第45話 出動
「
京都到着まで残り十五分を切った頃、
壁一面にパネルや機器が並び、ひっきりなしに無線の音声が流れている。話し声と電子音が溢れる車両を進み、隅に位置するボックス席へ。角に榊が座り、その正面に翼、隣に
榊はやや前のめりの姿勢をとり、軽く開いた膝に肘を乗せる。周囲の職員の位置を確認すると、囁くような声で話し始めた。
「これから全体へ通達するが、【D】の出現数が確定した」
一体だけなら、わざわざ呼び出す必要はない。柊と翼の表情に緊張が走る。
壁に背を預ける榊の表情は、軍帽に隠れてよく見えない。
「目標は
大蛇型が二体――無意識に、安堵のため息が洩れる。神獣型でもなく、レアケースの大量増殖タイプでもない。
「それなら、いつも通りですよね?」
敢えて明るく尋ねた柊へ、榊は首を振った。
「出現から、既に三十八時間近く経過している。【D】は、時間経過とともに個体成熟が進み、加速度的に脅威が増す」
「……パワーアップしてる、ってことですか?」
「通常型が神獣型になるわけではないが、危険なことに変わりはない」
とはいえ、それだけなら現場指揮官である翼に通達し、彼女がみんなへ話せばいいだけだ。そのことに気づいた翼の頬が、緊張で強張る。
「それで、私と一緒に柊を呼んだ理由は」
榊は膝に肘を置いたまま、顔の前で指を組む。軍帽と指の隙間から、柊を覗き見るように視線を向けた。
「佐東。おまえが入隊前に経験した山犬型のようなケースでは、どう戦うべきだ?」
翼が柊を単独で追走したのは、“現場指揮官として最低の判断”、“自殺行為”と言われるほどの掟破りだったらしい。
つまり
答える柊に、翼も頷く。しかし、榊の視線は依然として鋭いままだ。
「そうだ。しかし今回は、佐東が単独で一体の【D】を担当し、残る二十三名で、もう片方と戦闘を行うことが決まった」
何を言われたのか、理解できない。
一拍おいて、翼は柊と榊の間で視線を往復させながら尋ねた。
「柊は、
「そうだ。佐東一人なら、他の隊員の目を気にする必要はない。それに、佐東は前回、二体目の【D】を単独で倒している」
「確かに柊は、身体能力も優れていますし、現状では
翼の膝に置かれた拳が、白く握りしめられる。
「彼は、これが二度目の出動です。不測の事態が起きた場合、彼をフォローする隊員がいないなんて……柊を殺すおつもりですか!」
「私も、そう進言した」
返す榊は、心なしか俯き気味に見える。
「佐東の個人戦闘能力の高さは、それを有効活用できる現場指揮官がいて初めて輝くものだ。第一、あまりにも経験がなさすぎる」
「このような無謀で危険極まりない作戦を提案したのは、一体、誰ですか!」
くちびるを噛んだ後、榊はそっと軍帽の鍔を引いた。
「提案ではない。長谷部司令からの
榊は二佐、昔の表現でいう中佐だ。対する長谷部は、中将。階級に疎くても、榊では長谷部の命令を撤回できないことは明白だ。
「この命令を撤回できるのは、内閣総理大臣だけだ」
「では、総理に撤回を求めましょう」
「現在の内閣総理大臣は、エネルギー問題や食糧事情改善のための技術革新に心血を注がれている。【D】災害は、全て長谷部司令に任せる、とのことだ」
「そんな馬鹿な!!」
いつの間にか、翼は席から立ち上がっていた。
絶望的な命令を言い渡された柊は、茫然と床を眺めている。すると榊は、翼から柊へ顔を戻した。
「確かに、佐東の経験不足は事実だ。しかし、そこにさえ目を
反論しようとする翼をそっと手で制止し、榊は冷静に語り掛ける。
「今回は、敵の発見まで一日半も要してしまった。恐らく、【D】の成熟は極めて危険な域にまで進んでいる」
床の汚れを眺めている柊の頭を、榊の説明が右から左へ流れていく。
定石通り、一体ずつ撃破を目指したとする。しかし、その状態で成熟の進んだ二体の【D】が合流した場合、小隊が壊滅しかねない。
それを防ぐため、
「長谷部司令の二面作戦を、私は、二体の【D】が合流しないよう
「それなら、まあ、何とかなるかもしれませんけど」
どこか虚ろな声で呟く柊の背を支えるように、翼の手が当てられる。だが、その表情は険しい。
「小隊長、やはり私は反対です」
「おまえの気持ちは、私とて痛いほど分かる。だが――」
「一番の新人を、たった一人で戦わせるなんて!」
その言葉に、柊が顔を上げた。
三年前、ダブルギアの戦闘員たちは、一番の新人である翼に全てを託した。それ以来、重い十字架を背負ってきたからこそ、翼は柊を独りで行かせる作戦を飲めないのだろう。
隣に立つ翼を見上げる柊。その瞳に、先ほどまでの迷いはない。
「俺は行くよ、翼」
「柊っ」
「俺は、戦術なんて全然分からないけど、どう考えたって、二体が合流するのは避けないと」
「ダメだ。君を独りになんて、絶対させない!」
(なんで、翼が泣きそうになってるんだ)
大きな瞳も、長いまつげも潤んでいる。ほんの少し俯いたら、大粒の涙が零れ落ちてきそうだ。
心配されているのが嬉しくもある。だがそれは、翼にとって柊も“守るべき仲間”でしかないことを意味していた。
だからこそ、柊は精一杯の笑顔を作ってみせた。
「俺を信じてよ、翼」
「え?」
「約束する。絶対に無理しない。長谷部司令が何か言ってきても『俺にはこれが限界です』とかなんとか言って、時間稼ぎを続けるから」
大きな瞳をいっそう丸くする翼へ、大きく一つ頷く。
「俺は翼の指揮を信じてる。だから翼も、俺が
「柊……」
「約束するから」
そっと目を伏せた翼が、小さく頷く。
「約束だ。すぐに戦闘を終わらせて、そちらへ合流する」
「了解」
二人の納得するのを見届けると、榊は小さく息を吐いた。
「もうすぐ到着だ。翼は、佐東が別行動することを、隊員たちへ伝えてきなさい」
「単独行動の理由は」
「二体同時ではなく、増殖したことにしろ。佐東は、増殖個体の
(また柳沢が騒ぎそうな作戦だ……)
戦闘前に絡まれたら面倒だ、と思いながら柊が肩を竦める。
しかし榊は、柊の仕草を違う意味にとったらしい。
「いや、自衛隊の協力は事実だ。
「そうなんですね」
「了解しました。みんなに伝えてきます」
翼が隣の車両へ移動するのを、二人は見送った。
ドアが閉まるのを待って、榊はゆっくりと前傾姿勢へ戻した。つられて柊も、軽く前のめりになる。掻き消えそうなほど低い囁きが聴こえた。
「……忠告だ。長谷部司令の言動に注意しろ」
はっとして、視線を上げる。
軍帽の鍔から覗くまなざしは、いつになく鋭い。
「長谷部司令は、おまえが一人で【D】を撃破した、という功績を、もう一度あげさせたいのだろう。恐らくは、私と通信できない状況を作り、“【D】を倒せ”と強要すると予想される」
なるほど、長谷部の考えそうなことだ。
しかし、柊はこれが二戦目ということを、長谷部は度外視しているのだろうか。あるいは、それほどまでに月読命のダブルギアの可能性を信じているのか。
考え込みそうになる柊の肩を、榊の白手袋を嵌めた大きな手が掴む。
「絶対に、無理をするな。翼たちが合流するのを待て」
「分かってます」
「嘘を吐くのと、黙っているのは違う。おまえは目標撃破のための最適行動として、慎重に攻撃のタイミングを計るだけだ」
そう言って、榊は僅かに表情を緩めた。
「それと、私個人の頼みだが――翼を信じてやってほしい」
「長谷部司令に何を言われても、俺は翼を信じて待ちます」
「……あの子の
(こんなときも、自分は男だ、って態度なんだな)
榊の態度は一貫してぶれない。それが妙に頼もしかった。
柊の肩から手を離した榊は、口もとに微笑を浮かべてみせる。
「そろそろ停車準備に入る。佐東も、自分の席へ戻れ」
「はい」
元の車両へ戻ると、隊員たちの視線が一斉に向けられた。
既に、翼から説明が済んでいるのだろう。柊を心配する者、上層部の判断を訝しむ者、どうしてまたあいつばかり、と不信感と憤りを露にする柳沢グループ――反応は様々だ。
着席すると、結衣が話しかけてきた。
「あの
ぼっこぼこだよ、ぼっこぼこ。結衣はそう言いながら、ふにゃふにゃなシャドーボクシングを披露してみせる。
(格闘の成績は、悪そうだ)
彼女の隣に座る伊織が、結衣の脇腹を肘でつつく。
「ヘッドギアなしで殴りかかったら、ぼこられるのはおまえさんだぞ」
「ボクだって、現役の隊員だよ?」
シュッシュッ、と風を切る音を口で言いながら、結衣はシャドーボクシングを続けている。哀れな独り相撲を放置して、伊織は腕を組んだ。
「長谷部は、自衛隊からの出向だ。あの世代なら、幹部候補生として若い頃は相当厳しい訓練を受けたはずさ」
「……むぐぐ。じゃー、ボクの代わりに伊織がぼこぼこにしといてよ」
「生憎、あたしは自分のこと以外に興味がないもんでね」
鼻で笑った後、伊織は前のめりの姿勢を取った。同じ姿勢になれよ、というように、ちょいちょい、と柊を指で誘う。
「翼のことは、あたしに任せろ。」
「伊織も無理しないで」
口もとに笑みを浮かべる伊織から、通路に立つ翼へ視線を向ける。
班長たちと地図を手に作戦を確認している彼女の背中は、とても頼もしい。それはきっと、翼が“守るべき仲間”たちに囲まれているからなのだろう。
そう思うと、柊は翼の華奢な後ろ姿に、言い知れない不安を感じずにはいられなかった。
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