第117話 姫乃との帰り道
太陽が沈み、街灯が照らす街。
「おー、雨
喫茶店を出てすぐ、歩道に足をつけた龍馬は空を見上げて感想を漏らしていた。
大学からここに来るまでに降っていた雨は弱まり、現在こぬか雨になっていた。
その名の付く雨は雨具を使用しなくとも髪や服が湿る程度で——
「これくらいなら傘ささなくてもいいな、姫乃」
と、思ったことを発した矢先である。
『バサ』
折り畳み傘を開く音と共に、その先端が龍馬の目端に映る。もちろん隣にいるのは姫乃。姫乃が傘をさしたのだ。
「傘で帰ろ、シバ」
「え?」
いつも通りに上目遣いで龍馬に顔を合わせる姫乃は、一人納得するように頷く。
「この弱さだよ? ここから家までの距離を考えても平気なレベルだと思うけど……」
「シバは髪の毛、気にする?」
「髪の毛って言うと、質とか……?」
「ん」
姫乃らしい唐突な質問だが、興味本位でしていることではない。しっかりとした目的があり、虎視眈々と狙っているから。
どうにかその方向に転がそうと企てているのである。
「髪質は気にしてる方……かな。ワックスをつけた日とかはシャンプーの回数を増やしたりしてるし」
「なら、傘は必要。雨で髪は傷む」
「一日だけなら大丈夫じゃない?」
「それがだめ」
「ま、まぁ実際その通りなんだけど……ぶっちゃけ姫乃の気遣いに甘え続けるわけにはいかないって言うかさ? この雨量なら髪が傷んでも風邪引くことはないだろうし」
気遣われている、と変に誤解をしている龍馬。
もう一度
「俺は全然平気だから姫乃が使っ——」
「——ん」
反論も思い浮かばず押し切られる……と、悟った瞬間である。
龍馬の声に上塗りをした姫乃は、折りたたみ傘の持ち手をぐっと近づけた。
『シバが持って』と押し付けるように。
「い、いや……俺は別に……」
「んっ」
姫乃は負けじとさらに傘を近づける。
固い性格の龍馬なのだ。髪が傷むという理由では相合い傘をしてくれる可能性は少ない。他に良い案も浮かばなかった姫乃がやれることは一つ。
こうした
「えっと……もう逃げ場ない?」
「ない」
「ま、また俺と一緒に傘使うことになるよ?」
「いいから言ってる。姫乃はいつもそう」
「……」
「……」
「な、ならもう使わせてもらおうかな。ここまでしてくれて断るのもアレだしね」
未だ戸惑いを見せる龍馬だったが、姫乃の世話焼きに甘えることにする。ここで頑なに断ったのなら空気が悪くなっていたことだろう。
「それがいい。シバに傘、渡す」
「『そうしないとシバの頭がつっかかる。姫乃の身長はちっちゃいから』って言うのは付け加えなくていい?」
「……いじわる」
「ははっ、ごめんごめん」
冗談を交えることで柔らかな空気が作られる。姫乃の手から傘を受け取る龍馬は肘を軽く曲げて垂直に立てた。
「それにしても姫乃は本当に優しいよなぁ……。髪が傷むってことまで考えて傘貸してくれる人ってなかなかいないよ? 嬉しいなって感じてさ」
「……シバは、ほんとにそう思ってる?」
「え? 姫乃がそう言わなかった?」
「……言った、けど」
「だよね? だから優しいよ。ありがとう」
「……」
目を薄くして嬉しそうに微笑む龍馬を見て姫乃に罪悪感が溢れてくる。
今回のことに限っては姫乃は優しいとは言えないかもしれない。相合い傘をするためだけに、『髪が傷む』という建前を使ったのだから。
雨に濡れたとしてもすぐにドライヤーで乾かしたり、お風呂に入ったりすることで傷みを防止することができる。その事実を伝えていないのだから。
「姫乃……? どうかした? 大丈夫?」
「どうしてそこだけ鋭いの。なんで気づく」
「え?」
「なんでもない……」
こうしたところに
今日だけで2度目の相合い傘の完成。もう外が暗いこともあり、周りからはあまり注目も集めない。お互いの緊張感は最初ほどではなかった。
「唐突だけど、姫乃に彼氏が出来たらずっと甘えそうだな」
「ん、構ってもらえないといや」
「まぁ、その心配はないと思うけどね。姫乃には」
「そう……?」
「ああ」
姫乃のわがまま、甘えはうざったいものではない。むしろ容姿が相交わりこっちから構いたくなる。
ソファーに寝転がっていたりしたら必ずちょっかいを出されることだろう。
「それじゃあ、このまま姫乃の家まで送るよ」
肩を並べながら歩いてすぐ。龍馬は行き先に伝える。
「ううん、先にシバの家。シバのさす傘がなくなる」
「いやいや、外も暗いんだから姫乃を一人にはさせられないよ。ずっと姫乃に甘えっぱなしだし、ここは俺に譲ってくれる?」
「なら、シバに傘渡す。ここを譲ってほしい」
「そ、それじゃあ俺が譲る意味ないと思うんだけど……。譲られ返されてるし」
「お願い」
「はぁ……わかったよ。折りたたみ傘は大学で返すからさ」
「わかった」
お互いの折り合いがここなのだろうと素直に条件を呑んだ龍馬。
姫乃の傘を渡し忘れないように……と脳裏に刻む。
物の貸し借りは信用に関係してくる。人一倍気にしなければならないことだ。
そこから5分後。話が途切れることもなく雑談をしている時だった。
「……シバ、もうすぐでサンタさん」
姫乃は街の木々に取り付けられたイルミネーションに指をさし、目をビー玉のように輝かせる。
「そう言えばそうだな……。クリスマスまで残り三週間あるかないか……か」
「シバは予定、ある? クリスマス」
声が上擦りを見せる姫乃。この話題は少し心臓に悪いのだ。クリスマスと言うのは恋人や両想いの相手で集まる日。
予定がある……つまりそう言う可能性が高いということ。
「悲しいことに予定はないなぁ……。クリスマスにもう一個のバイトが被ってたら予定あるって言えたんだけど」
「シバはもう一つなにしてる? 居酒屋さん?」
「そう言えば話してなかったっけ。書店で働いてるんだよ。ここからは歩いてだと15分過ぎるくらいのところにあるかな」
「看板が白と赤?」
「そうそう」
「場所わかった。姫乃、今度行っていい?」
「もちろん歓迎だよ。俺のシフトが木曜と土曜日だから、その日に来れば会えると思う」
「ん、そうする」
「あと、24日シバに予約入れたい」
「お、ありがとう。でも……24日って言ったらイブだけど俺と予定入れて良いの? 他の人から誘われたりしてるんじゃない?」
「10人くらいのボウリング、誘われてる」
彼氏がいると大学で噂が広まっている姫乃。一対一の誘いはNGに近い行為だが、こうした大人数なら妥当ラインである。
「それって男女5人ずつ……?」
「詳しくは聞いてない」
「多分だけど比率は一緒くらいだと思うなぁ」
「でも姫乃いかない。ボウリング苦手。なんであんなにボール重いの」
「はははっ、姫乃なら体がボールに持っていかれるんじゃない?」
「笑いごとじゃない」
図星を突いてくる龍馬に、姫乃は影が差したような怖い顔を作る。表情が変わらない分、通常の人より圧がある。
「あ、それなら指が5本入るやつとかならいいんじゃない?」
「シバが言ってるの、キッズボール……?」
「そう」
「っ! 姫乃キッズじゃないっ」
「ぶっ、はははっ」
キッズと言った瞬間に目の色も変える姫乃。少し年下に見られるのは構わないのだろうが、キッズ呼ばわりは流石に効くのだろう。例え冗談だとしても姫乃は大学生なのだ。当たり前である。
「じゃあ少し話変えて……室内スポーツで得意なのはある?」
「ダーツ」
「へぇ……って、ダ、ダーツ!?」
「ん」
ボウリングが苦手だと言うのは簡単に想像できるが、ダーツが得意だとは全く考えられない。
そして、姫乃のような女の子が大人の遊びに近いダーツを楽しんでいたら必ずセッションを求められるだろう。
「シバ、姫乃より下手そう」
キッズと言った龍馬へのささやかな反撃である。
「言うねぇ……。なんだかんだで俺も少しはやる方だよ?」
「なら24日、姫乃とダーツいく?」
「じゃあ負けた方はケーキを奢るってルールでしない?」
「二連敗はもう一個ケーキ。三連敗はお願い叶え権」
「乗った」
「姫乃負けない」
「俺の方こそ。会社には電話忘れないようにね」
「ん」
そうして24日の予定を前もって決めた二人。
「シバに勝つ……」
なんて言う姫乃は相合い傘をしている龍馬と距離を縮めていく。
「24日楽しみにしててよ」
「ん、楽しみ。……すごく」
なんて呟く姫乃はしれっと龍馬の腕が当たる位置にまで近いていた。
「シバ」
「ん?」
「いつもありがとう……」
そんなお礼を言った瞬間である。コテっと頭を倒した姫乃は、小さな体を龍馬に預けたのだ。
花音のいる喫茶店に行く際にしていたように、支えてもらうような形で……。
「ひ、姫乃……ど、どうしたの?」
「濡れると、いけない……」
それらしい理由をつける姫乃は龍馬の腕にほっぺたをつける。スリスリと頬ずりをしていた。
言動が合っていないとはまさにこのことだろう。
「くすぐったいって姫乃……。そ、それに足元も見ないと危ないから」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。前もそんなことがあって躓いてるし……」
「でも、こうすると暖かい……」
「そうだけどさ……」
「……シバ、クリスマス、楽しもうね」
姫乃はぎこちなく言う。今、どんな顔をしているのかわかっているからこそ顔を合わせることはない。服に顔を埋めるだけである。
「そりゃもちろん……って、早く足元見る!」
「……やだ」
「やだっておかしいでしょ!?」
そんなことはつゆ知らず、龍馬は押されっぱなしだった。家に帰り着くまでの間、姫乃はずっと密着し続けていた……。
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