4-43 契り
遺書は、
続きの言葉は千切り取られ、紙が大きくひしゃげている。
「……それより先は、ありません。ですが、無くていいと思います。そこから先は、全部同じ調子なのですよ。イヴァンお父さんへの遺書のはずが、途中からは杏花さんへの怨嗟でした。それが延々と
克仁は、表情もなく便箋を畳む。そしてジュースとかき氷が載った盆の上に、投げやりな手つきで
「僕に、返してはくださらないのですか?」
「ええ。返しません。
克仁は、
開け放した窓の向こうで、
「イズミ君」
「何ですか、克仁さん」
「いえ、君を呼んでみただけですよ」
「はい?」
イズミは目を瞬くと、珍妙なことを言った養父へ、溜息を吐いて見せた。
「何を仰っているのですか、貴方は。何か不安に思うことでもあるのですか」
「いいえ、何も。……いや。先ほど君は、意味深なことを
「何を、貴方は」
「寂しいですね」
克仁は、言う。イズミの言葉を遮って、ふわりと優しく微笑した。
「寂しいですね。家族を亡くすのは。とても、寂しいことですね。……イズミ君。君は、とてもよく頑張ったと思いますよ」
「頑張った? 僕がですか?」
「ええ。父親があんな目に遭ったのです。君は頑張ったと思います。イヴァンはやはり幸せ者ですね。あんなにも清らかな言葉を、最後に君から貰う事ができて。羨ましいと思う程です」
「
「泣けばいいじゃあないですか。君は全く、妙なところで強情張りですね」
呆れた口調で、克仁が言う。イズミとしては、呆れたいのは
密やかな笑い声が、夏の夕べに流れていく。イズミと父と克仁の三人、
「……」
――家族。
だが、貞枝への憎悪の感情は、
ただ、感情が判然としないのだ。掴めはするが、手応えがない。実感が、すこんと抜けていた。まるで
――『憎悪』を、捨てる。
杏花の清らかさを、拾う為に。
憎悪は、毒だ。〝清らか〟を食い潰す。悪感情を心へ溜め込み、
そんな負の感情は、美しい言葉を生みはしない。言葉に、魂が宿らない。清らかな魂が、宿らない。
「克仁さん。貴方は、貞枝さんを憎んでいると思いますが……僕は、もう判りません。疲れ過ぎたからかもしれませんし、僕が人を恨まぬと決めた所為かもしれません。……克仁さんは。貞枝さんの事を、どう思いますか」
何となく克仁に訊ねた直後、
一度目は、父が来日の意向をイズミに
あの国際電話で両親の離縁を知った時も、感傷の理由を追及しようと、イズミは母の名を挙げて訊ねたのだ。どんな答えが欲しいのかさえ判っていない体たらくで、闇雲に手を伸ばそうとする
だが、克仁はイズミに答えを与えなかった。
「……イズミ君。君は先程、私の言葉が致命的な矛盾を含んでいると
イズミが黙っていると、克仁は苦笑いを浮かべた。イズミが疲れたように、克仁もまた疲れたのだ。〝アソビ〟疲れてしまったのだ。
「あの夜、貞枝さんは氷花さんの〝言霊〟を誘って、伊槻さんと共に
克仁は、嘆息した。微かに訝しげに、
「一体、どういうわけでしょうね。〝同胞〟であり、〝言霊〟が効かないはずの貞枝さんまで、一緒になって消えるとは。実に不可解です」
「……その矛盾、貴方はどう解明するのです?」
イズミが問うと、克仁は疲れの浮いた顔で「何、簡単なことですよ」と答えて、丁寧に説明してくれた。
「〝同胞〟には、異能は効かない。
「ですが、克仁さん。僕に氷花さんの〝言霊〟が効いた事はありませんよ。何度も死ねと言われていますが、何の問題もありません」
「君は携帯電話解約の件で、相当な恨みを買いましたからね。君、氷花さんが陰で泣いていたことを知らないでしょう。
克仁はイズミを嗜めながら、当時の遣り取りを思い出して可笑しくなったのか、小さく吹き出す。
「〝同胞〟同士では異能は効かないという大前提は、異能の家系、呉野の人間たちの経験から得た解釈です。
「貞枝さんが〝言霊〟で消えたケースは、その例外だったというのですか? どういう条件が揃えば、そんなことになるのです」
克仁は、
異能が
長くも短くもない沈黙の果てに、克仁は「恐らくは、『同意』ではないですかね」と、思案気な様子のまま言葉にした。
「あの時の貞枝さんは、氷花さんの〝言霊〟を受け入れる気でいました。彼女の異能に
「……」
なるほど、とイズミは得心した。一理あると思ったのだ。
――言葉に込められた魂を、拒絶せずに受け入れる。
懐かしい記憶が、脳裏を
魂の支配を、許してしまう。そんな風にも、取れる行為。
まるで
――コトダマアソビ。
イズミと杏花の、二人の〝アソビ〟。
貞枝が消えた理由は、本当に克仁の言うような理由なのか。確かに根拠はないだろう。だが、
もし、
――貞枝が〝言霊〟で死ねば、
だが、たとえ〝言霊〟で死ねずに伊槻との無理心中を選んだとしても、あの時の貞枝は〝言霊〟による狂気を演じていた。杏花の罪を偽装したのだ。
――〝言霊〟で死のうが、無理心中で死のうが、どちらにしても同じなのだ。貞枝によって着せられた親殺しの罪は、等しく杏花の魂を
そして、あの時の貞枝は――
克仁も同じことを考えていたのか、顔が悔しげに
「恐ろしい程に、計算
「ええ。そうですね。ですが、その事実を
「……。君。さては、自分でも判っていませんね」
克仁が、じろりとイズミを睨んだ。
「君は、氷花と杏花を分けて考えようとしています。
「……そうですね。克仁さん。僕は、どっち付かずです」
イズミは、素直に認めた。
無垢で天真爛漫な杏花への、
幼子であれ、人を殺せば殺人鬼。親に手引きされた殺人であれ、手を下したのは杏花だ。克仁はあの惨劇を親殺しではなく計画殺人だと言ったが、名前が変化しただけで、杏花の罪は変わらない。大人達を殺した罪は、杏花が永遠に背負っていくものだ。
そんな少女を、イズミは氷花として扱って、九年の歳月を共にした。
違う人間であり、同じ人間。矛盾を抱えた内面を見つめるうちに、
イズミは、ただ時間を巻き戻したいだけなのだ。
清らかな、あの夏に。まだ全てが壊れてしまう前の、幸せな家族の時間に。そんな甘やかな夏の時に、己が戻りたいだけなのだ。
「……克仁さん。僕は、
「君は素直ですね。
「彼には、また今度お会いした時に、改めて謝らせてもらいます。僕は
イズミの言葉を聞いた克仁は、安心した様子で微笑んだが、ふと何かを思い出したのか、呟くように言った。
「イズミ君。貞枝さんの遺書は三通ありましたね。隠された一通が
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