レゲンデ
宇部透樹
第1話
レゲンデ
ゆるくたわむ電線の上に紅色の日が燃えていた。
拡散する輝きは冷たい湿気をはらんだ雨上がりの大気の層を何千メートルもの高さまで染め抜き、鮮やかに冴えたその真紅は薔薇の花びらの色の深さを思わせた。姿のない飛行機が線香の煙のような白雲を引きながらその赤い光の中を駆け抜け、薄闇に暗く静まった東の夜空へいま出ようとしていた。夜空には吹きちらされた綿毛のような細かい雲が巡り、むくむくした輪郭に夕日の色が淡く煌めいて、闇のすみれ色との間にまばゆい色彩の対照を見せていた。眠気のざらつく目に、その輝きが思いがけなくしみた。
空をぼんやり眺めながら歩いている内に長い坂を下りきって、いつか踏切の近くまで来ていた。重ね着までひやりと刺し通してくる冬の風が、街路樹の枝葉を鳴らして何度もアスファルトの上を吹きすぎた。この辺はまだ明るかったが、道に張り出た料理屋のガラス戸や店舗看板に強い光がともっていて、踏切前の往来だけが異様な輝きに溢れてしんと静まり返っていた。砂糖醤油や味醂ではない海外の食べ物の甘ったるい匂いが、花模様の風車のようにクルリクルリと空気の中を巡っていた。
踏切が鳴った。ネジでも緩んでいるのか、一本だけゆっくり煩わしそうにアスファルトの上へ倒れて行くのろくさい
線路越しの空には喪服みたいな黒い葉をしょんぼり垂れ下げた木立が低くそびえ、いくつかの電信柱が同じ高さの幹を墓標のように突き並べた横広な坂道が、その薄暗い木立の下をゆるく這いのぼって多摩川土手まで続いている。丸子橋の上には既にナトリウム灯が連なって灯り、植物の茎のように柔らかく反った群青色の鉄骨へ眩い光のぼかし縞を浮かせていた。その光のアーケードの中をトラックやバスがぴったり同じ間隔を作って行きかう様子がジフ動画みたいに整然と繰り返されているのが、夢の中の光景でも見るような不思議な出来事に感じられた。
そのときふと、騒がしい警報音とふたつながら、はっきりとアスファルトに響く不思議な足音に気が付いた。突拍子もなく湧いたその足音は、妙に上ずった鼻歌まで添えて俺の方へ近づいた。思いがけない音だったが、気味の悪いものではなかった。土曜日なのが嘘みたいに誰にも行き会わない寂しい道で、自分以外の誰かの存在がある事にほの暖かい喜びが胸を流れた。
耳の産毛にくすぐったいような甘く澄んだ鼻歌に釣られ、音のする方へひょいと目を上げると、夕日の強い光の描線にふちどられ、セミロングの髪を眩く波立たせながら、美しい横顔の少女が小鳥のように俺のそばをすり抜け踏切の前に立ち止まった。桜の香に似た、淡くほのかな匂いが鼻に触れた。それは空気に甘くとける淡いシャンプーの柔らかい香で、親しい人の髪の匂いに似ていた。
細長い首を少し反らせて、空の光る方に向かって眩しそうに眼を見開いた横顔は、記憶の中からはみ出して来たかのようで、戸惑うほどにその人にそっくりだった。
少女は何となく人の視線を感じたらしく、猫みたいな柔らかい動きで首を少しねじり、警戒心でこわばらせた冷たい表情でこちらに振り向いた。
「……
「名雪?」
とっさに同時に名前を呼び合い、目を見つめ合ったまま次の言葉をためらった。なんでこんなところに名雪が?。全く可能性を予期しなかった驚きが、打ち上げ花火の音ように激しく身体を揺すり通った。
ふっと吐く彼女の息が白い煙のように凍って淡く空に流れた。深い緑色に陰った瞳が濡れたガラス玉みたいに寂しく輝いていた。その大きな瞳にじっと見つめられると、まるで目の孔を通して頭の中まで覗き見られるようで俺は耐えられなかった。黒目がわずかに動いた。俺より先に彼女の方から視線を外した。そして彼女は肩から落ちそうなハードケースのベルトをぐいとずり上げてから身体ごとこちらに向き直って、不安を包み隠さない至極困った顔を作り俺の胸のあたりをじっと見つめ出した。警告灯が照り落した血のような赤い光が顔や髪の片側に映りこんで、もう片側にくすんだみたいな暗い紫色の影を浮かせていた。
こういう時どんなことを話すべきなのか。とっさに何か言おうとしたが、木屑が詰まったような息苦しさが喉に蓋をしてずっと言葉が止まっていた。コミュ障の妄想恋愛の次のコマを必死に考えてみたが、どのスイッチを押されても本音以外の素気無い反応しかしないガラクタなこの脳みそには、相変わらず空白のフキダシだけがずっと浮かんだままだった。
そしてなにより彼女も口を開こうとはしなかった。胃を
甲高い車輪の軋みが踏切から響いてきた。不揃いな波紋を広げた銀色の水溜りの中に、窓の明かりを一列に並べて過ぎてゆく電車が逆さまに、彗星のように流れてあっという間に消えた。電車が残していった
「それどしたの?」
あたりがちんまり静まり返ったと同時に名雪がそう訊いた。もじもじ決まりきらないうちに勢いで出したような、泣き出しそうな張りがその声にあった。顔を上げるとあの妙に甘く澄んだ黒目とかち合った。視線はすぐに磁力に吸いつけられるみたいに俺の胸元へそっと流れた。眠気が絡んだ重たい脳の処理で、「それ」の暗号を解読するまでには五秒要した。
「バイクで事故したって先生から聞いたけどそうなの?」
「クロミツのじじいがなんか教えたんか。そんでコケて手突いたときに手首折れたっぽい。ほんとアホした」
そう
「骨折って、あんま無理して動かしたら絶対良くないよ。それ私が代わるし」
「いやもう治りかけだからさ。ビニの袋くらいは自分で持ってけます」
「そっか、大丈夫なら。今日自由が丘で降りてね、めっちゃ歩いてきたから疲れた。 あ、でも
そう言って名雪は急に肩を弾ませピョコンと顔を上げて、無邪気そうに片眉を明るくひきあげ、もう片眉をきゅっと少しひそめた曖昧な微笑を見せた。淡いグロスの照りで濡れたように輝く唇から、綺麗な歯並みがかすかに覗いた。笑うとき鼻にくちゃっと
「なんでそんな中途半端なところで降りたわけ?。あーポケゴか」
「なにゆえ分かったし。さっきね、フィー進化でやっと色ブイコンプ出来たの!。駅からここまでめっちゃジャストな距離、なんかすごくない?」
「へー、そらすごいわ」
なにも真新しいものはなかった。空間に色変わりの花びらを明るく振りまくような相変わらずのおしゃべり娘で、そんないつもの彼女との触れ合いで気持ちがほぐれたのか、さっきまでの浮ついたような熱っぽさが消えて大分楽な表情が心に戻ってきた。でもどっちでもいい
名雪はさっぱりした紺のスカートのポケットから慌ただしくスマホを引き抜くと、背中をこちらの胸に押しつけて薄暗い液晶を近々とのぞかせるようにして、
「可愛い?」
サッと前髪をひと揺すりさせて首をねじり、窮屈そうな上目で俺の顔を見つめてそう賛同を求めた。こそばゆい呼吸の音が直に耳に飛び込んでくるほどの思いがけない近さだった。彼女の肌から香ってくる石鹸のはかない甘さがほのかに鼻を抜けた。
「へー、可愛い」
適当に答えると、液晶なんか見ないで彼女の
「なんか眠いの我慢してるの?」
人差し指で俺の肩を小突くと、子供っぽく首をかしげて、好奇心に満ちた小鳥の様な明るい上目でそう聞いた。俺のくすんだ妄想など何も知らない無邪気そうな瞳に、汚れたるんだ心がふとつまづいた。
「おまえ犬みたいだな。よく見てるわ人の顔。前世とか犬だったんじゃね」
俺は息苦しい冷気のようなものがひやりと身体の中に忍び入るのを感じながら、ちょっと口ごもって慌て気味に言った。
「そんな犬っぽいかな?、でも羊君の消毒のいい匂いずっとくんくんしてたし。私さ、病院の匂い結構好き」
・・・・・・このキラキラ萌え
「お前ほんと匂い系敏感だよな。人の顔は覚えられないくせに匂いで誰だかわかんだっけ」
「うん、全然暗記できないしアホぽんぽんだけど、匂いだけ超天才」
名雪は何となく小芝居じみたような、乙に済ましたような甘ったるい調子で自分をそうあざけた。俺はあまり会話に貢献できてないような、どこか物足りないような暗い気持ちに
ふと、何時の事か思い出せないけども、確かにずっと昔にも同じ景色を見た様な気がした。踏切、エタノールの香のする冷たい空気、オレンジ色の街角、溶けいりそうな甘い微笑をした少女、妙に鳴りの悪い夕焼けチャイム。それぞれのパーツにデジャブというありふれた言葉では噛み砕けないような妙な
「ずっと前にさ、ここで俺たち話したことあったっけ」
「んーん、ここ初めて来たよ?。……あれ、でも、なんか、」
名雪は外気にさらされてほの赤く染まったまるまっちい指を
「恋ってさ、プラトニックなのかな」
「あ?」
急に特大の花束でも胸に押し付けられたような戸惑いだった。その言葉の意味は、解ったようで解らなかった。今の感情の表現なのか内心の実写なのか、自然に出されたのか何か試すために考えたものなのか。どちらともピンと来ないまま、俺はすぐに返事を出来ずに黙って一からその言葉の意味を探していた。
「五時とかあじゃぱーじゃん、はやく行かなきゃ。絶対先生おこだよー」
あんな事を聞きながら何にもなかったように言うと、名雪は肩から落ちそうなハードケースのベルトを再びぐいとずり上げて、元気な動物の子のようにピョンコピョンコ踏切の向こうにはねていった。まるで強いばねでピンとはじかれるような早さで、その不思議な軽い動きは俺の網膜の中に姿勢の変化の一つ一つを取り留めたなめらかな薄い残像をずらりと並ばせた。
「(大声で)レマ、サバクタニ!」
ペンキのかすれた白線の上で両手を広げると、名雪は
夕焼けチャイムはいつのまにか他の町の数知れない歌声と一つの合唱にとけあい、緩やかな太い旋律のうねりを頭上に広げきっていま静かに終わろうとしていた。妙に切なく懐かしい音楽と、花のような少女が作りつけられたみたいに二つ揃って日暮れの街角に佇むこの光景が、まるで誰かの撮った美しい映画のワンシーンでも見ているような奇跡の出来事のように感じられた。
「
街灯に片頬だけ照らされた薄暗い顔を静かに振り向けながら、戸惑いがちな声できょとんとして聞いた。肩が大きく弾んでその頬が湯上りのように赤く、
俺は返事をせずに少し詰まった鼻をグスリと
気が付くと太陽はもう街のかなたに沈んで、オレンジ色のかすかな残照が濃い湯気の様に空の低いところをひらひらと漂っているだけだった。橋の上には多摩川の湿気を含んだ重たい風がしっとり吹き流れ、そのアーチ
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