3-5 他校生

 すぐに、まずい事をしてしまったと七瀬は気づいていた。

 去年の授業中に、鏡を触っていた女子生徒が、教師に見咎められて鏡を没収された事がある。その一件が脳裏を過ったからこそ鏡をポケットへ隠したのだが、血の付いた指ですべきではなかった。

 夕暮れの色彩をほんのりと帯び始めた無人の廊下で足を止めると、上履きが床に擦れる音もぴたりと止んだ。そうなると七瀬の耳に聞こえてくるのは、遠い調理室の喧騒と、グラウンドで野球をしている生徒達の声援、窓枠が風に叩かれて小刻みに揺れる音だけだった。

 七瀬は周囲をそろりと窺い、エプロンの裾を左手で捲り――渋面になった。

 スカートは、血でべったりと汚れていた。指が布地を滑った痕まで残っていて、ミステリードラマに出てきそうな事件被害者の様相を呈している。スカートがシックな紺色なので目立たないが、それでも制服を血で汚してしまった事に七瀬は少なからずショックを受けた。これでは経血に見えてしまう。

 同じようにスカートを汚してしまった同級生を、七瀬は以前に見た事がある。周期の安定しない生理に、まだ慣れていなかったのだろう。せめて自分で気づきたかったはずだが、周囲が先に気づいてしまった。友達に庇われながら教室を出ていったその少女は結局ジャージに着替えたが、普段そんな格好で帰宅などしないので、恥ずかしくて堪らなかったと思う。当時も可哀想だと思ったが、今こうして似た状況に立たされてみると、あの時の自分は生理で俯く少女とは他人で、文字通り他人事だったのだ、と。そんな風に思ってしまった。

「はあ……最悪」

 エプロンで血痕を隠した七瀬は、落胆を振り切って保健室へ急いだ。せめて人気ひとけがない時間帯で助かったが、考えてみれば授業中だからこそ、鏡を慌てて隠したのだ。結局は七瀬の不真面目な授業態度の所為だった。先程までの散漫な思索の数々を思うと、何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。

 ……普段、こんな風にうじうじと考え込むことなんて、ほとんどなかった。

 根が短気だからだろう、悩む前に怒っていたからだ。小学生の頃は、男子とも取っ組み合いの喧嘩をよくやった。だがそれは小学生だから許容された行為であり、変化を拒んで我を通せば、七瀬は女子コミュニティから弾かれるだろう。

 それでも七瀬は、我慢の限界を迎えた瞬間、螺子が飛んだように怒るだろう。見栄と体裁と姑息さが、七瀬の理性を繋いでいる。そこへの執着を振り切った途端、七瀬は以前の七瀬に戻るのだ。

 悩むよりも、怒ればいい。ミユキに、夏美に、『大人しい』少女達に? ……やっぱり、今は駄目だった。

 指の傷口が、じくじくと熱く痛む。夏美に指摘されるまで気づかなかったが、本当にどうしてこんな怪我をしたのだろう。気味の悪さを抱えながら、七瀬は廊下の突き当たりを曲がり――足を止めた。

 声が、聞こえてきたからだ。

「……でも、良かったなあ。お前の事、まだ見込んでくれてるみたいだぞ。本当にいいのか? 棒に振って」

「いいんです。っていうか、もう俺はほとんど活動してないのに、そんなんでいいんですか。部長だって、もっと適任いると思うし。鈍ってるんで、使い物にならないと思います」

「鈍ってるわけあるか。立派に部の皆を率いてくれているじゃないか」

 校舎一階の、保健室や職員室が並ぶ廊下に――三人の人間が立っていた。

 一人は、中年の男性だ。ごつごつした手の甲は日焼けの名残なのか浅黒く、身体つきはスーツの上からでも分かるほど精悍だ。七瀬は女子中学生の平均身長よりやや高いくらいの背丈だが、目の前の男はまるで壁のようだ。

 屈強な男の傍には、一組の男女がいた。歳は七瀬と同じくらいに見えたが、男女共にブレザーは濃紺で、スカートとズボンは青と白のチェック柄だ。

 袴塚西こづかにし中学の制服だ。ここからは少し遠い学校だが、七瀬の近所の学習塾に袴塚西の生徒が通っているので知っている。女子の制服のリボンタイが洒落ていて、金色のボタンが印象に残っていた。生徒の引率らしき男の体格にも七瀬は驚いたが、目の前の少年少女も、奇抜さでは大人に引けを取らなかった。

 少年は満身創痍で、頬と手の甲に、剥がれかけの絆創膏をぺたぺたと数枚貼っていたのだ。一般的な茶色の絆創膏ではなく、ピンクやオレンジといったポップな色彩の絆創膏だ。

 しかも、ファンシーな絆創膏まみれの少年は――隣の少女と、手を繋いでいた。

「……」

 何故、他校の学生達が、七瀬の学校で手を繋いでいるのだろう。それに、少年と会話を弾ませる男の声にも、からかいのニュアンスが見当たらなかった。

 絆創膏の少年はかなり大柄だが、対する少女はかなり小柄だった。発育不良を疑うほどの小ささから兎やハムスターといった小動物を連想し、可愛い子だな、と七瀬は素朴な感想を持ったが、その手を握る少年との体格差が凄まじかった。大きな熊が小さな兎を連れているように見える。

 呆然としていると、ちぐはぐな身長差カップルの男子の方が、七瀬に気づいた。引率の男も顔を上げたが、栗色の髪をハーフアップツインに結った少女だけは動かなかった。七瀬は見知らぬ二人からの視線にたじろいだが、先に相手を眺め回したのはこちらだ。軽く頭を下げようとすると、少年が「あ」と声を漏らした。

「監督、俺ら邪魔」

「なんだ? 三浦」

「保健室。三人もいたら塞ぐから。先生を待つ場所、変えませんか」

「ああ、しまった。じゃあ、先に会議室で待っていなさい。すぐに行くから」

「はい」

 応えた少年が、少女の手を軽く引いた。少女は緩やかに顔を上げたが、それ以上の反応を見せなかった。琥珀色の瞳に微かな困惑が過った気はしたが、あまり表情が動かない。そんな少女と握り合う手を、少年がそっと離した。

 一体何をするつもりなのかと見守る七瀬の前で、少年は少女の肩に腕を回し、自然な動作で引き寄せた。そのまま軽く屈みながら、もう片方の手が少女の下肢に伸びて――ひょいと、少女を抱きかかえた。

「え、えぇっ?」

 ……姫抱っこなんて、初めて見た。あんぐりと口を開けた七瀬を、少年は少女を抱えたまま一瞥し、照れた様子など一切見せずに「指、血ぃ出てるぞ。大丈夫か?」と、朴訥とした声音で訊いてきた。

「あ……うん。平気」

 七瀬が頷くと、少年は浅く頷き返し、こちらに背を向けてすたすたと歩き始めた。呆気に取られた七瀬が慌てて「あ、ありがとう……?」と礼を述べると、顔だけで振り返った少年は「ん」と答え、廊下を黙々と歩いて行ってしまった。

 白昼夢を見せられた気分になっていると、場に残った男が七瀬を見下ろしていた。目が合った七瀬は驚いたが、相手はもっと驚いていた。先程の少年の指摘で、七瀬の怪我に気づいたのだ。

「君、大丈夫か? いや、本当にすまなかった。邪魔だっただろう。早く先生に診てもらいなさい」

「あ……多分もう血は止まったから、大丈夫ですけど……あれは一体……?」

 初対面ということも忘れ、気もそぞろに七瀬が訊くと、ああ、と男は厳つい顔の表情筋を不意に緩め、温厚に笑った。

「気にしないでやってくれ。あの子は、ちょっとした不自由を抱えてるから。途中まではいけると思ったんだが、無理をさせ過ぎたか。悪いことをしたなあ」

「?」

 七瀬は首を捻ったが、やがて薄らと察しがついた。男の笑みに、悲しみに似た何かが通ったからだ。

 ――少年が連れて行ったあの少女は、何らかの障害を抱えているのだろう。

「ここで見た事は、何も言わないでくれないか。他校で噂なんかになれば、あの子が可哀想だからな。芯は強い子だが、強いからって人間、何でも耐えられるわけじゃないんだ」

 語り口こそ優しいが、重い言葉だ。身長差カップルだの姫抱っこだのと、浮かれている場合ではないのだ。七瀬が神妙に頷くと、男は重くなった空気を吹き飛ばすような豪胆さで笑った。

「ああ、先生はな、袴塚西中学で体育教師と、野球部顧問をやってる森定だ。東袴塚中の野球部と、近々春の交歓会をやる事になってるんでな。その事前打ち合わせで、うちの野球部部長とマネージャーを連れて来た」

「袴塚西の、先生?」

 目を瞬いた七瀬は、道理で、と納得した。それならば、他校の生徒がここにいるのも頷ける。しかし帰宅部の七瀬には、会合の中身がぴんとこない。

「野球部の交歓会って、どういうことをするんですか?」

「まあ、小難しいことはどうでもいいから、皆で仲良く野球しようぜっていう会だな」

 他校の体育教師は、実に適当な説明をしてくれた。緊張が解れ、七瀬は小さく笑った。森定は、袴塚西中学で生徒から好かれているに違いない。

「それじゃ、お大事にな。調理実習、大変だなあ」

「大変ですよ。退屈だし、つまんない」

「先生相手に言うか? まあ、ここだけの話、先生も学生の時は調理実習が嫌でフケてたクチだから、あんまり偉そうな指導はできないんだがなぁ。まあ、適当に頑張れ。怪我してるのに、引き留めて悪かったな」

「いえ、ありがとうございました。適当でいいなら、頑張ります」

 ――頑張れ。

 ……母が、よく使う言葉だ。

 七瀬はあまり好きな言葉ではなかったが、目の前のこの教師から聞くと、不思議と抵抗が少なかった。七瀬は森定に一礼すると、保健室の扉の前に立った。丁度背後でも職員室の扉が開き、東袴塚学園の方の体育教師が出てきた。大人同士のやり取りを耳に入れながら、七瀬はそっと廊下の様子を窺った。

 会議室のある一角は電気が点いておらず、一列に並んだ曇り空色の磨り硝子が、寒々しさを煽っている。先程の少年と少女は、会議室の扉をなんとか開けて、室内へ入るところだった。

 胎児のように抱えられた少女の手が、少年の頬と首筋の絆創膏に触れる。そして恐る恐るといった様子で、少年の首を抱くのを、七瀬は見た。

 普通であれば、教師が真っ青になって止めに入りそうな光景だ。少女の抱える障害が何なのか気になったが、同時に見てはいけないものを見てしまった気分になり、単純な羨ましさも二人に感じた。少しだけ熱くなった頬を誤魔化すように、七瀬は保健室の扉をノックした。

 だが、返事がなかった。

「……?」

 首を傾げた七瀬はもう一度ノックし、今度は返答を待たずに、扉を開けた。

「失礼します」

 ――ひゅうう、と。風が、頬に吹き付けた。

 七瀬は、保健室に足を踏み入れかけて――止まる。

「……あら、ごめんなさいね。気づかなかった。どうしたの?」

 保健室の女性教師が、七瀬を振り返る。その表情には驚きがあった。二度のノックに気付かれなかった理由を、七瀬も目の当たりにしていた。後ろ手に扉を閉める事も、入り口でスリッパに履き替える事も忘れて立ち尽くす七瀬の髪とスカートを、風が音を立てて揺らしていく。

 ……窓が、開いているのだ。

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