3-6 保健室

 白い壁、白い床、白いカーテン。白を基調とした保健室へ吹き込む風が、桜の花弁はなびらを運んでくる。書類も紙吹雪となって床へ散らばり、簡易ベッドを仕切る布のパーティションの水色が、目に鮮やかなほどの白さだった。

「ええと、篠田さんね。ごめんなさい、散らかってて」

 保健室の教師は弁解し、七瀬の指を見て息を呑む。「そこに座って」と指示されたが、非現実的な白さに幻惑された七瀬は思うように口が利けず、緩慢に室内を見回した。

「何、これ」

「色々あったのよ」

 白衣の女性教師はガーゼと消毒液を準備しながら曖昧に濁し、七瀬の質問に答えなかった。代わりに「座りなさい、篠田さん。手を見せて」と早口で言われたので、七瀬は金縛りが解けたように上履きをスリッパに履き替えて、のろのろと室内に入り、回転椅子に腰掛けた。

「調理実習ということは、包丁で切ったの?」

「いえ、何で切ったのかは分からないんですけど……」

 七瀬は口を開いたが、どう説明すればいいか分からない。それに、意識は保健室の惨状へ向いたままだ。床には書類の他にも消しゴムやメモ用紙など、重さの軽いものも落ちていた。事務机には紙束とダイヤ型のペーパーウェイトが雑多に積まれているので、保健室の教師はこれらを拾っている最中だったのかもしれない。一際強い風が吹き、桜の雨が開けっ放しの窓を越えて、七瀬達に降り注ぐ。この所為で、部屋が滅茶苦茶になったのだ。

「窓……閉めないと。先生」

「こっちが先でしょう。じっとしていて」

 消毒液で湿した綿で、ちょんちょんと傷口を突かれた。「痛っ」と悲鳴を上げた七瀬は涙目で相手を睨んだが、保健室の教師は七瀬の抗議には見向きもしない。不機嫌が顔に出ているので、片付け中にやって来た七瀬が邪魔で苛々しているのかもしれない。予想はできたが、だからと言って今の八つ当たりのような仕打ちを許せるかどうかは別問題だ。

「先生。保健室、どうしてこんなに滅茶苦茶になってるんですか?」

 改めて七瀬は訊いてみたが、保健室の教師は「治療が先よ」と譲らなかった。きっと七瀬の傷の手当てが済んだ後には「授業が先よ」とでも言うつもりだ。反発から七瀬がむくれた時、背後から「どうしたんですか?」と声がかかった。

 振り返ると、東袴塚の体育教師と森定がいて、「うわっ。戸田とだ先生、何事ですか」と叫んでいた。冷たい春風に乗った桜が、廊下にまで零れたのだ。

 保健室の教師――今知ったが、戸田というらしい――は、二人の姿を認めた途端、ぱっと顔色を明るくした。同僚が来て安堵したのだろう。七瀬一人を相手にしている時とは、態度に雲泥の差があった。

「ああ、丁度よかったです。先生、申し訳ないんですけど、窓を閉めて頂けませんか? 今、手が塞がっていて」

 言いながら、戸田は七瀬の指にガーゼを当てて、包帯をくるくると巻き始めた。体育教師は狐につままれたような顔をしていたが、我に返った様子で靴を脱いだ。先程の七瀬と同じ感慨を抱いたのだろう。大人と同じ感性が自分にも備わっている事が、少しだけ不思議だった。教師は桜の花びらをスーツにくっつけながら歩き、開け放たれた窓を閉めた。

 す、と。風の音が、テレビの電源を落としたかのように、止まる。

 唐突に訪れた静寂が、大人ばかりが集結した保健室に、重く落ちた。

 誰もが一瞬口を利くのを憚ったが、口火を切ったのは森定だった。

「一体、何事ですか。これは」

 それは一度七瀬がぶつけた質問だったが、全く相手にされなかった質問だった。

 問われた戸田は、ほっとした顔つきで、口を開きかけたが――ちら、と七瀬を意味ありげに見てきた。

「……」

 邪魔だから出ていけと、そう言いたいのだろう。有難いほど分かりやすい。

 同性の倦厭の目とは、どうしてこうも腹が立ち、どうしてこうも許せないのだろう。本当に不思議だと七瀬は思う。きっと七瀬たち女子生徒の遺伝子には、喧嘩の相手を完膚なきまでに叩き潰さなければ気が済まない、陰険で業の深い闘争心が織り込まれているに違いない。

 ならば、上等だった。先程の件もあるので、ここで折れる気はなかった。にこりと無垢を装って笑って見せると、七瀬は回転椅子に居座り続けた。戸田の眼差しに苛立ちがこもり、これ見よがしに溜息を吐かれてかちんときたが、七瀬は笑顔をキープする。相手も引き攣り笑いで応じてきたので、七瀬は足をぶらぶらさせて、退く気はない意思をアピールした。最早水面下ではなく堂々といがみ合っていると、「先生、この子は口が堅いと思いますよ」と森定が助け舟を出してくれた。少し面白がるような顔で「どいつもこいつも、血気盛んだな」と付け足されたので、七瀬のような強情張りが、他の教え子にもいるのだろう。たしなめられた七瀬が気まり悪さから目を逸らすと、戸田も居心地悪そうにそっぽを向いた。

「どうしてこんなに散らかっているんです? 他の生徒もここに来たらびっくりすると思いますよ。差し支えないところまでなら、話を聞かせても問題ないのではありませんか?」

「……はあ」

 戸田はもう一度溜息をついたが、今度は七瀬を追い払う為ではなく、観念の溜息らしい。戸田はそれでも言い渋ったが、教師二名を待たせているからだろう、重い口を開いた。

「ついさっきまで、そこのベッドで女の子が一人寝ていたんですよ。頭が痛いとか何とか言って。仮病でしょうけどね。体育のマット運動が嫌なんでしょ」

「その女子生徒がどうしたんです?」

 教師が訊くと、戸田は困った様子で頬に手を当てた。

「いなくなっちゃったんです。その子」

「いなくなった?」

「ええ。突然。いきなりなんですよ」

 戸田は、大きく頷いた。語りながら、興奮してきたらしい。窓を恨めしげに振り返っている。

「本当についさっきまで、そこでゆっくりしていたんですよ。でも、その子はお手洗いに行くと言ってベッドを出て、扉の方にゆっくり歩いて行ったんですけど……そこで、急に様子が変わったんです。お化けでも見たような顔だったわ。真っ青だったんですもの」

 戸田は、不可解そうに首を捻った。

「それからよ。いきなり凄く焦り出して。殺されるから匿って欲しいなんて言い出すし。わけを訊こうとして、名前を呼んだら……思い切り突き飛ばされました。その子、それからどうしたと思います? いきなり窓を一つ全開にして、スカートまくって飛び出していったんですよ。そこの窓から、飛び降りて!」

 どんどん恨み節を効かせながら、戸田は熱っぽく語り出す。その熱弁を聞く全員が、肝を潰した顔で黙りこくった。七瀬も、唖然としてしまった。

 殺される? スカート捲って飛び出した?

 女の子が――逃げた?

 ……あまりの奇行に、掛ける言葉が見つからなかった。

「まあ、一階だから怪我はないでしょうけど。追いかけようにも今日は風が強いですから、この有様で。篠田さんも丁度来たし、身動きが取れなかったんです」

 話を締め括った戸田は、椅子からすっくと立ち上がった。

「私、呉野さんを探してきます。篠田さん、あなたは授業に戻るのよ。いいわね?」

 戸田はこちらへ、余計なことは喋るなよ、と威圧を込めた目線を寄越し、保健室から出ていった。そんな風に圧をかけるくらいなら、くだんの女子生徒の名前を最後まで徹底して伏せればいいのに。七瀬は呆れたが、戸田に治療の礼を言いそびれた事に気がついた。廊下を小走りで駆けていく戸田の背中へ「指、ありがとうございました」と叫んだが、振り返った戸田には「授業中よっ」と怒られた。今日は踏んだり蹴ったりだと思う。

 その時、ふと隣に立つ森定が「呉野……?」と呟いたのが聞こえ、七瀬は顔を上げた。森定は表情が硬く、何かを深く考え込んでいるようだった。やがて森定は眉根を寄せたまま、東袴塚の体育教師へ向き直った。

「小柴先生、お伺いしたいのですが……戸田先生はさっき、逃げ出した女子生徒を〝クレノ〟と呼ばれたように思うのですが。ひょっとして『い涼呉月すずくれつき』の呉に、野原の野で、呉野と書くのではないですか?」

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