2-11 和泉
「小学五年で二人、転校しました。でもそれを俺はあんまり覚えてないし、さっき陽一郎に言われてやっと思い出したくらいです」
いきなり級友の名など持ち出せば初対面の人間は当惑するが、相手は先程の話しぶりから、明らかに陽一郎を知っている。迷路のような住宅街を確固たる足取りで進む和泉は、興味深そうに青色の目を
「成程。記憶が薄いのですね。本当はこのような言い方をするのは、僕の美意識に反しますが、致し方ありません。――君達は小学五年生の時、ナデシコの花を植えましたね。一本のケヤキの木の周りに、皆で鉢を並べて。それらが花開いた時、一輪の例外を除いた全ての花が、誰も知らないうちに切り取られました。犯人は、
「! なんで、それ知って」
「僕は氷花さんの兄ですので、少しばかり詳しいのですよ。ああ、思い出せなくても結構です。君はあまり仲良くしていなかったようですから。
「紺野っ……?」
入り組んだ住宅街の角を何度も曲がりながら、柊吾は思わず訊き返す。
「そういや、陽一郎が言ってたな。……俺は昔、陽一郎と、雨宮って女子とつるんでて、陽一郎には他にも仲良くしてる奴がたくさんいて……俺はあんまり交流なかったけど、明るい奴と、内気な奴がいたと思う。その二人共が転校して……内気な方が、紺野だった」
「ええ。その通りです。……その紺野沙菜さん。〝転校〟した後、どうなったかご存知ですか」
「え? いや……」
一拍の間が空いた後、聞こえてきた声は冷えていた。
「お亡くなりになりました。交通事故だそうです」
「!」
絶句する柊吾へ、和泉は悲しげに微笑みかけた。
「転校後の学校に、まだ馴染んでもおられなかったでしょう。そんな折に、車に撥ねられたそうです。今は、その事実だけを念頭に置いて下さい。君に詳しい説明をする時間が残されていないのです」
「呉野、さんが……何の話してんのか、分かりません」
言い返す声が、少し震えた。驚く気持ちは大きかったが、こんな状況で突然ぶつけられた級友の死を前にして、正しい反応を決められない。故人には悪いが、今柊吾が知りたいのは陽一郎の事だ。紺野沙菜の事ではない。この話が何の為のものなのか、柊吾には理解できなかった。
「理解できなくても結構です」
和泉は胸中の疑問を掬い上げたかのように言い切った。どことなく素気無い態度にも思え、出会ってからずっと柔和な態度を取り続けてきた男の焦燥が、初めて分かりやすい形で伝わってきた。
「あと、僕のことは和泉で結構ですよ。妹と同じ苗字では呼び辛いでしょう。……柊吾君。君は〝言霊〟という言葉をご存知でしょうか」
「言霊っ?」
「声に出して発した言葉には力が宿り、現実に対して何らかの影響を与えるという考え方です。良い事を言えば良い事が、良からぬ事を言えば、良からぬ事が起こります」
「ちょっ……ほんとに何の話してるんですか!」
それどころではないはずだ。柊吾は噛みついたが、和泉は「真剣な話ですよ」と律義に返し、脇道に逸れているとしか思えない語りを続行した。
「現実の事件に置き換えてみれば多少は分かりやすいかと思います。『誰でも良かった』という理由で他者を
「難しすぎて、分かんねえっ!」
頭がパンクしかけて絶叫する柊吾だったが、労わるようにこちらを見た和泉の目は、先程の言葉通り真剣だった。
「言霊とは本来、聞き手の存在は関係ありません。声に出しさえすれば、それが現実を変容させます。
「なっ……何、言って……!」
「僕の妹の話ですよ。君も気づいていたのでしょう? あの子が時折、どんな目で人を見ているかを」
言われて、ぎょっとした。
――柊吾以外にも、気づいている人間がいたのだ。
「日本には古来から『言霊の
風を切って走る柊吾は、言葉の突飛さに呑まれていた。氷花の顔を思い出す。暗鬱なしたたかさで赤く歪んだ、悪意の笑みを思い出す。
「……柊吾君。君は、狙われているわけではありません。にもかかわらず、これに関わろうとしています。それは何故ですか」
――狙われている?
柊吾は唐突な言葉に戸惑ったが、隣を走る和泉は「何故です?」と繰り返した。
「君は今、友達の為に走っていますね。それも、嫌いだと一度は思い詰めた友達の為に。君にとってその友達は、許せない存在のはずです。なのに君は、その友達の為に走っています」
柊吾は、驚いた。何故、これほど知っているのか。追及しようとしたが、和泉が走る速度を上げ始めた。なかなかの俊足だ。柊吾もペースを上げると、家々の屋根の隙間から、濃い緑の枝葉が見えてきた。
――山だ。住宅街という海原に浮かぶ孤島のように、小さな山が人々の営みに共存している。逞しく茂る木々を見上げた柊吾は、すぐに和泉へ視線を戻し、
「……イズミさん。人の心でも読めるんですか。あと、最初に言っときますけど。俺、イズミさんの妹の事、あんまり良く思ってません」
「承知しております。あの子が悪いのですから、致し方ないことです」
和泉の呼吸が乱れ始め、言葉が途切れがちになっていく。
「君が友達を追う感情を、僕は、察することができるのですが……叶うならば言葉として、君の口から聞きたいのです。僕は日比谷陽一郎君の事を知っていて、彼がこれからどうなるのかも見当がつきます。だからこそ、君の力にもなれるのです。何故、君は、一生懸命になれるのか。それを声の形で発した言葉で、僕に教えて頂けませんか」
「どうして、そんなことが気になるんですか」
「僕は、人が好きだからです」
和泉は額に汗を浮かべながら、柊吾を見下ろして笑った。
「僕は人が好きなのです。異邦人の僕を受け入れて下さった御父様も、気さくで明るい友人も、その友人が幸せを願った二人の愛の先行きも、その愛の在り方も、人と人とが紡ぐ未来も、全てが愛おしいのです。その愛が友愛であれ恋愛であれ家族愛であれ、貫く姿が美しい。人の為に一生懸命になれる人の事が、僕は、とても、愛おしいのです。誰も失いたくありません。失うのは、厭なのですよ。……ですから」
和泉は言葉を切って立ち止まった。
柊吾も立ち止まったその場所は、山へと差し掛かる
「僕は、君を立派だと思っていますよ、柊吾君。……ですから、どうか。君がここから先へたった一人で進む事を、僕に安心させて頂かなければ、困るのです」
柊吾は、和泉を見た。
「あの子は、外道です。悪鬼です。ですが、僕の妹です。家族です。中学二年の少女であり……子供です。人間です。君と、同じ。――君は、かけがえのない友人二人の
「……この先に、何があるんですか」
「おそらくは、僕の妹がいるかと。そして、君の探し人も」
和泉は回答を促すように、柊吾と目線を合わせてくる。
青色の目に揺れる感情の波は、やはり慈悲だった。
――『愛』
そんな言葉が、脳裏を過った時――ああ、と柊吾は悟った。
この男の姿は、父のようだった。柊吾の母、遥奈へ愛を囁く、三浦駿弥の姿そのものだ。この男の身の内のほとんどが、純度の高い『愛』で占められている。
「……」
気が、変わった。これが激励なのだと気づいたからだ。
詳しい説明は、和泉曰く『時間がない』ので得られないらしいが、どうやらこの先にいるのは氷花であり、陽一郎も一緒にいる。
和泉の『探し人』は、間違いなく氷花だろう。
その上で――喧嘩の役割を、柊吾に譲ってくれるらしい。
――それに。
緊張と興奮で、
柊吾は、陽一郎が異変を見せた時の、あの奇妙さを思い出していた。
――呉野氷花と日比谷陽一郎。
アンバランスな、組み合わせ。まるで『愛』を囁くように、陽一郎の耳元へ寄せられた唇の赤色。その直後の陽一郎の、悪霊に憑かれたような変貌。
――〝コトダマ〟。
「……」
先程は、馬鹿にしていた。だが、もう、今はしない。
信じることの愚かさを、理性的な自分が諭す。だが、全て捨て置いた。
そんな脳の指図を、受け入れるだけの、冷静さは――たった今、焼き切れた。
分かったのだ。
敵が、誰か。
「……さっきの、転校の話。もう一人の奴は、無事ですか」
「ええ。そちらの方は大丈夫ですよ。……今のところは、と言うべきかもしれませんが」
「呉野、何したんですか」
「……」
「〝コトダマ〟って。さっきの。ガチですか」
「……」
「…………雨宮、やったの。あいつですか」
「それは君が、自分の目で確かめてくるといいでしょう」
「……」
「ああ、僕の妹だからといって、容赦は不要ですよ」
和泉は、笑う。
「君のお好きなように、正しいと思うことをすればいい。……きっと、大丈夫ですよ。君には『愛』の御加護があるのですから……」
その声を、柊吾は背中で聞いていた。石段を大股で上がりながら、「俺はっ!」と、振り向かないまま、柊吾は叫んだ。
「陽一郎のことなんかっ! ……大っ嫌いだ! あんな奴! 死ねって! 思ったけど! ……それでも! 助けてやるって、決めたんだ! ……それに。雨宮やったのが、もし、イズミさんの妹で、確定なら」
柊吾は一度だけ振り返ると、優しげにこちらを見守る異邦の男に向けて、まるで暴力のように、威圧を込めた言葉を叩きこんだ。
「ぶっ潰す」
――どうぞ、と。
笑みを含んだ愉快げな声を、柊吾は再び、背中で聞いた。
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