想いが向かう先は

第155話

「つまらん真似をするな。私との契約内容を忘れたか? 人間で弄ぶことなど命じていない。殺せと命じたはずだ」


 冷たく見下ろし先には、右半身がボロボロと崩壊しているダンタリオンが。幼女の顔は愉快げな笑みを浮かべている。

 やはり悪魔は、人間や吸血鬼とは精神性が大きく異なっている。こんな状態で笑えるなんて、狂っているとしか思えない。

 しかしダンタリオンは断じて正気だ。元から狂っているのだから、その状態が正しい。


「ンンン〜〜〜、これが位相の力……我らソロモンの悪魔を生み出した一端! まさかこの身で味わえる日が来ようとは!」

「貴様のくだらぬ術でこの世界を汚すな。次はないぞ」

「ええ、ええ。このダンタリオン、肝に銘じましょう。手始めに、あなたの同胞を焚き付けてみますかなぁ」


 耳障りな笑い声は最後まで絶やすことなく、ダンタリオンは姿を消した。

 舌打ちをひとつ。あの悪魔には手を焼かされる。そもそも呼ぶつもりもなかった悪魔だ。本来なら序列の高い悪魔だけを召喚するはずだったのに、なぜあんなやつが出てきたのか。


 ソロモンの悪魔が持つ序列は、単純な戦闘力によって決定づけられている。第三位以上はグレイであっても一筋縄ではいかないだろう。

 当然それは単純な強さ。ダンタリオンのように智略に長けた悪魔もいるし、特殊な能力を持つやつだって。その辺りは七つの大罪に数えられているような悪魔が代表的か。

 相性なども考慮すれば、純粋に序列の高いやつらだけを集めればいいというわけでもなかった。


 そのうち、最高の手札である一位は召喚できた。欲を言えば二位か三位のどちらかも手駒に加えておきたかったが、ダンタリオンのお陰でグレイにも予想外の戦力を確保できたのは僥倖と言えよう。

 ただ、イマイチ目的が見えない。今のところは不確定要素にしか過ぎない。


「随分酷い真似するね。部下は労うものだと思うけど」


 そんな不確定要素である魔女が、音もなくグレイの背後に立っていた。壁に背中を預け腕を組み、心にもないことを言う。


「ダンタリオンの術を乗っ取っただろう。なにか感じたことはあるか?」

「魔術の域を二歩くらい踏み外してた」


 この女が言うなら間違いはない。かつての宿敵として、魔女の実力はグレイも認めている。なにせこの身を滅ぼしかけた相手だ。


「わたしが介入しなかったら、多分愛美ちゃんの精神は本能に乗っ取られてただろうね。あの子はあの子のまま、罪のない人たちを殺しまわる。本当の殺人鬼になるところだったんじゃないかな」

「貴様はそれを阻止した、ということでいいのか?」


 精神を本能に乗っ取られるのではなく、精神を二分した。理性と本能、二人の桐原愛美に分けることで、最悪の事態を防いだ。

 その上で殺人姫を術の核に据え、分かりやすい解決法を提示。おまけにやつの成長を促す。

 正直微妙なラインだ。ダンタリオンの魔の手からやつらを救ったとも見れるし、ダンタリオンの件を抜きにすれば背信行為というにはやつらの被害も大きい。


 読めない。この魔女が何を目的として、現世に留まることを選んだのか。


「そう怖い顔しないでよ。今は仲間なんだしさ?」

「貴様からそのような言葉を聞かされるとはな。偽物かと疑いたくなる」

「わたしはただ、最後まで見届けたいだけ。お前やあの子たちが、この世界をどうするのか。どういう選択をするのか」


 楽しそうに笑う魔女は、グレイの目から見ても異常の一言に尽きた。

 生き返ったのだ。その経緯がどうあれ、再びこの世で自由の身を手に入れた。だと言うのに彼女は、ダンタリオンの支配から抜けて真っ先にグレイと契約を持ちかけてきた。自由を捨てた。その気になれば、かつての仲間たちの元へ行けるのに。


「ああ、安心してよ。別にお前を上回る黒幕がいるとか、わたしな誰かの命令で動いてるとか、そう言うんじゃないからさ」

「ならなぜ私を殺そうとしない。貴様の目的は、私への復讐だったはずだろう」

「そうするわたしだったなら、今頃どこぞで赤ちゃんになってるよ」


 グレイには分からない。

 そう、未来を向こうとしないこの吸血鬼には、桃瀬桃の目的を理解できるはずもない。


「わたしの未来は、全部あの子たちに託した。なら生き返ったわたしがするべきなのは、あの子たちが選択した先の未来を見守ることだけ。過去の亡霊はいらない。敵として立ちはだかるしかないでしょ?」




 ◆



「桃が、生きてる……」


 異世界から帰ってきて直ぐに起きた事件が解決してから、時間にして三日が過ぎた。

 空は相変わらず四六時中夜に包まれているから、正常に動いてくれている時計だけが頼り。自分の体感時間なんてもう当てにならない。


 そんな中、一人事務所で自分の席に腰掛ける織は、腕を組んで思考に耽っていた。


 かつて灰色の吸血鬼に殺された、大切な友達が、生きている。理屈や理論なんてどうでもいい。その可能性が少しでもある。

 ただそれだけのことで、織の心は揺れていた。どこにいるかも分からない彼女を探すべきか、あるいはこの街の防衛に徹するべきか。


 龍やルーク、有澄にイブは、今やこの街にいない。彼ら彼女らは本部へ向かい、今頃忙殺されていることだろう。魔女の件は有澄から蒼に報告されてるはずだが、具体的な司令が来たわけでもない。

 ただ、この街の守りに専念してくれればいいと、それだけを伝えられた。


 遠回しに休めと言われている。けれどジッとしていられるわけもなく、さりとて勝手に動くわけにもいかない。


 重たいため息を吐き出せば、事務所の扉が開かれた。来客、とは言ってもこんな状況で依頼人なんて来るわけもなく、ならば自然と誰が来るのかは限られてくる。

 それでも一応、ここの所長として居住まいを正し、入ってきた二人を迎えた。


「へぇ、ここが桐生探偵事務所か。兄さんや姉さんから聞いてはいたけど、いい場所じゃないか」

「変なちょっかい掛けようとするなよ、生徒会長。本格的に愛美から嫌われるからな」

「ご心配には及ばないさ、元風紀委員長。私はあなたと違って、相手が嫌がることはやらないんだ」

「どうだか」


 意外な組み合わせ、と言えばいいのか。やってきたのは黒霧緋桜と小鳥遊栞の二人だ。交わす言葉は剣呑さを纏ってはいるものの、ある程度の親交や信頼を感じさせるもの。

 仲が良いからこその憎まれ口とやらだろうかと、織は勝手に結論づける。


「どうしたんすか緋桜さん」

「会長様に案内を頼まれてな。ところで、愛美と朱音は?」

「朱音はいつも通り猫の世話。愛美は葵と一緒に桐原の屋敷に行ってますけど、聞いてないんすか」

「聞いてねえなぁ……」


 大きく肩を落とす緋桜。どうやらかなりダメージが大きいらしい。

 まあ、あれで葵もかなり拗らせたブラコンだし、嫌われてるってことはないと思いますよ。

 内心でフォローしつつ、織は視線をその隣へ向けた。


「ああ、桐生くんとこうして話すのは初めてだったね。生徒会長の小鳥遊栞だ」


 華奢な体に頭頂部から一房跳ねたアホ毛。先日の事件の際にも見かけた生徒会長様が、よろしくと握手を求めてくる。

 織はこの会長のことを殆ど知らない。愛美とは仲が良いみたいだし、あの学院祭の時に校内放送で声を聞いた程度だ。

 生徒会は風紀委員に並んで日本支部の絶対的な支配者、なんて話を聞いたことがある上に人類最強の妹だなんて言うから、どの様な人物かと思えば。

 至って常識人っぽいじゃないか。


「見てくれに騙されるなよ、織。こいつ、学院にはもう五年近く在籍してるからな。正式に生徒になった途端生徒会乗っ取るようなやつだぞ」

「五年って……小学校卒業してすぐかよ」


 しかも乗っ取ったってなに。魔術学院における生徒会長の決め方なんて知らないが、絶対碌な手段じゃないだろ。


「まあまあ、私の話は別にいいじゃないか。それより、本題に入ってもいいかな?」


 とりあえずソファに座ってもらい、三人分の紅茶を淹れる。愛美や葵のように上手く淹れれるわけではないが、どちらも不在だから仕方ない。

 二人の対面に腰掛けると、栞は紅茶を一口飲んでから切り出した。


「まずは報告。日本支部の生徒たちのことは、桐生くんも気になってるんじゃない?」

「そりゃな。あの日以降会ってないし、連絡もできてないんだ」

「だったら安心してくれ。今のところ死者は一人も出ていない。日本支部の生徒たちは私の指揮のもと、二つの拠点に分かれてもらってる。一つは京都の安倍家。君の友人でもある、安倍晴樹くんの実家だよ」


 京都の安倍家といえば、織も一度お邪魔したことがある。怪盗と初めて遭遇した時だ。

 あそこはかなり大きな家だし、魔術学院とは深い関わりがあった。かなり良質な土地にあるから、魔術師が拠点とするには抜群の場所だろう。


「もう一つは桐原家。桐生くんにとっても実家と言える場所だね。桐原さんは今そっちにいるんだったね」

「てことは、桐原の人たちも全員無事ってことか?」

「少なくとも、死者が出ているとは報告されていないな」


 大きく安堵の息を漏らす。愛美がその辺の確認のためにも実家へ行ったとはいえ、こうして信頼できる筋からも報告が入れば肩の力が抜けてしまう。


「ただ、アイザック・クリフォードくんは彼の父親と共に本部にいる。クリフォード卿は元首席議会だし、そのサポートのためにね」

「他の奴らはそれぞれの家を拠点に、日本中で戦ってるってことか」

「いくつか中継地点を作ってはいるけど、概ね間違いじゃない」


 ともかく、友人たちはみんな無事だということが分かった。織にとってはそれだけで十分だ。

 しかしその生徒全員の指揮を任されている栞が、わざわざ報告一つのためにここへ来るわけがない。それこそ晴樹や委員長など、友人たちを寄越せばいいだけなのだから。


「さて、現在の日本支部はそんな状況にあるわけだから大丈夫なんだけど、国外で悪魔と糸井蓮の目撃情報が入った」

「蓮の……」

「ああ。日本支部に来ていたアンナ・キャンベルさんは君も知ってるだろう? あの人が十人ほど率いて吸血鬼に襲われた街の救援に向かったんだけど、その情報を最後に連絡が途絶えたんだ」


 アンナ・キャンベルは、織と愛美に掛けられた首席議会暗殺の容疑をもとにやってきた、本部の監査委員だ。

 なんだかんだで日本支部のことを分かってくれて、以降仕事の手伝いをしてもらったり一緒にラーメン食べたりもした。


 そんな彼女が生死不明の状態で、しかも悪魔と蓮の目撃情報まで。

 放っておけるわけがない。


「待てよ織、お前は待機だ」

「……まあ、そうなりますよね」


 逸る気持ちを見透かされたか、緋桜の鋭い目に縫い止められる。

 自分のやるべきことは理解している。ここで織や愛美のような大きい戦力を動かすのは得策じゃない。いつどこで、別の悪魔が現れるか、あるいはグレイが大きく動くかも分からないのだ。


 ならば誰が向かうべきか。

 ここにこの話を持ってきた以上、現在棗市に滞在している誰かが向かうことになるのだろう。

 敵はソロモンの悪魔に糸井蓮。そして吸血鬼たち。

 悪魔を殺し切れる力を持ち、蓮や吸血鬼たちの相手も可能で、連絡の途切れたアンナを救出できる人選といえば。


「俺はこの件、葵たちに任せようと思う」


 妹の名前を口にした緋桜は、そこにたしかな信頼を乗せている。彼女たちなら大丈夫だと確信した声だ。


 葵とカゲロウは本調子とは程遠いだろう。特に葵の場合、吸血鬼にとって重要な血が足りていない。いつもは蓮が提供していたらしいが、それも叶わない今、彼女はかなりの弱体化を強いられている。

 となればあの二人だけで行かせるわけにもいかず、自然と翠も同行しなければならないだろう。


「あとはサーニャさんにも頼むつもりだ。なにせ相手は吸血鬼だからな」

「同じ吸血鬼である彼女がいれば安心というわけだね。桐生くん、異論はないかな?」

「ないけど、緋桜さんはどうするんだ?」

「俺はちょっと他に仕事ができてな。暫くアメリカに行くことになった」


 ということは、ネザー関連か。

 トップかいなくなり、組織としては空中分解してしまった異能研究機関。残っていた研究員たちは全員がミハイルの息がかかったものたちだった。

 そいつらはもはやネザーに残っておらず、一からの立て直しが必要とされる。そうなればネザーに在籍していた緋桜の人脈を使って、研究員を集めなければならない。


 あの科学力は積極的に活用していくべきだ。聞くところによれば、対魔物に特化した兵器もあるらしいし。


「つーことは、街に残るのは俺と愛美と朱音の三人か」

「なにかあれば、本部の方から人を寄越すよ。それと最後にひとつ、魔女について」


 栞がその言葉を発した途端、部屋の空気が変わった。織も緋桜も、彼女のことに関しては敏感にならざるを得ない。


「兄さん曰く、現代魔術での死者蘇生は不可能だそうだ。それは兄さんの力を以ってしても同じ。ただ、相手はソロモンの悪魔だ。一部の条件をクリアできるなら、魔女が蘇っていても不思議じゃない」

「その条件ってのは……?」

「肉体だよ」


 答えの意味が分からず、織は首を傾げてしまう。

 人間が生きている上で重要なのは、魂と肉体。この両方だ。

 人間の魂はただそれだけでは活動できず、器である肉体に宿って初めて人として生きることができる。

 というのが、魔術的観点から見た話。


 その肉体の条件さえクリアできればいいということは、裏を返せば魂の方は難なくクリアしているということで。


「たしか棗市は、ハロウィンの時に大きなゴースト騒ぎがあったんだったね。その時に聞かなかったかな? 魂とは、生きている人間の強い想いが原因で、現世に縛られる」


 苦しそうな表情と舌打ちがひとつ。緋桜からだ。

 完全に、とは言わずとも。織や愛美は彼女の死を乗り越えたはずだった。そりゃ生き返ったら、と思ったことはある。

 けれど彼女の死をなかったことにしたいと願うのは、桃瀬桃という人間の生き様を否定することになる。

 それだけはやってはいけないと、いつだか愛美も言っていた。


 だから、原因は織たちじゃない。それよりももっと強い想いを抱いていた男がいた。


「全く、いつまで死んだ女のことを引きずっているのやら。軽薄な軟派男の実態がこれとはね。桐原さんや妹さんが知ったら、少しはあなたのことも見直すんじゃないかな?」

「うるせぇ」


 まともに言い返す気もないのか、あるいはそれだけの気力がないのか。

 魔女が死んだあの日、黒霧緋桜は明確に敵としてあの場にいた。その目的がどうであれ、だ。そのくせに今更、なんて。誰も責められない。緋桜にはたしかな信念があった。

 そんな彼の想いは幾ばくか。織程度では察してなお余りある。


「ともあれそういうことだ。桃瀬桃の魂は日本支部のあの場に縛られたままだった。恐らくはダンタリオンがそれを捉えたんだろうね。なにかしらの手段で肉体を用意して、蘇ることになってしまった」

「あいつが、桃が今どういう状況なのかは、分からないのか?」

「そこまではなんとも。完全に向こうの手駒になっているのか、ある程度の自由は与えられているのか。あるいは、本人の意思でやつらの所にいるってのも考えられる」


 現状可能性が高いのは二つ目か。

 ダンタリオンの言葉を信じるなら、先日の事件は魔女のお陰で簡単に解決できたと見るべきだ。なら彼女のできる範囲内で、こちらの手助けをしてくれている。

 洗脳されていたり、手駒にされていたり、そういった可能性は考えられない。


 同時に、彼女本人の意思でグレイの元にいる可能性も、存在している。


「私からは以上だよ。黒霧さんたちには、今日にでも出発するよう伝えておいてくれ」

「あ、ああ……」


 最後にそれだけ告げて、栞は一人で事務所を出て行った。残されたのは織と緋桜の二人。カップを傾ける緋桜の目は、どこか遠い場所を映しているように見える。


「なあ織。お前は、あいつに会いたいと思うか?」

「まあ、叶うなら会いたいと思いますけど」

「そうか……俺は、出来れば会いたくないと思ってるよ」


 力なく浮かべた笑み。彼の持つ想いとはまるで相反した言葉は、決して嘘じゃないのだろう。

 緋桜ただ一人の想いだけで彼女の魂が囚われていたのは、きっと黒霧が受け継いだキリの力も影響している。


 想いの大きさが、心の強さが、そのまま彼の力になる。

 妹の葵にも受け継がれたそれは、他の三つとは違っていい方向にばかり働くわけではない。


「あいつもきっと、誰のせいで自分が生き返ったのかには気付いてるんだろうな。もし会ったらなんて言われるか」

「間違いなくバカにされますよ」

「だな」


 感情の置き場がどこにもなくて、誤魔化すための乾いた笑いだけが漏れている。

 緋桜のこんな姿を見るのは初めてだ。織自身、そう長い関わりがあったわけではないが、愛美や葵から聞いていた人物像からは想像できなかった。


「これは男同士の秘密にして欲しいんだけどな。俺、あいつには惚れてたんだよ」

「だと思いました。愛美たちは気付いてないと思いますけど」

「あいつはそこらへん、どうにも鈍いからなぁ」


 全くその通りである。緋桜も隠すのが上手いということもあるが、それ以上に愛美や朱音はその辺の機微に疎い。

 織は身をもって実感している。


「翠のことも、まだ心の整理がついたわけじゃないんだ。あればっかりは完全に予想外だったし、あの姿を見ると、どうしてもな」


 翠のドレスは、どうしようもなく彼女を連想させてしまう。当然だ。魔女と全く同じドレスを使っているのだから。


 ポケットからタバコを取り出した緋桜は、寸前でそれを戻そうとした。ここが事務所の中だと失念していたのだろう。

 しかし織はそれを制して、立ち上がり室内の換気扇を回す。


 悪いな、と一言礼を言って、緋桜の手元に緋色の花びらが収束した。瞬く間に同じ色の灰皿が出来上がりだ。


「それ、綺麗な魔術っすよね」

「あいつにも同じこと言われたよ。だからってわけでもないけど、結構自慢なんだ」


 タバコに火をつけ、吐き出された煙が室内で揺らめく。

 織は当然タバコを吸わないから、嗅ぎ慣れないメンソールの香りが鼻についた。


「会いたくない、ってのはちょっと違うか。会うのが怖いんだ。俺の犯した罪も、この想いも、全部を曝け出されそうで」

「それは……ちょっと分かります」


 桃瀬桃の死は、織にとって己の弱さの象徴たる一つだ。

 もしもあの時、肩を並べて戦うことができていればと、何度となく思った。


 言うはずがないとは思うが、生き返った桃からその弱さを糾弾されでもしたら。きっと受け止めきれない。

 その弱さを抱えて生きるのが桐生織という人間だが、抱えきれずに折れてしまう。


「なんて言っても、いつかはあいつとぶつかる日が来るかもしれないけどな。それまで精々、覚悟だけは決めとくさ」

「もし、あいつと戦わなくちゃならなくなったら、緋桜さんは戦えますか?」


 深くタバコを吸って吐き出されるまでの間があった。色んなものを飲み込むための。

 燻る紫煙を眺める瞳に強い決意を宿し、緋桜はタバコを握りつぶして言う。


「戦うさ。俺たちが向かう未来に、立ちはだかるって言うならな」



 ◆



 全員を集めて栞から聞かされた話をそのまま伝え、葵とカゲロウ、翠にサーニャの四人が日本を旅立った後。

 時刻は午後の十一時近くになっていた。空は依然として夜から変わらないから、時計にどれだけの意味が残されているかは分からないが。

 少なくとも、織たちは三人とも夕飯を食べ終え、朱音は事務所の二階で寝ている。


「緋桜のやつ、事務所でタバコ吸ったでしょ。まだ匂いが残ってるわよ」

「あの人も色々苦労してるんだし、ちょっとくらいは目を瞑ってやれよ」

「色々、ね」


 事務所の外に出て愛美と二人、月を見上げていた。

 乾いた風が肌を撫で、今が冬なのだと思い知らされる。もう少しでクリスマスだ。できれば朱音には楽しんでもらいたいが、果たしてそれが叶う状況なのか。


 寒がりな愛美は暖を求めるように擦り寄ってきて、ギュッと手が握られる。


「愛美は、あいつに会いたいって思うか?」

「できるなら、ね」


 会いたくないわけがない。

 桐原愛美にとって、唯一無二の親友だったのだから。死地でしか生きられない二人が、初めて手に入れた友情だったのだから。


「でも、戦いたくないとも思うわ。今の桃と会えば、間違いなくそうなっちゃうのに」

「……だろうな」


 彼女がどういう状況なのか、どのような意図があってグレイの元にいるのか。なにも定かじゃないが、それでも。

 感覚として、分かる。

 会えば戦うことになるのだと。


「こんな我儘は通らない。現実は私が思ってるよりもずっと残酷で、だったら私は、それに合わせて強がるしかない。真正面から、立ち向かうしかないのよ」


 己の弱さを少しでも受け入れることができた愛美であるが、今回はあまりにも残酷すぎる。

 だったら、愛美を支えるのが織の役割だ。いつもとなんら変わらない。


 真っ直ぐ、正しく在る彼女と。

 互いに補い合い、支え合って戦えばいい。この残酷な現実と。


 けれど世界は、そんな二人の決意を嘲笑うかのごとく進み続ける。


「いやぁ嬉いなぁ。久しぶりに顔を見に来たら、まさかそんなこと言ってくれるなんてさ」


 頭上から、聞こえるはずのない声が聞こえた。人が誰かを忘れる時、その声から忘れると言うが、聞き間違えるはずがない。


 心臓が早鐘を打つ。

 まさか、あり得ない、どうして。この後に及んでそんな思考ばかりが脳によぎるが、十分に予想できたはずだ。


 見上げた先で浮いている人物を見て、時が止まったかのように錯覚した。


 魔術学院の制服に包まれた華奢な体。両肩から垂らしたおさげ髪。憎たらしくも優しさの帯びた笑顔は、あの頃と何ら変わらない。


 声は喉の奥に詰まって、感情の波が全身を襲い鳥肌が立つ。

 間抜けな顔を浮かべることしかできない二人に、柔らかい微笑みが落とされた。


「久しぶりだね。愛美ちゃん、織くん。元気そうで安心したよ」


 魔女、桃瀬桃。

 かつての戦いで命を落とした復讐者は、その瞳から憎悪の炎を消していた。

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