4-43 契り

 遺書は、其処そこで破れていた。

 続きの言葉は千切り取られ、紙が大きくひしゃげている。

 克仁かつみが無言でイズミを見たが、イズミは首を横に振った。

「……それより先は、ありません。ですが、無くていいと思います。そこから先は、全部同じ調子なのですよ。イヴァンお父さんへの遺書のはずが、途中からは杏花さんへの怨嗟でした。それが延々と便箋びんせん数枚分に渡っています。國徳くにのり御父様と一読した後で、続きは僕達で焼きました。それでも前半部分を残したのは、いつか貴方に真相を明かす時が来たならば、見せる必要があるだろう、と。二人で判断したからです」

 克仁は、表情もなく便箋を畳む。そしてジュースとかき氷が載った盆の上に、投げやりな手つきでれを放った。

「僕に、返してはくださらないのですか?」

「ええ。返しません。れは私が一階に持っていって、後でコンロの火で炙ります。私にも是非、焼き打ちにさせてください。せめてもの八つ当たりですよ」

 克仁は、の台詞を最後に黙ってしまった。イズミもまた、黙り込んだ。

 開け放した窓の向こうで、ひぐらしがしめやかに鳴いている。女のすすり泣きのような哀愁が揺蕩たゆたの和室に、もう言葉は要らないと思っていた。

「イズミ君」

 って、克仁から小声で呼ばれた時、イズミの心には穏やかな驚きが拡がった。心地よく停滞した時の中で、克仁の時間は動いていた。れが意外だったのだ。

「何ですか、克仁さん」

「いえ、君を呼んでみただけですよ」

「はい?」

 イズミは目を瞬くと、珍妙なことを言った養父へ、溜息を吐いて見せた。

「何を仰っているのですか、貴方は。何か不安に思うことでもあるのですか」

「いいえ、何も。……いや。先ほど君は、意味深なことをいましたから。不安がないわけではありませんよ。ただ、せっかく家族が帰省したのです。声が聞きたいと思うのは、親として当然の感情ですよ」

「何を、貴方は」

「寂しいですね」

 克仁は、言う。イズミの言葉を遮って、ふわりと優しく微笑した。

「寂しいですね。家族を亡くすのは。とても、寂しいことですね。……イズミ君。君は、とてもよく頑張ったと思いますよ」

「頑張った? 僕がですか?」

「ええ。父親があんな目に遭ったのです。君は頑張ったと思います。イヴァンはやはり幸せ者ですね。あんなにも清らかな言葉を、最後に君から貰う事ができて。羨ましいと思う程です」

してください、克仁さん。年甲斐もなく泣いてしまったら、一体どうしてくれるのです」

「泣けばいいじゃあないですか。君は全く、妙なところで強情張りですね」

 呆れた口調で、克仁が言う。イズミとしては、呆れたいのは此方こちらの方だ。狡猾。悪童あくどう。強情張り。おまけに野心家とまで言われていた。本当に散々な評価だった。声を忍ばせて笑っていると、克仁も一緒に笑い始めた。

 密やかな笑い声が、夏の夕べに流れていく。イズミと父と克仁の三人、夕餉ゆうげの食卓を囲んだ記憶が蘇る。家族団欒の再現のような温かさが、和室へ薄らと満ちていく。黄昏たそがれが室内に夜を運び、闇の気配が深くなる。線香花火に似た夕日の残光の赤さはまるで、命のように薄幸だった。家族の、命のようだった。

「……」

 ――家族。の絆を妬ましく思った、一人の哀れな鬼の女。

 の女の怨嗟が、全てを壊した。イズミの最愛の家族を殺して、皆を破滅させたのだ。イズミがれを知ったのは、全てが終わった後だった。

 だが、貞枝への憎悪の感情は、ほとんどと言っていいほど湧かなかった。れこそ妬ましく思っても不思議ではないのに、イズミは貞枝を恨まなかった。否、流石さすがれは嘘だった。屹度きっとイズミの本心は、貞枝を憎いと思っている。

 ただ、感情が判然としないのだ。掴めはするが、手応えがない。実感が、すこんと抜けていた。まるで硝子がらす越しに、女の艶姿あですがたを見るようだった。貞枝の事が、よく見えない。人としての魂の輪郭がぼやけていて、そんな抽象的なものが破滅をもたらしたという事実が、いまだに信じられなかった。

 れとも、こんな風に思うのは、当時の〝言挙げ〟の所為だろうか。少女と呪われた絆を結ぶ為に、己が紡いだ長い台詞を思い出す。

 ――『憎悪』を、捨てる。

 杏花の清らかさを、拾う為に。れをいつか、返す為に。

 憎悪は、毒だ。〝清らか〟を食い潰す。悪感情を心へ溜め込み、何処どこにも吐き出せないままとどめたなら、其処そこで淀んで腐敗する。國徳くにのりが、イズミに教えたのだ。悪辣あくらつな〝言霊〟だけでなく、濁りを極めた感情もまた、己の心を壊すだろう。

 そんな負の感情は、美しい言葉を生みはしない。言葉に、魂が宿らない。清らかな魂が、宿らない。れはとても寂しいことだと、イズミは何度でも思うのだ。

「克仁さん。貴方は、貞枝さんを憎んでいると思いますが……僕は、もう判りません。疲れ過ぎたからかもしれませんし、僕が人を恨まぬと決めた所為かもしれません。……克仁さんは。貞枝さんの事を、どう思いますか」

 何となく克仁に訊ねた直後、嗚呼ああ、またやってしまった、とイズミは己の失敗に気づいて苦笑した。論点のけた問いかけは、確かれで二度目だからだ。

 一度目は、父が来日の意向をイズミにしらせた時の事だ。

 あの国際電話で両親の離縁を知った時も、感傷の理由を追及しようと、イズミは母の名を挙げて訊ねたのだ。どんな答えが欲しいのかさえ判っていない体たらくで、闇雲に手を伸ばそうとするの足掻きは若さだろうか。本当に、イズミは青年のままだった。凍って時が止まったように。呆れ笑いしか出て来ない。

 れでも、克仁は答えてくれるだろう。九年前と、同じように。

 だが、克仁はイズミに答えを与えなかった。此方こちらが期待したものとは異なる別の言葉を、溜息のような優しさで、ひっそりと告げただけだった。

「……イズミ君。君は先程、私の言葉が致命的な矛盾を含んでいるといましたね。の矛盾を明かしてしまえば、此処ここで私達が話してきた事、全てひっくり返りますよ。れでもえて、いましょうか」

 イズミが黙っていると、克仁は苦笑いを浮かべた。イズミが疲れたように、克仁もまた疲れたのだ。〝アソビ〟疲れてしまったのだ。

「あの夜、貞枝さんは氷花さんの〝言霊〟を誘って、伊槻さんと共にの世から消えました。失踪者扱いになって既に七年以上経ちますし、國徳くにのりさんが伊槻いつきさんの遺族と相談してから、彼等の死亡届けを出したと聞いています。……なるほど確かに、矛盾しますね。『皆、居なくなっちゃえ』とわれて、伊槻いつきさんが消えるのは道理でしょう。ですが、もう一人の方は道理に合わない」

 克仁は、嘆息した。微かに訝しげに、れでいて同時に不服そうに。

「一体、どういうわけでしょうね。〝同胞〟であり、〝言霊〟が効かないはずの貞枝さんまで、一緒になって消えるとは。実に不可解です」

「……その矛盾、貴方はどう解明するのです?」

 イズミが問うと、克仁は疲れの浮いた顔で「何、簡単なことですよ」と答えて、丁寧に説明してくれた。

「〝同胞〟には、異能は効かない。の大前提は、一体誰が作ったというのです? 実際に、呉野貞枝は〝言霊〟で消えましたよ。事実が証明しているのですから、〝同胞〟であれ他者から受けた異能の影響力は、決して皆無ではないという事でしょう」

「ですが、克仁さん。僕に氷花さんの〝言霊〟が効いた事はありませんよ。何度も死ねと言われていますが、何の問題もありません」

「君は携帯電話解約の件で、相当な恨みを買いましたからね。君、氷花さんが陰で泣いていたことを知らないでしょう。悪戯いたずらに苛めるものではありませんよ」

 克仁はイズミを嗜めながら、当時の遣り取りを思い出して可笑しくなったのか、小さく吹き出す。うして一頻ひとしきり笑ってから「普通ならば、効かないのだと思いますよ。〝同胞〟同士での異能は」と切り出した。

「〝同胞〟同士では異能は効かないという大前提は、異能の家系、呉野の人間たちの経験から得た解釈です。おおむね間違ってはいないはずですが、例外もあるという事でしょうね」

「貞枝さんが〝言霊〟で消えたケースは、その例外だったというのですか? どういう条件が揃えば、そんなことになるのです」

 克仁は、しばし黙考の姿勢を見せた。

 異能がもたらしたの怪事を、克仁は可能な限り論理的に解釈しようと努めていた。何かしらの考えがあるに違いない。ただ、れを口にしていいものか迷っている。葛藤かっとうと呼ぶには大げさだが、克仁にはの答えを告げるに足るだけの証拠がないのだ。付き合いの長さから、イズミはれを悟っていた。

 長くも短くもない沈黙の果てに、克仁は「恐らくは、『同意』ではないですかね」と、思案気な様子のまま言葉にした。

「あの時の貞枝さんは、氷花さんの〝言霊〟を受け入れる気でいました。彼女の異能にって破滅することを受け入れていて、の異能への拒絶と抵抗は、あの瞬間、彼女の心には欠片もありませんでした。――魂の込められた言葉を、受け入れること。れこそが、〝同胞〟同士であっても己の異能を相手に届ける為に、必要な条件なのではないか、と。推測することは可能ですが……やはり、憶測の域を出ませんね。せめてもう一例ほど実例を見ないことには、断言するには厳しいでしょう」

「……」

 なるほど、とイズミは得心した。一理あると思ったのだ。

 ――言葉に込められた魂を、拒絶せずに受け入れる。

 懐かしい記憶が、脳裏をさっと駆け巡った。の知識を授けたのも、思い返せば克仁だった。確か、真名を〝言挙げ〟するだけでも、言葉に魂が宿るという。そんな剥き出しの魂を守る為に、異性に名を明かしてはならない。の行為は、己の全てを相手に委ねることになるからだ。

 魂の支配を、許してしまう。そんな風にも、取れる行為。

 まるでちぎりのような遣り取りから、明瞭に蘇る言葉が、たった一つ。

 ――コトダマアソビ。

 イズミと杏花の、二人の〝アソビ〟。

 貞枝が消えた理由は、本当に克仁の言うような理由なのか。確かに根拠はないだろう。だが、正鵠せいこくているとイズミは思った。九年前に消えた女も、屹度きっと其の正しさを信じたのだ。だから、あんな賭けに出た。

 もし、の賭けに敗れて〝言霊〟で死ねなかった場合は、宣言通りに『伊槻いつきを殺して自分も死ぬ』心算つもりでいたのだろう。其処そこまで思索が行き着くと、酷く空虚な気分になってしまった。

 ――貞枝が〝言霊〟で死ねば、の死は杏花の所為になる。

 だが、たとえ〝言霊〟で死ねずに伊槻との無理心中を選んだとしても、あの時の貞枝は〝言霊〟による狂気を演じていた。杏花の罪を偽装したのだ。

 ――〝言霊〟で死のうが、無理心中で死のうが、どちらにしても同じなのだ。貞枝によって着せられた親殺しの罪は、等しく杏花の魂をけがしている。

 そして、あの時の貞枝は――の両方を、やってみせた。

 克仁も同じことを考えていたのか、顔が悔しげにしかめられた。

「恐ろしい程に、計算くの殺人です。事態がどう転んでも、氷花さんの罪になるように出来ています。……怖い女です。本当に」

「ええ。そうですね。ですが、その事実をもってしても、僕は氷花さんに同情はしていませんよ。……杏花さんには、していましたが」

「……。君。さては、自分でも判っていませんね」

 克仁が、じろりとイズミを睨んだ。

「君は、氷花と杏花を分けて考えようとしています。のくせ、二人を同一視しようともしていますね。どっち付かずですよ。イズミ君」

「……そうですね。克仁さん。僕は、どっち付かずです」

 イズミは、素直に認めた。

 無垢で天真爛漫な杏花への、れは屹度きっと未練だろう。六歳の清らかな魂に、生きていてほしいと願っている。同時に、れが叶わぬ夢だという事を、イズミの理性は知っているのだ。

 幼子であれ、人を殺せば殺人鬼。親に手引きされた殺人であれ、手を下したのは杏花だ。克仁はあの惨劇を親殺しではなく計画殺人だと言ったが、名前が変化しただけで、杏花の罪は変わらない。大人達を殺した罪は、杏花が永遠に背負っていくものだ。

 そんな少女を、イズミは氷花として扱って、九年の歳月を共にした。

 違う人間であり、同じ人間。矛盾を抱えた内面を見つめるうちに、嗚呼ああ、とイズミは声を漏らした。

 イズミは、ただ時間を巻き戻したいだけなのだ。

 清らかな、あの夏に。まだ全てが壊れてしまう前の、幸せな家族の時間に。そんな甘やかな夏の時に、己が戻りたいだけなのだ。

「……克仁さん。僕は、國徳くにのり御父様と過ごすと決めた夏の終わりに、『左様さようなら』と言いました。ですが、未練を断つ言葉を〝言挙げ〟しながら、未練を断ち切れてはいなかったようです。これは、貴方の言葉を聞くまで判らなかったことです。有難うございました」

「君は素直ですね。ういうところが、坂上さかがみ君に少し似ています」

「彼には、また今度お会いした時に、改めて謝らせてもらいます。僕は拓海たくみ君が好きになりました。もう妬んではいませんので、ご安心ください」

 イズミの言葉を聞いた克仁は、安心した様子で微笑んだが、ふと何かを思い出したのか、呟くように言った。

「イズミ君。貞枝さんの遺書は三通ありましたね。隠された一通が此方こちらで、残る二通は、あの〝映像〟で杏花さんが貞枝さんから託されていたものですね。先程もいましたが、一通は君宛てだと聞いていますよ」

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