊槻いつきお父様と喧嘩して、お母様と喧嘩して、やっと判ったわ。……だから、嬉しかったのよ。お兄様が、ロシアから来てくれて。遊んでくれるお兄様がいて、私は、本当に嬉しかったの。……だから、許せないのよ、お兄様。貴方の事が、許せないの」

 氷花は、じっと兄を見る。瞳に薄く、怨嗟が宿った。

「お兄様は、私と遊ぶことを突然やめたわ。それに、とても嘘っぽい人になってしまった。誰にでも優しいお兄様。でも私には冷たいの。一緒に〝アソンデ〟くれないの。お兄様。貴方、綺麗過ぎるわ。どうしてそんなに綺麗なの? おかしいわ。どうして? そんなにも清らかな人なんて、私は一人も知らないわ。私の知っているお兄様は、そんな人ではなかったもの」

 氷花は、もう一度手を伸ばした。再び和泉の頬に触れる手つきは、言葉とは裏腹に繊細だった。

「お兄様は、清らか。……でも、お兄様。清らかな貴方。清らかな人って、『憎悪』がないの? ……そんなわけ、ないわ。絶対にあるはずよ。隠してるんでしょう。お兄様。私に意地悪して、隠してるんでしょう。私、貴方が知りたいわ。本当の貴方が知りたいの。貴方の人間の部分を見つけたいの。貴方の『憎悪』を突きつめたいのよ」

〝清らか〟のつのを落とした鬼と、つのを拾った御隠居。

 あるいは、つのを失った善の鬼と、つのを得て変貌した御隠居なのか。

 氷花は和泉を睨み続けていたが、ふっ、と蝋燭の火が消えるように、張り詰めていた憎悪が消える。まるで力尽きたせみが地へ転がるように、そっと儚げな吐息をついて、兄の頬に、唇を当てた。

 触れるだけの、口づけ。唇を離した氷花は、しばらく思案気に和泉を見つめていたが、それ以上は何もすることなく、かそけき声で、兄に言った。

「おやすみなさい。イズミお兄様。良い夢を」

 それを最後に、氷花もまた目を閉じた。

 愛憎のつのが互いに欠け合った兄妹は、幽玄ゆうげんの花が葬送のように降る部屋で、昏々と静かに眠り続けた。

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