第2話
「先生いないじゃん」
真っ暗なガラスにヤモリみたいにぺたんと顔を貼り付け、心配そうに中を覗きながらひそひそ名雪が言った。建物の中にも街にも一切の物音が絶えて人気はなく、底知れない静けさがシンと張りつめていた。一台の自動車が名雪の影法師をゆらゆら地面に投げかけて店前の通りを過ぎて行った。そのゆるく加速したエンジンの甲高い音があたりの静寂を破るようにビーンと
「クロミツいねえや」
エントランスの大理石まがいの支柱に背中を凭せ掛け、ガラス戸に吊り下げられた四角い表札をぼんやり眺めながらおうむ返しに言った。
『Die ihr eintretet, laßt alle Hoffnung fahren』
赤いニス塗りの表札の中にそんな得体の知れない
「今度また会えたらいいねって意味だよ」
「へーお前ドイツ語わかんのか」
真義は知れないがぽっかりえぐり取られた語意の穴を綺麗に埋め合わせるのに最もな解釈で、胸にもやもやつかえていた無知の抵抗力をポーンと球のようにはじき出す具体性もあった。ややしばらくして、「違うかも」という暗い勢いのない
「こっち空けたんじゃクロミツの
俺は柱からそろっと重たい身体を持ち上げた。名雪は
ニスのはげたフルコンピアノの天板やらまだ楽器の形に切り出していない分厚いままのメイプルの板やらがごたごた積み重なって、まるで薄汚い洞窟のようになった狭苦しい内部を見て踏み入るのを
寒そうに首を縮めて肩を小さくしながら名雪が
「クロミツー」
「せんせー」
なんの反応もない。悪意のような近寄りがたい静寂だった。
俺は凭れ掛かったアルミドアのサッシに背中を強く押し付けて、肉体に重たく絡みついた白々しい疲労の分散を試していた。そして半分割れて食いかけの
ふと果物の淡い香りがした。目だけ動かして横を見ると、名雪が何やら小さな菓子包みを手のひらでゴソゴソまさぐっているところだった。たった一挙動で器用に剥き終えると、何かを掴んだ指先をひょいと口に運び入れて片頬をぷくりと膨らませた。
「パインアメ欲しいの?」
飴が邪魔して舌が回らず、子供の様な甘ったるい声で名雪が訊いた。うんともいいえとも言ってないのにポケットからひょいともう
「あざす」
もごもごした声で言った。ポケットにずっと押し込まれて移ったのか、名雪の服に染み付いてるフレグランスの匂いが微かに舌に感じられた。しつこくない甘みに爽やかな酸味のきいた丁度いい味だった。
また建物まで揺れるような重たい足音がドドドドと鳴り渡った。それと共に、「バカタレ共、そこ開けとけ」と言う叱りつけるような鋭いだみ声が響いてきた。せつな、床と言う床にボロボロこぼれた木くずを蹴散らしながら、真っ黒い獣のようなものが矢のように素早く飛んできてそのまま足元を駆け抜けていった。
「うわぁ!」
ひどい混乱が生じた。抑えようのない本能的な反射でとっさに身をくねらせてその場にピョンピョン飛び跳ねたあげく、ゴチンと何かに後頭部をしたたか打ち付けた。ガラガラと音を立てて廃材の山が足元になだれ落ちた。我知れずひどい悲鳴だった。
「にゃんこ?」
「今の猫か?」
ふうと荒い息を吐いて俺たちは間近に顔を突き合わせた。自分が
クロミツが後ろのヘリを平たくつぶしてつっかけた靴をモタモタ踏ん張りながら、通路の奥の光の中からゼンマイの巻き切れてない人形のようにゆっくり移動してきた。
「なにケラケラ笑ってんだバカタレ共。アッチの鍵開けんのめんどいからそこから入ってきな」
太い
「今日って休み?」
座面の端にぽんと片手を付いて
「いんや。でも悪りいが訳合って今日は早じまいだよ。昼に表板の
そう言うとクロミツは気だるそうに肩をすこし引き下げ、斜めに首を傾けてから、真っ白い歯並みを見せて柔らかく苦笑した。
厚い木の板とガラスを張り巡らせた狭い室内は蛍光灯の光にどんより青く沈み、脳の
硬くて座りの悪い回転椅子にどっかり腰を落ち着けると、
「これ母ちゃんからいつもの晩飯な。さっきの何なんだあれ、あの黒い奴」
「サンキュ。あらあ野良猫だべーよ。アイツやけに人馴れしてていつの間にか中に入ってくんの。んでどうにか脅かして追い出してたのさ。ニスにもニカワにも抜け毛が引っ付いてやべえべよ、アンゴルモアの大王みてぇな末恐ろしい奴よ」
俺は空いてる回転椅子からゴワゴワした黒いクッションをひったくって尻の下に差しはさむと、椅子にどっかり背中を押し付けて自分を妄想の世界に沈ませた。そして、龍の身体、水晶のつららを鋭く張り巡らした鎧、肉も腐る酸の息、鬼の様な天狗の様な妖怪じみた面白い顔、クルンとねじれた豚のシッポ……と、これらの空想からかき集めた最強のパーツで、未知なるアンゴルモア像を作る可笑しなゲームにしばし興じた。振り子時計の音がカチカチ室内に響いていた。
「そいや森のやつがまだ来てないけどなんかあったのか?」
俺は座ったままカマキリみたいに折り曲げた足を胸元まで引き上げて、無意味にクルクル回わりながらふと気になって尋ねた。
「あらあこないだクビにした。どうにも右手首が硬いんでクロイツェルの十三番を毎日ずっとやらしてたら左指がつらいだのと不服を言いやがった。しまいには俺の前であくびをかきやがった。カチンときてポカンとやりそうになったね。金返してすぐに出てってもらった。音感で人より勝ろうがやる気のない奴を育てる義理はねえや」
「そんな事でなーんでクビにすんの、アイツ上手かったのに。わざわざ遠いところから来てた位だろ、クロミツは怖えや」
床にちょこなんと尻を置いて浮かない顔をしながら、大事そうにバイオリンをふきふき磨くある日の森の姿がふいに
「お前らの不平不満は受け付けないよ。入口のドアにもわざわざ吊るしてあるべーよ。Die ihr eintretet, laßt alle Hoffnung fahren、ここに入る奴は一切の希望を捨てよと。この地獄において何もしない者は叩かれる、怠惰があってはならぬのだ」
このとき俺は工房に入ってから初めてしっかりと名雪の姿を見つめた。彼女は
「ねえせんせ、チェリーニ完成したの?。弾いていい?」
ベタンと
「いいけど鳴りがでかいから加減せんと耳がやられるよ」
「別に大丈夫だよ、わたし左耳とおいし」
「大丈夫じゃねえミュートつけて譜面練習しろバカタレが。ちと楽器と弓持ってくるんで、お待ちをば」
珍しく本気の荒い語気で咎めると、雪玉でも拵えるようにビニの袋を両手でグシャグシャ丸めながらそろそろ立ち上がり、
「ねえ
名雪は胸の谷間が目立つような
「あ?、なんですか」
「いまから先生がヴォアラン弓とチェリーニ持ってきて、私にレゲンデをやってって言うからさ、見てて」
「はあ?」
名雪はしばらくのあいだ、自分の言葉の力を試すように瞬きもしないでじっと俺の顔を眺めていたが、はあと言う
俺は心臓に巨大な注射針を打ち込まれてありったけの血を引き抜かれるような深い気だるさを感じた。ギュッと目をおしつむって少し経ってからまた上げた。
「あいよお待ちど。ヴォアラン貸してやるからこれでレゲンデをやってくれ」
「先生もヴィエニャフスキ好きなの?」
「ちと違う、俺が好きなんはウィエニアフスキのレゲンデだ」
「また頑固クロミツ出てるー」
「吐血しながら練習し続けた過去のせいで俺の中に
「ロシアの話して」
「俺は昔ノヴォシビルスクにいた時、殺人鬼的なものをやっていた奴の隣室で暮らしていたことがあるのだ」
「本当なの?」
「嘘です」
「羊君の伯父さんおもしろいねー」
「あ?、んなことよりお前……」
ピンクみたいな金色みたいな薄いアイシャドーと、軽く反りの付いた黒い睫毛とにきれいに縁どられた名雪の目がクロミツの顔からすっと俺の顔に移った。そしてまた俺にだけ分かるようにベッと赤い舌を出し、ひとりでにニコニコ笑い出した。
首筋をナメクジに這われる様な不気味な感慨が胸を揺すった。俺は落ち着きを求めて台の端にいくつも噛ませてあったクランプの赤い取っ手をなにげなしに握り、木の板のような硬い背もたれに後頭部をぐらりと押し付けてぼんやり考え始めた。ハッキリ訳は分からぬながら何か神妙な現象が目の前で起こった。でも、たった一つの些細な考え事でもグラグラと脳が弾け飛んでしまいそうな極限まで疲れた今の思考では、何かしらの見えない
「なんかチーズバーガーみたいな匂いする」
「新作特有のメシテロフレーバーよ。汗だのヤニだのクリーナーだのの色んな悪臭でさらにそこから熟成されて行くのさ。三日前に張ったオリーブのピッチがやっと落ち着いたんで朝俺も弾いたんだが、ややそば鳴りな程度で低音も結構いい。弓毛にゃそのまま松脂がついてるからもう弾いても構わんよ」
クロミツは背中をぴんとまっすぐ引き上げ、がっしり腕を組み合わせた仁王立ちの姿勢を作り、口を半開きにして
名雪は部屋の真ん中あたりを陣取ると、両足をやや開いて
「では、
名雪は美しい
「ありがとうございました」
妙に甘ったれた照れくさそうな声で言ってペコリと二回、頭を垂れ下げた。楽器と弓をクロミツに返却すると、束ねていた赤いヘアゴムをすっと抜きとって頭を軽く振りながら黒髪をふわりと広げ、
「ちっと高音がガラスかね」
「そうかな、超いい音だよ?。それに誰かが毎日弾いてあげればやらかくなるし。また土曜日の午後にチェリーニ弾きに来るから。羊君も右手治ったら
「ああ、ほい」
俺はちょっと口ごもって張り合いのない返事をした。まるで別人に会うような、妙に瑞々しい恥ずかしさがあった。その時ドーン、ドーン、と言う重たい二つの
「なんで秋なのに花火あんの?」
薄明るく照らされた窓ガラスの方へつっと首を伸ばして、憧れに輝く視線を滑らかにめぐらせながら誰に言うともなく名雪が
「知らね。何年かめえの夏んときに
と言ってクロミツは糸を切られた人形のようにばっさりと椅子に崩れかかり、その背の縁にぐらーんと首を倒して生あくびをかいた。名雪が俺の顔を横目で見上げながらクスクス笑いだした。
「じゃ私花火見て来るね。このジャケットお借りします」
「構わんよ。正面のドアから出ていきな」
「らじゃです」
椅子の背もたれから持ち上げた黒いジャケットを引っ被るように背中に乗せると、名雪は首を小さく縮こませ、折れはしないかと言うほど無理に
「じゃせんせ、またね」
着ぶくれした太い片腕をふらっと持ち上げ左右に振りながら言う。クロミツは返事をしないで椅子をギイギイ鳴らして気だるそうにふんぞり返り、二つ目の生あくびをかみ殺しながら手だけぶるんぶるん振って見せた。
ドドドドドン。機関銃を乱射するように立て続けに響く花火の音を聞きながら廊下から階段を降りた。鍵を外してガラス戸を肩で押し開けると
レゲンデ 宇部透樹 @morilrei
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