4-45 氷花
廊下の薄暗がりには、夏の静けさが満ちていた。
蒸した夜気と虫の音が、霧のように
そこに居るとは、思わなかった。そんな驚きの目で見下ろす男へ、和装の少女は微笑んだ。
「お父様。ただいま戻りました」
「ああ……おかえりなさい。夏祭りは楽しめましたか?」
「ええ。とても。ですが、少し疲れてしまいました。お部屋で少しだけ休んでから、すぐに台所を手伝いに行きます」
「いえ、今日は結構ですよ。君はいつも気が回りますね。ただ、疲れているところ悪いのですが、君に一つだけお願いがあります」
「あら。お父様が私にお願いだなんて、珍しいですね。何でしょうか」
「イズミ君が、君のお部屋で眠ってしまいました。……タオルケットを、掛けてあげてください。風邪を引いては事ですから。君には申し訳ありませんが、お部屋を一時間ほど貸してあげてください」
「お兄様が」
少女は、口元に手を当てる。長い睫毛を伏せて「判りました」と答えると、閉ざされたばかりの
その背中に、「氷花さん」と男が声を掛けて呼び止めた。
「はい?」
少女が、振り向く。
呉野氷花が、振り向く。
男は、
「
「はい。ありがとうございます」
氷花は、そう言って
退廃美に染まった室内の奥、
男を
男の隣――呉野和泉の隣に、腰を下ろした。
「……夏って、
氷花は、言う。淡々としたその声音は、先ほど同じ中学校へ通う少年に向けたものと同じ、感情の欠落した声だった。
「兄さん。貴方、どうして私の部屋で寝てるのよ。迷惑だわ。死ねばいいのに。……ねえ。本当は、起きてるんじゃないの?」
和泉は、返事をしない。タオルケットの胸元が、規則的に上下する。氷花は、溜息をついた。
「いいのよ、どちらでも。起きていても、寝ていても。生きていても、死んでいても。……でもね、兄さん。貴方を殺すのは、私なんだもの。だから、困るのよ。こんなところで、死なれたら。ねえ、死んでいるなら、生き返って。私が殺し直してあげる」
氷花は、言う。感情が消えた声のまま、はなから返事など期待していないような投げやりさで、眠る兄の頬に手を伸ばし、触れて、撫でた。
「お兄様。貴方、綺麗よ。起きている時の貴方は、意地悪だから嫌い。でも、こうしている貴方は嫌いじゃないわ。だって、お兄様に見えるもの。〝アソンデ〟くれた、お兄様に見えるもの」
和泉は、返事をしない。妹に触れられて尚、目覚める様子は全くない。死人のように黙している。氷花の手が、目覚めない兄の首に伸びた。
白い指が、
もう片方の手も伸びて、両手が、和泉の首に掛かった。
「……」
虚無を映していた瞳に、惑うような光が揺れる。抵抗しない兄の首から、ぱっと氷花は手を外した。美貌に、自己嫌悪が薄く浮かぶ。
白いタオルケットを掠める毛先が、黒く艶やかに流れていく。
氷花は身体をゆっくりと倒し、和泉の隣に横たわった。
「……私、酷いことを言われていたのよ。お兄様。知らなかったでしょう」
氷花が、兄に身体を寄せる。
「あの頃のことは、忘れてしまったことも多いけど、覚えていることも多いのよ。お母様は、私の事が嫌いだったのね、って。今なら判るわ。でも、あの頃は判らなかった。私は、お母様が好きだった。お母様も、私の事が好きだと思ってた。お母様は、綺麗なものがお好き。私も同じよ。美しいものは好き。でも、いくら美しいものを集めても、お母様は私を愛してはくれなかった。好きだと思っていたのは、私の方だけだった。それが判るまで、随分と時間が掛かったわ。
氷花は、じっと兄を見る。瞳に薄く、怨嗟が宿った。
「お兄様は、私と遊ぶことを突然やめたわ。それに、とても嘘っぽい人になってしまった。誰にでも優しいお兄様。でも私には冷たいの。一緒に〝アソンデ〟くれないの。お兄様。貴方、綺麗過ぎるわ。どうしてそんなに綺麗なの? おかしいわ。どうして? そんなにも清らかな人なんて、私は一人も知らないわ。私の知っているお兄様は、そんな人ではなかったもの」
氷花は、もう一度手を伸ばした。再び和泉の頬に触れる手つきは、言葉とは裏腹に繊細だった。
「お兄様は、清らか。……でも、お兄様。清らかな貴方。清らかな人って、『憎悪』がないの? ……そんなわけ、ないわ。絶対にあるはずよ。隠してるんでしょう。お兄様。私に意地悪して、隠してるんでしょう。私、貴方が知りたいわ。本当の貴方が知りたいの。貴方の人間の部分を見つけたいの。貴方の『憎悪』を突きつめたいのよ」
〝清らか〟の
あるいは、
氷花は和泉を睨み続けていたが、ふっ、と蝋燭の火が消えるように、張り詰めていた憎悪が消える。まるで力尽きた
触れるだけの、口づけ。唇を離した氷花は、しばらく思案気に和泉を見つめていたが、それ以上は何もすることなく、
「おやすみなさい。イズミお兄様。良い夢を」
それを最後に、氷花もまた目を閉じた。
愛憎の
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