301話 旅立ちの暁闇

翌、早朝。日もまだ登らぬ、闇に包まれた朝。さくらは竜崎と共に、誰にも気づかれないように静かに寮を出た。


背には護身用の神具ラケットを背負い、肩には本物のラケットを無理くり詰めた学生鞄。一応この世界の服を巻いて保護してあるが、電池切れのモバイルバッテリーやスマホとぶつかって音が鳴らないように、ラケットの柄を手で押さえながら歩く。


そんな彼女が今着ているのは『学園』の制服でも、この世界の服でもない。元いた世界で来ていた、夏服のスクールブラウスとスカートである。


しっかりと洗濯、アイロンがけをして保存していたため、来た時よりもむしろパリッとしている。だが爽やかさが漂うそんな服とは対照的に、さくら当人の顔には迷いが浮かんだままだった。




これで、いいのだろうか。元の世界に帰るということは、この異世界に別れを告げるということ。仲の良い友達や、優しい先輩先生方、自分を守ってくれた大人達と二度と会えないかもしれないということ。


正直、さくらは後ろ髪を強く引かれていた。元の世界では絶対経験できない様々なことを、友達と果たしてみせた。時には貴族や王族から称賛の声まで貰いもした。きっと、この先この世界にいればもっと凄いことが味わえるということは想像に難くなかった。


そして何より、魔術。特に竜崎に壱から教わった精霊術は、今や他生徒だけではなく他教員も目を見張るほどとなった。もしこの世界で暮らしていくにしても、それらを活かせばゆったりと暮らしていけるだろう。


しかし、帰りたい気持ちも強い。お父さんお母さん、向こうの友達が心配しているだろうし、面白い動画も大分溜まっているはず。追っかけていたアイドルの新曲や、大好きな漫画の続巻、ゲームのアプデも出ているかもしれない。



どちらの世界が大切か。その解は出ないまま、さくらは首にぶら下げた御守りと身代わり人形をそっと握る。そして、そのまま目の前を歩く竜崎の背を見やった。



本当に、いいのだろうか。竜崎はやけにあっさりと『元の世界に帰れるかもしれない方法』の実行を請け合った。つまり、それだけ簡単なこと…。


なわけ、ない。そうであったら、竜崎は『帰る方法は見つかっていない』なんて言わないし、隠しもしなかった。きっと、『すぐ帰れるけど、少しこの世界を楽しんでいかないかい?』みたいなことを言ってくれたはずである。


『生贄』―。あのノートに書かれたその単語が、さくらの頭にべっとりと張り付いていた。あの謎の装置を動かすには、別世界出身であるどちらかがこの世界に残り、身を捧げなければいけないのだ。



そう、どちらかが…。わざわざ元の世界の恰好をさせたことからもわかる通り、竜崎はさくらを送り帰そうとしているのは間違いない。


(どうしよう…)


さくらは御守りを握る手を強める。竜崎もまた現代世界からの転移者。自身と同じように何も脈略なく来てしまったのは聞いている。つまり、彼もまた両親や友達に心配されているはずである。境遇は一緒。恐らく、帰りたい気持ちも。


幸か不幸か、あの装置の条件はノート曰く『同じ世界の出身』というだけ。


『竜崎を生贄に捧げ、自身が元の世界に帰る』、『自身を生贄に捧げ、竜崎を元の世界に帰す』―。選択肢はどちらか一つ。だがそんなもの、決められるわけはない。


救いを求めるかのように、さくらは幾度も竜崎に話しかけようとしていた。だが、彼の背はどことなく重く、遠く、静かだった。それを見るたびにさくらは目を伏せ、御守りを握るしかなかった。





「―くらさん。 さくらさん」


「はぇっ!?」


突然竜崎から話しかけられ、俯いていたさくらは素っ頓狂な声をあげる。それを微かに笑った竜崎は、杖で魔法陣を描きながら最終確認を行った。


「もう忘れ物は無いね? さっきも言ったけど、あの装置はここからかなり遠い。シルブ風の上位精霊を使って一直線に進むとはいえ、何時間もかかる。戻ってくることは出来ないよ」


「…はい」


ゴクリと息を呑んださくらは改めて記憶を辿る。元の世界から持ってきたものは全てバッグの中。部屋も出来る限り綺麗に整えた。


心残りなのは、友達にさよならを言えないこととと、この世界で得た物をほとんど置いていかなければいけないこと。荷物が多いと装置が上手く働かない可能性があるらしく、必要最小限に抑えなければいけなかったのだ。


ゴスタリアの姫様やアリシャバージルの貴族達を始めとした人々から貰った褒賞品や手紙、代表戦の準優勝トロフィー。ストックしておいた精霊石に、ネリー達と和気藹々しながら買った服や小物。どれもこれも思い出溢れる大切なもの。それらを全て部屋に置いてくるのは非常に苦しかった。



ふと、さくらは思い返す。そういえばこの世界に来て短い間、色んな場所に連れていってもらい、色んなことをさせてもらい、色んな話を聞かせて貰ったなぁ、と。


きっと、元の世界で同じような日数を過ごしてもそんなには出歩かないだろう。というか、恐らく家でゴロゴロしていただけな確信はある。


それらは全て竜崎による恩恵。彼がこの世界に居たから、この世界に先に生きていてくれたから魅せてもらえた美しい世界なのだ。


…それなのに、何も返せていない。連れ出してくれた恩も、魔術を教えてくれた恩も、命を救ってもらった恩すらも。


今が、それを返す時なのかもしれない。やはり、生贄となるのは―。


「さくらさん、どうしたの? トイレなら今のうちだよ」


「あ…いえ…」


普段と変わらぬ、優し気な様子で顔を覗き込んでくる竜崎に、さくらはそれしか返せない。また、言えなかった。竜崎の優しさに、甘えてしまった。






「シルブよ、力を貸してくれ―」


魔法陣が輝き、そこから緑の光が湧きたつ。現れたのは上半身鳥、下半身竜巻の姿の巨大な鳥、風の上位精霊シルブ。


(あれ…?)


さくらは首を捻る。どこか様子がおかしい。いつもならば召喚されたシルブは主の命に答えるため、高らかに鳴き勇むはず。


無論、まだ暗いから召喚主である竜崎が配慮させたというのもあるのだろう。しかし、それだけではないのは明確だった。


「クルルル…」


竜崎の顔を見るや否や、シルブは小さく呻き大きな嘴を竜崎に擦りつける。それはまるで、主の心配をするかのよう。


「わっ、どうしたの?」


竜崎も予想外だったのか、ちょっと困惑気味。するとそんな中、ニアロンが姿を現した。腕を組み、眉を潜めながら。


―お前の内心を見抜いているんだろう。 なあ清人、やはり…むぐっ―


何かを言おうとしたニアロンの唇に、竜崎は柔らかく人差し指を当てる。そしてゆっくりと首を横に振った。


―くっ…―


歯ぎしり一つ、竜崎の指を振り払うように、ニアロンは彼の身体に引っ込む。それをポンポンと撫でるように手を動かした竜崎は、くるりとさくらに振り向きはにかんだ。


「さ、元の世界に帰ろうか」

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