第2話




「先生いないじゃん」

 真っ暗なガラスにヤモリみたいにぺたんと顔を貼り付け、心配そうに中を覗きながらひそひそ名雪が言った。建物の中にも街にも一切の物音が絶えて人気はなく、底知れない静けさがシンと張りつめていた。一台の自動車が名雪の影法師をゆらゆら地面に投げかけて店前の通りを過ぎて行った。そのゆるく加速したエンジンの甲高い音があたりの静寂を破るようにビーンととどろいてゆっくり消えていった。近くに居酒屋でもあるのか、焼き鳥に似た食べ物の生暖かい匂いが路地裏から押し出されて来て、ときおりむせっぽく鼻に流れた。

「クロミツいねえや」

 エントランスの大理石まがいの支柱に背中を凭せ掛け、ガラス戸に吊り下げられた四角い表札をぼんやり眺めながらおうむ返しに言った。

『Die ihr eintretet, laßt alle Hoffnung fahren』

 赤いニス塗りの表札の中にそんな得体の知れないつづりが黒く刷られていた。照明のない真っ暗な世界で、仄かな月明かりを借りるようにして俺はその表札の字を何度も目でなぞった。まるで脳の回転を邪魔する太い磁力線の様なものをめぐらせた未知の呪文みたいで、目を伏せて追い払おうともしつこく脳裏に陰ってくる不気味な主張があった。何の手がかりもなく、「ラストアレフォウングファーレン」の音だけを無意味に何度も頭の中に巡らせた。そして巡らせるたびにその言葉は重くじめじめした無気力を俺の頭のすみに残していった。

「今度また会えたらいいねって意味だよ」  

「へーお前ドイツ語わかんのか」 

 真義は知れないがぽっかりえぐり取られた語意の穴を綺麗に埋め合わせるのに最もな解釈で、胸にもやもやつかえていた無知の抵抗力をポーンと球のようにはじき出す具体性もあった。ややしばらくして、「違うかも」という暗い勢いのないつぶやきが聞かれたような気がした。

「こっち空けたんじゃクロミツのやつ工房にいるかもな」

 俺は柱からそろっと重たい身体を持ち上げた。名雪は納得なっとくがいかないのか、ガラス戸の向こう側をもう一度じっーと覗き込んでからアヒルのようにヨチヨチいてきた。なんとなく足音を忍ばせながら建物横たてものよこの狭い砂利道をすり抜け、真裏まうらの通路まで来ると、暗闇に四角いオレンジ色の光を浮かせて工房の扉が開けっ放しになっているのが見えた。

 ニスのはげたフルコンピアノの天板やらまだ楽器の形に切り出していない分厚いままのメイプルの板やらがごたごた積み重なって、まるで薄汚い洞窟のようになった狭苦しい内部を見て踏み入るのを躊躇ためらっていると、ちょうどそのとき背の高い人影が洞窟の奥のオレンジ色の光の中をすばやく横切って消えた。そうかと思えば急に乱れた足音がドタドタ湧きかえり、何かを罵る太いだみ声が凄まじい音の突風になって建物全体をガラガラと吹き抜けていった。

 寒そうに首を縮めて肩を小さくしながら名雪がそばへしょんぼり寄り添ってきた。「呼んでみる?」唇の動きだけでそう伝えると、名雪は目をパチクリ大きく瞬いてからコクリと頷いた。

「クロミツー」

「せんせー」

 なんの反応もない。悪意のような近寄りがたい静寂だった。

 俺は凭れ掛かったアルミドアのサッシに背中を強く押し付けて、肉体に重たく絡みついた白々しい疲労の分散を試していた。そして半分割れて食いかけの煎餅せんべいみたいになった巨大なコントラバスの表版や、干物みたいにぶらりと吊られたニスを塗らない白いままのバイオリンを、重たい瞼を少し上げてぼーっと眺めていた。目を凝らすとその薄い光の中に限りなく透明な何かの粒子が、美しい砂金のようにキラキラ蠢いているのが見受けられた。浮遊物を目で追っているうちに、肌に触れてくる冷えた空気が急にホコリっぽいように感じられ出した。近くの南武線なんぶせんのガチャガチャした響きが深いこだまになって湿気の立ち込めた夜空に流れていた。

 ふと果物の淡い香りがした。目だけ動かして横を見ると、名雪が何やら小さな菓子包みを手のひらでゴソゴソまさぐっているところだった。たった一挙動で器用に剥き終えると、何かを掴んだ指先をひょいと口に運び入れて片頬をぷくりと膨らませた。

「パインアメ欲しいの?」

 飴が邪魔して舌が回らず、子供の様な甘ったるい声で名雪が訊いた。うんともいいえとも言ってないのにポケットからひょいともう一個摘まみだしてパリパリ剥き始めた。薄べったい飴玉の真ん中が丸くり抜かれ、土星の輪のように型打ちされた見慣れない形だった。アーンと口を開けてみろと目でうながすので少し上を向いてカパッと思い切り口を開けてやった。白い歯並みを覗かせて満足そうにニコニコしながら、鳥の子に餌付けするように硬い黄色い飴玉をコロンと放り投げてくれた。

「あざす」

 もごもごした声で言った。ポケットにずっと押し込まれて移ったのか、名雪の服に染み付いてるフレグランスの匂いが微かに舌に感じられた。しつこくない甘みに爽やかな酸味のきいた丁度いい味だった。

 また建物まで揺れるような重たい足音がドドドドと鳴り渡った。それと共に、「バカタレ共、そこ開けとけ」と言う叱りつけるような鋭いだみ声が響いてきた。せつな、床と言う床にボロボロこぼれた木くずを蹴散らしながら、真っ黒い獣のようなものが矢のように素早く飛んできてそのまま足元を駆け抜けていった。

「うわぁ!」

 ひどい混乱が生じた。抑えようのない本能的な反射でとっさに身をくねらせてその場にピョンピョン飛び跳ねたあげく、ゴチンと何かに後頭部をしたたか打ち付けた。ガラガラと音を立てて廃材の山が足元になだれ落ちた。我知れずひどい悲鳴だった。

「にゃんこ?」

「今の猫か?」

 ふうと荒い息を吐いて俺たちは間近に顔を突き合わせた。自分が何処どこへ来たのか、なにをしていいのかサッパリ判らなくなって、ただぼんやり突っ立っている事しか出来なかった。名雪は小石でもはめ込まれた様にポカンと口を半開きにして、脅えてるような泣き出しそうな暗く整わない表情をしていたが、やがて前髪を激しく揺すって急にコロコロ笑い出した。釣られて俺もグスリと吹き出した。笑いの弾みで飴まで吐き出しそうだった。

 クロミツが後ろのヘリを平たくつぶしてつっかけた靴をモタモタ踏ん張りながら、通路の奥の光の中からゼンマイの巻き切れてない人形のようにゆっくり移動してきた。

「なにケラケラ笑ってんだバカタレ共。アッチの鍵開けんのめんどいからそこから入ってきな」

 太いたくましい首をゆっくり回して辺りを眺めてからそれだけ言うと、エプロンを巻いた重たそうな筋肉質の胴体をぐらりと後ろに向き直して、来た道をスタスタ引き返していった。名雪は先に立つと、散らかった床の障害物の隙間だけ選んで兎のようにとんとん跳ねながら工房の方へ入っていった。俺は二、三歩進んだところで急に思い出して戻り、サッシの間に白々しく挟まってる木くずをガシガシ荒く蹴りだしてから、ビニール袋を吊り下げたままの左手できっちりドアを閉めて名雪の後を追いかけた。

「今日って休み?」

 座面の端にぽんと片手を付いて横崩よこくずしに回転椅子に座り込み、肩に吊り下げたハードケースを降ろしながら名雪が言う。

「いんや。でも悪りいが訳合って今日は早じまいだよ。昼に表板の魂柱陥没こんちゅうかんぼつ、パッチ剥がれのシュタイナーの贋作がんさくが来て箱開け修理とレゾネータの交換をせにゃならんで、いまはその延長をぼちぼちやってるところよ」

 そう言うとクロミツは気だるそうに肩をすこし引き下げ、斜めに首を傾けてから、真っ白い歯並みを見せて柔らかく苦笑した。

 厚い木の板とガラスを張り巡らせた狭い室内は蛍光灯の光にどんより青く沈み、脳のしわにまで沁み通るような爽やかなスプルースの匂いと、獣の息を嗅ぐようなむせっぽいニカワのじた空気がもやもや漂っていた。ずっしり黒ずんだ木の作業台が四基ほど壁寄りに置かれ、その上には指板と表版を取り外されて薄汚い木の棺桶のようになったバイオリンの共鳴胴と、まだ乾ききってないニカワの跡を幾条いくじょうもの黄色い網目にてらてら光らせ、郵便切手のような四角いパッチを無数にあてがわれたボロボロの表版が静かに寝かされていた。

 硬くて座りの悪い回転椅子にどっかり腰を落ち着けると、物憂ものうい眠気が膨らんできて俺はアングリ口を開けて深いあくびをした。いっぽも歩きたくない気持ちで脚部の車輪をギシギシ滑らしてクロミツの椅子へにじり寄り、ここまで持ってきたビニの袋をやっとその膝の上に放り投げた。

「これ母ちゃんからいつもの晩飯な。さっきの何なんだあれ、あの黒い奴」

「サンキュ。あらあ野良猫だべーよ。アイツやけに人馴れしてていつの間にか中に入ってくんの。んでどうにか脅かして追い出してたのさ。ニスにもニカワにも抜け毛が引っ付いてやべえべよ、アンゴルモアの大王みてぇな末恐ろしい奴よ」

 俺は空いてる回転椅子からゴワゴワした黒いクッションをひったくって尻の下に差しはさむと、椅子にどっかり背中を押し付けて自分を妄想の世界に沈ませた。そして、龍の身体、水晶のつららを鋭く張り巡らした鎧、肉も腐る酸の息、鬼の様な天狗の様な妖怪じみた面白い顔、クルンとねじれた豚のシッポ……と、これらの空想からかき集めた最強のパーツで、未知なるアンゴルモア像を作る可笑しなゲームにしばし興じた。振り子時計の音がカチカチ室内に響いていた。

「そいや森のやつがまだ来てないけどなんかあったのか?」

 俺は座ったままカマキリみたいに折り曲げた足を胸元まで引き上げて、無意味にクルクル回わりながらふと気になって尋ねた。

「あらあこないだクビにした。どうにも右手首が硬いんでクロイツェルの十三番を毎日ずっとやらしてたら左指がつらいだのと不服を言いやがった。しまいには俺の前であくびをかきやがった。カチンときてポカンとやりそうになったね。金返してすぐに出てってもらった。音感で人より勝ろうがやる気のない奴を育てる義理はねえや」

 陰険いんけんじょうのこもった抑揚のない早口で言うと、クロミツはビニの袋から細長いパンを一本掴みだして顔の高さまで持ち上げた。そして小皺に包まれた目を輝かせ、悪党みたいな薄笑いを浮かべて、油を塗ったようにつやつやした小麦色のパンと、そこにカリッと挟まれたきつね色のカニカマのフライを等分とうぶんにじっくり眺めた。クロミツは顔全体が強風にもまれる様な深くうねった皺を目元口元に漂わせ、カッと大口を開け、ワングリとパンを食らった。そして片手につかんだマグカップを素早く口に運んでズズッとうまそうな音を立ててパンごと飲み下した。

「そんな事でなーんでクビにすんの、アイツ上手かったのに。わざわざ遠いところから来てた位だろ、クロミツは怖えや」

 床にちょこなんと尻を置いて浮かない顔をしながら、大事そうにバイオリンをふきふき磨くある日の森の姿がふいに眉間みけんをかすめた。いつまでも余所余所よそよそしい態度が抜けきらずに、どう話しかけてもピッと睨んできてあまり口を聞かないような反応の渇いた女子だったが、桃色の丸いほっぺたと可愛らしいアヒル口のあどけなさ、鳥のくちばしのように反りの付いた短く高い鼻と、小ぢんまりした体が不器用な幼女のようで嫌な感じはなかった。一度聞いた音韻だったら、どれだけ和音が立体交差した難曲でも幾分いくぶんの誤差もなく再現する機械みたいな不思議な耳を持っていて鍵盤にもひいでていた。いつか古代のエピグラフを連弾したときの森の横顔だけが闇の中からカメラのフラッシュで切り抜いたようにクッキリと思い出された。俺がセコンドで彼女がプリモだった。鋼鉄の枠に張りつめたピアノ線から放たれる匂い立つような音のうねりの中に純粋な心を晒して、黒い睫毛のきれいに並んだ大きな瞳をキラキラ潤ませたその横顔が桁外れの美しさだった。

「お前らの不平不満は受け付けないよ。入口のドアにもわざわざ吊るしてあるべーよ。Die ihr eintretet, laßt alle Hoffnung fahren、ここに入る奴は一切の希望を捨てよと。この地獄において何もしない者は叩かれる、怠惰があってはならぬのだ」

 このとき俺は工房に入ってから初めてしっかりと名雪の姿を見つめた。彼女はたなの方に身体をねじ向けて、ちょび髭をはやしたウサギの人形のネジ巻きをなにやら忙しく指でねじ込んでいた。ふいに二つ三つキョトンと大きな瞬きをしてから、ようやく気づいたみたいに少し赤くなって俺の顔を睨み上げると、素早い手つきで人形を棚の上へ戻した。そして子供っぽくいじけてベッと赤い舌を出し、黒いクッションを盾にでもするように俺と自分との間に突き立てそっぽをむいた。なるほど、(今度また会えたらいいねって意味だよ)か。それも素敵な解釈だ。そんな雑な知識のうろ覚えで応じた名雪の楽な姿勢が愛おしく胸に来た。ちょび髭ウサギの人形が重たそうなバイオリンをゆっくり肩にのせて、爪楊枝つまようじのように小さな弓で弦をり弱音のカノンを弾き始めた。

「ねえせんせ、チェリーニ完成したの?。弾いていい?」

 ベタンと大袈裟おおげさに床に足を着くと、座面からすっと尻を浮かせ、食い入る様な前のめりの姿勢で名雪が訊いた。

「いいけど鳴りがでかいから加減せんと耳がやられるよ」

「別に大丈夫だよ、わたし左耳とおいし」

「大丈夫じゃねえミュートつけて譜面練習しろバカタレが。ちと楽器と弓持ってくるんで、お待ちをば」

 珍しく本気の荒い語気で咎めると、雪玉でも拵えるようにビニの袋を両手でグシャグシャ丸めながらそろそろ立ち上がり、場塞ばふさぎな長身をエッチラオッチラ揺らして通路の方へ消えていった。

「ねえよう君」

 名雪は胸の谷間が目立つような無遠慮ぶえんりょな前のめりの姿勢のまま、目だけ俺の方にずらして何やら嬉しそうに言った。俺は思わず身震いしてギッとり、ポリポリ耳を掻いた。

「あ?、なんですか」

「いまから先生がヴォアラン弓とチェリーニ持ってきて、私にレゲンデをやってって言うからさ、見てて」

「はあ?」

 名雪はしばらくのあいだ、自分の言葉の力を試すように瞬きもしないでじっと俺の顔を眺めていたが、はあと言う素気無すげない反応に納得がいかなかったのか、「嘘じゃなくてほんとにそうなるから」とさらに付け足して、バネに弾かれるみたいにピッと椅子から立ち上がった。そしてスカートのすそや服のしわを綺麗に掻きあわせて服装の乱れを整えると、今度は口に赤いヘアゴムをだらりとくわえて、ゆったりした黒髪を両手で掻き上げながら、人懐っこい上目づかいでまた俺の顔をまじまじ見つめた。ひな鳥の羽毛のようにフワフワした後れ毛が指の隙間からぴょこんと飛び出した。

 俺は心臓に巨大な注射針を打ち込まれてありったけの血を引き抜かれるような深い気だるさを感じた。ギュッと目をおしつむって少し経ってからまた上げた。暗緑色あんりょくしょくかげった大きな瞳が変わらずに見つめ返した。唇をヘの字に引き結んで眉間に力を込め、グッとにらみつけてやったが全くその姿勢は崩れなかった。俺は急に老いたように重くなった足を力いっぱいもたげ、身体をぐるりと打ち振って回転椅子を漕いだ。ぐるぐる。そんなのろくさく滑稽な輪転りんてんをしばらく重ねているうちに名雪の後頭部にポニーテールがぶらりと垂れ下がり、バイオリンと弓をひっさげたクロミツが妙な暗い鼻歌を歌いながらやっと部屋に戻ってきた。

「あいよお待ちど。ヴォアラン貸してやるからこれでレゲンデをやってくれ」

「先生もヴィエニャフスキ好きなの?」

「ちと違う、俺が好きなんはウィエニアフスキのレゲンデだ」

「また頑固クロミツ出てるー」

「吐血しながら練習し続けた過去のせいで俺の中に泰然たいぜんたる頑固じじいが形成されちまったのは事実だね」

「ロシアの話して」

「俺は昔ノヴォシビルスクにいた時、殺人鬼的なものをやっていた奴の隣室で暮らしていたことがあるのだ」

「本当なの?」

「嘘です」

「羊君の伯父さんおもしろいねー」 

「あ?、んなことよりお前……」

 ピンクみたいな金色みたいな薄いアイシャドーと、軽く反りの付いた黒い睫毛とにきれいに縁どられた名雪の目がクロミツの顔からすっと俺の顔に移った。そしてまた俺にだけ分かるようにベッと赤い舌を出し、ひとりでにニコニコ笑い出した。

 首筋をナメクジに這われる様な不気味な感慨が胸を揺すった。俺は落ち着きを求めて台の端にいくつも噛ませてあったクランプの赤い取っ手をなにげなしに握り、木の板のような硬い背もたれに後頭部をぐらりと押し付けてぼんやり考え始めた。ハッキリ訳は分からぬながら何か神妙な現象が目の前で起こった。でも、たった一つの些細な考え事でもグラグラと脳が弾け飛んでしまいそうな極限まで疲れた今の思考では、何かしらの見えないゆがみのようなものが自分の周りを取り巻いているような、そんなぼんやりした不安をただ感ずることしかできなかった。

「なんかチーズバーガーみたいな匂いする」 

「新作特有のメシテロフレーバーよ。汗だのヤニだのクリーナーだのの色んな悪臭でさらにそこから熟成されて行くのさ。三日前に張ったオリーブのピッチがやっと落ち着いたんで朝俺も弾いたんだが、ややそば鳴りな程度で低音も結構いい。弓毛にゃそのまま松脂がついてるからもう弾いても構わんよ」

 クロミツは背中をぴんとまっすぐ引き上げ、がっしり腕を組み合わせた仁王立ちの姿勢を作り、口を半開きにしてほころびるような微笑を湛えながらまじまじと名雪の姿を認めた。

 名雪は部屋の真ん中あたりを陣取ると、両足をやや開いて暗紅色あんこうしょくのバイオリンを肩にしっかりと乗せ、すこし腰を折り曲げて、顎当あごあてに片頬をこすり付けめいっぱい表版に顔を近づけた窮屈そうな姿勢を作った。弓をつかんだ手をフラリと素早く持ち上げ、薄い絆創膏に包まれた長い指先を指板の上に浮かせ、楽器に固く張られた四本の細い絃を一振りの運弓でいっせいにかき鳴らした。練り絹の様な白毛の繊維が滑らかに弦を擦る……。バイオリンはまるで秘めていた爆薬でも炸裂させたように、ビーンと鋭い音を上げた。磨きだされたばかりの宝石のようなオイルニスの輝きの中に、反転された名雪の横顔がおぼろげな月のように青白く揺れていた。

「では、名雪月なゆきるなの演奏でレゲンデ。先生の好きなオイストラフさんみたいに弾いてみるね」

 名雪は美しいおごそかな顔に潤んだ目を軽く見開き、静かな微笑をみせて重たい第一音から弾き始めた。くすぐったいような呟き、笑い合うような甘い歌、あるときには胸がつぶれそうな程に切ない求婚の音楽のリフレイン。名雪は上半身を左右にゆっくり振り立て、ポニーテールを軽く揺らしながら、にじみのない正確な音程でそれを奏でた。低く腰を折り曲げた姿勢のせいで肌に薄い生地がピッタリと吸い付いて、細くくびれた腹回りの柔らかな肉付きや、ゴム風船の様に丸く膨らんだ胸の線が、ゆったりと垂れたカットソーの上から肉感的に強調されていた。筋肉の線が木の根のように強張った白く長い首、後れ毛の間から花びらのように生え出た薄桃色の耳、生暖かい美しさの絡んだ匂うようなその色と、ぽってり婀娜あだめいた薄着姿が、精神的にも肉体的にも鷹揚おうように熟された二十三十のコンサートミストレスのような深く落ち着いた雰囲気を空間に漂わせた。しばらくして、たゆたうように薄らいで行くレ音のトリルの合間に、ゼエゼエと言う荒々しく不穏な息遣いがはっきりと聞かれた。ゾッとするような妙な感じを覚えると、俺はおののいて思わず顔を上げた。名雪は泣きべそを掻くみたいに顔を歪めながら、自分を忘れてしまったようなさびしく美しい瞳で虚空のかなたを凝視していた。……音楽が終わった。

「ありがとうございました」

 妙に甘ったれた照れくさそうな声で言ってペコリと二回、頭を垂れ下げた。楽器と弓をクロミツに返却すると、束ねていた赤いヘアゴムをすっと抜きとって頭を軽く振りながら黒髪をふわりと広げ、ちぢかんだ服の袖をぐいと手首まで引き延ばして身仕舞みじまいを直した。クロミツはバイオリンを大事そうに膝の上に置き、さらさらした厚生地あつきじの布を弦の下に器用に通し、ゆっくり幅広く表版を拭きだした。シンと静まった室内に再び掛け時計の音がカチカチと響いた。

「ちっと高音がガラスかね」

「そうかな、超いい音だよ?。それに誰かが毎日弾いてあげればやらかくなるし。また土曜日の午後にチェリーニ弾きに来るから。羊君も右手治ったら伴奏ばんそうお願いします」

「ああ、ほい」

 俺はちょっと口ごもって張り合いのない返事をした。まるで別人に会うような、妙に瑞々しい恥ずかしさがあった。その時ドーン、ドーン、と言う重たい二つの轟音ごうおんが建物の天井を鋭く刺し抜いて室内まで響いてきた。ゾッとする思いで窓ガラスの方へ目を向けると、気だるそうな薄い闇に包まれた十月の夜空に、青白い閃光が二度三度まばゆくぜるのが見えた。

「なんで秋なのに花火あんの?」

 薄明るく照らされた窓ガラスの方へつっと首を伸ばして、憧れに輝く視線を滑らかにめぐらせながら誰に言うともなく名雪がいた。

「知らね。何年かめえの夏んときに順延じゅんえんもなしに豪雨で勝手に中止しやがって、次から秋になっちまったんだよ。寒くてビールがうまくねえし、蚊がいねーって女が喜ぶだけだべ。るなもせっかくだから行ってくりゃいい、そこの片腕の怠け者も連れてってやれ」

 と言ってクロミツは糸を切られた人形のようにばっさりと椅子に崩れかかり、その背の縁にぐらーんと首を倒して生あくびをかいた。名雪が俺の顔を横目で見上げながらクスクス笑いだした。

「じゃ私花火見て来るね。このジャケットお借りします」

「構わんよ。正面のドアから出ていきな」

「らじゃです」

 椅子の背もたれから持ち上げた黒いジャケットを引っ被るように背中に乗せると、名雪は首を小さく縮こませ、折れはしないかと言うほど無理にひじじ曲げて左右の袖の中へ一本ずつ手を通していった。床に靴先をきちんとそろえトントン跳ねてジャケットを身体になじませ、

「じゃせんせ、またね」

 着ぶくれした太い片腕をふらっと持ち上げ左右に振りながら言う。クロミツは返事をしないで椅子をギイギイ鳴らして気だるそうにふんぞり返り、二つ目の生あくびをかみ殺しながら手だけぶるんぶるん振って見せた。

 ドドドドドン。機関銃を乱射するように立て続けに響く花火の音を聞きながら廊下から階段を降りた。鍵を外してガラス戸を肩で押し開けると仄暗ほのぐらい丸子通りに出た。通りには顔の皮をはぎ取るような冴え冴えとした冷たい風が流れ、金木犀きんもくせいの淡い香りがほろほろと空気に満ちていた。また新しい火花がいびつに体を捻じ曲げながら雲間を焦るように駆け抜け、ビルとビルの隙間に巨大なひかりの花びらをパッと咲かせた。それを合図に次から次へと花火が散っていった。冬空の精霊達が柏手かしわでを打って笑いさざめいている様な、にぎやかな音が絶え間なく響き続けた。

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レゲンデ 宇部透樹 @morilrei

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