第150話

 ドラグニア神聖王国から遥か北にある雪国、ノウム連邦。背の高い山脈に囲まれたそこは雪国の名に違わず、年中雪が降っている。

 建物や食事などの文化は全体的に和風寄りで、木造の平屋が多く並んでいた。異世界なのに日本文化が広がっているのは謎だが、織たちの世界とは違った経緯を辿って和風文化が形成されたのだろう。


 連邦とある通り、この国はいくつかの小国がより集まって形成された国だ。歴史はドラグニアよりも更に長く、百年戦争が行われる遥か昔、人間同士で争いが繰り広げられていた頃に出来た国らしい。


 異世界に来て六日目。邪龍教団の事件が解決してから二日経った今日。イブの訓練もひと段落したということで、織たちはこの国へ湯治しに来ていた。


「あぁ〜、極楽極楽……」

「こんなにちゃんとして露天風呂なんて久しぶりね。ドラグニア城は地下だったし、うちの屋敷も室内だし」

「雪国の温泉って風情があっていいよね〜」


 織と愛美、朱音の三人は、ノウムの中でも一番と名高い最高級の旅館に泊めさせてもらっていた。そこで真昼間から温泉を貸し切り状態にして、家族水入らずの時間である。

 愛美と朱音はワンピースのような湯浴み着を着ているけど、織としてはどうにも目のやり場に困るのが本音だ。


 朱音は娘だし、愛美は今更その程度で恥ずかしがったりする仲ではないが。まあ、ほら、なんか照れくさいじゃん。


「北海道とか東北の方だと、温泉に猿も入ってるんだっけか」

「たまにテレビで見るわね。この世界に日本猿がいるのかは分からないけど」

「人間がいる以上猿もいると思うけどね」


 雪が降る露天風呂にて、そんな毒にも薬にもならない話を展開する三人。

 思えば昔は、風呂場ででくわした愛美に思いっきり蹴り飛ばされたりもしたが、あの頃と比べて随分進展したものだ。今では一緒に温泉入ってるのだから。朱音も一緒だけど。


 その朱音が湯船にぷかぷか浮きながら、ふと思い出したように尋ねてきた。


「そういえば父さん、オーバーロードはもう完璧なの?」

「あれなぁ……有澄さんとイブさん曰く、一応及第点らしい」


 銃剣シュトゥルムのリミッターを外す技。

 龍の巫女が龍神の力を借りるのと同じ、ドラゴニック・オーバーロード。

 巫女の場合、彼女らは自身の魂と龍神の魂の二つを、一つの体に内包している。そのうち龍神の魂へと魔力を過剰に供給することで、ドラゴンの姿へと変貌するらしい。


 織たちの世界において、魂とは魔力を、ひいては生命力を生み出すものだ。逆に魔力を魂へ供給するなんてのは、既存の魔術理論に存在しない。

 この世界特有の魔術理論なのだろう。聞いたところによると、一般的な魔導師でも自身の魂へ魔力を流すことにより、魔導では実現できないレベルの強化が施されるという。その辺りは概念強化と似た理屈らしい。

 織も試してみようと思ったが、イブに止められた。どうやら織たち魔術師の体、魂は、そのように作られていないとのことで。魂へと魔力を逆流してしまえば普通に死ぬらしい。試さなくてよかった。


 閑話休題。

 龍の巫女が魂へ魔力を過剰供給するように、織はシュトゥルムへ魔力を過剰供給することで、オーバーロードを実現している。後からシルヴィアに聞けば、やはり彼女が意図して作った機能ではなかったようだ。

 龍神の娘という彼女の特性ゆえに、勝手に生まれた機能らしい。


 昨日一日は、そのオーバーロード状態の訓練に費やされた。

 同じくオーバーロードを発動した有澄を相手にさせられ、割と死ぬ思いをしてようやく及第点。シュトゥルムに宿った輝龍の力は、今のところ六割ほどしか出せていない。

 それでも十分と有澄からは言われたが、恐らくは織たちの世界とこの世界で共通の法則が働いているのが理由だ。


 名前における相性。本人と力との親和性。

 単純な話で、輝龍と桐生。読みがただ同じだけだが、魔術理論からすればそれは大きな強みだ。

 例えば糸井蓮が糸を用いた魔術を得意としていたり、黒霧緋桜が霧と緋色の桜を扱う魔術を使っていたり。


 それぞれが持つ名前には、必ず意味がある。シュトゥルムという単語それ自体はこの世界で特に意味を持たない、一般的な苗字としてあるようだったが、シルヴィアが自分の作った銃剣にその名を与えたことで、銃剣は彼女の力を宿すことになったのだ。


 とまあ、そのような理由から。織はシュトゥルムの力をある程度は使いこなせている。

 しかしあくまでもある程度だけ。全力には程遠いだろう。なにせ、本物の輝龍のように光を力に変える芸当はまだできないのだから。


「そもそもあれって、具体的にどういう効果があるわけ? 単純に魔力とかが強化されるって感じでもなさそうだったけど」

「魔力の質が変わってるんだよ。この世界って、人間とドラゴンじゃ同じ魔力って言ってもちょっと違うだろ?」


 人間の魔力と龍の魔力。同じ魔力ではあるが、その質は決定的に違う。

 ドラゴンの方がシンプルに強力で良質な魔力を持っている。だからこそ難度の高い魔導を扱えるし、そのひとつひとつをとっても絶大な威力を発揮する。

 一方で人間の持つ魔力は、ドラゴンに比べるとかなり弱く思える。しかしこの世界の人間は、自分たちの魔力に合わせて多くの兵器を開発した。

 ドラグニア城の兵士たちが持っていた魔導銃などが代表例だ。あの銃は使用者の魔力をそのまま弾丸として撃ちだすものだが、使えるのは人間だけ。なにも魔導銃に限らず、その他の兵器であっても同じ。人間の魔力にのみ反応して使用することができる。


 一方で龍具と呼ばれるものは魔導銃などとは違い、龍の力が込められた魔導具だ。人間だろうがドラゴンだろうが誰でも扱うことができる。

 しかし数自体が少ない。龍具を作れるほどの力を持つドラゴンとなれば、龍神に近い力を持っていなければならないから。


「それから、そのドラゴンの特性、まあ異能みたいなんも使えるようになるらしい。俺はその辺まだだけどな」

「光を魔力に変換するやつだね。使えたとしても、元の世界に戻ったら機能しなさそうだけど」


 そこなのだ。

 織たちの世界は今、灰色の吸血鬼によって夜に包まれている。地球の裏表も関係なく、二十四時間ずっと夜が続いている。


 仮に織がシュトゥルムの力を100%使えるようになったとしても、あの空をどうにかしないことには宝の持ち腐れだ。


「いや、空もどうにかしないとダメだけど、まずは仲間を取り戻すことが先だ」

「葵さんとカゲロウのためにも、ね」


 ダンタリオンによって敵の手に落ちた糸井蓮。彼がその後どうなったのかは分からない。有澄は何度かあちらに戻っているようだったが、今のところ大きな動きはなにもないと報告されているし、蓮が姿を見せたということもないのだろう。


 織にとっても大事な後輩だ。まずは彼を救い出すのが最優先。今の自分たちなら、悪魔が相手であっても互角に戦える。


 重くなり始めた空気。それを払拭するように、愛美がパンと手を叩いた。


「やらなきゃいけないことはたくさんあるし、私だって早く蓮のことをどうにかしてあげたいけど。今は休む時でしょ。あんまり考えすぎるのはなしよ」

「つってもな……」

「なら言い方を変えるわ。今は家族水入らずの時間なんだから、私たち以外のことを考えないで」


 まるで愛美の我儘みたいな言い方をされてしまえば、織も頷くしかなくなる。こういうところが、いつまで経っても敵わない。


 本人が言ったように、愛美だって早く元の世界での戦いに戻りたいだろうに。それでも彼女は逸る気持ちを抑えて、織たち家族のことを考えてくれる。


「そうだ父さん! 背中流してあげる!」

「いいわね。私もしてあげるわよ」

「え、別にいいぞ」

「いいからいいから」


 愛美と朱音に両手を取られ、無理矢理湯船から上がらせられた。湯浴み着から伸びる健康的な肢体が眩しい。二人の白い肌には傷一つなくて、剣を持ち敵の命を刈り取る普段の姿が想像できない。


 シャワーの前に座らされ、背中では美人な親娘がボディソープを泡立てている。

 なぜかイケナイことをしている気になってしまった織だった。



 ◆



 温泉から出た三人はせっかくなので、レコードレスをブレスレットに形を変え、旅館の浴衣を着ることにした。

 そもそも朱音は転生者だから、ドレスを着ている必要も特になかったりするのだが。


 そうして着替えた織と愛美は旅館の周囲を散策することに。朱音はさっさとどこかへ消えてしまった。気を使わせてしまったらしい。もはやいつものことであるが、異世界で娘を一人にするのは些か不安がある。

 恐らくは一緒にこの国に来た翠や有澄のところにいるとは思うが。


 ここはノウム連邦の中心に位置する首都だ。ひとつ山を越えればまた別の温泉街が広がっているらしいが、やはり首都の旅館は最高級クラス。イブは昔よく来ていたとか言っていた。


 旅館もイブが手配してくれたもので、訓練のご褒美に最初から用意するつもりだったらしい。


「しかし、マジでずっと雪が降ってるんだな」

「そのくせ積もってる雪はちょうどいいくらいなのよね」


 手を繋いで川沿いを歩く二人は、街を覆う雪化粧を眺めていた。立ち並ぶ平屋には薄く積もる程度で、道の雪は殆どが傍の方に避けられている。路面が凍ることもなく、車も普通に走っていた。

 冷静に考えて、異世界に車ってどうにもミスマッチだし、この場に限って言えば完全に日本の温泉街の風景だ。異世界感全くない。


 石造りの橋へ上がり、その中央で一度足を止める。ここはかなり標高が高い位置で、街は下り坂に沿うように広がっていた。見下ろした先には平和な街並みが、逆にここより高い位置を見上げると、一際大きな建物が目につく。ノウム連邦の大統領がいる城らしい。


「この国も随分平和ね」

「だな。ドラグニアと比べると随分静かに感じるけど、それも風情があるし」


 民族性によるものなのだろうが、ノウム連邦の人たちはドラグニアの人たちよりも穏やかというか、のんびりというか。なにせゆったりまったりとした雰囲気がこの首都には広がっていた。

 すぐそこの軒先には、小さなドラゴンが丸まって欠伸をしているし。まるで猫みたいな仕草だ。


 ドラグニアのような熱気や活気はなくとも、これはこれで過ごしやすい街といえる。むしろ温泉街というのなら、これくらいが普通なのかもしれない。

 温泉を目当てに訪れた観光客は、殆どがこういうゆっくりとした時間を過ごしたいだろうし、体や精神を休ませるにはこういう雰囲気が相応しいのだろう。


 愛美と二人、ゆっくりと坂を下っていく。道中で目についた店で和菓子じみた異世界の食べ物を買い食いしながら、久しぶりのデートを楽しむ。


「そこの若いお二人さん、甘酒はどうかね?」


 旅館からそれなりに距離を歩いたところで、甘酒を売っている老婆に声をかけられた。断る理由も特にない。店先の長椅子に座らせてもらい、一つずつ頂くことに。


「甘酒って、たしかアルコール入ってたわよね」

「未成年でも飲んでいいやつだろ。1%未満とか聞いたことあるぞ?」

「飲んだことないのよね。美味しいのかしら」

「俺は昔飲んだことあるけど、まあそれなりって感じだな。この世界の甘酒がどんなのかは知らんけど」


 実はこの世界の甘酒は普通にお酒でした、とか言われても、魔力コントロールでアルコールは分解できるし。酔うなんてことはまずないだろう。


「お待たせしました。それと、これはサービスの羊羹じゃ」

「いいんですか?」

「ええ。見たところ、新婚旅行でノウムに来てくれたのじゃろう? この老ぼれから、若い夫婦にせめてものお祝いじゃよ」

「夫婦……」


 呟き、ポッと頬を赤らめる愛美。なんだか織まで照れ臭くなってしまう。

 訂正する暇もなく老婆は店の奥へ戻ってしまった。残されたのは、妙にぽわぽわした雰囲気の二人のみ。


 とりあえず運ばれてきた甘酒を一口飲めば、少し違和感を覚えた。味が違うのは異世界だし当たり前だとしても、それ以外のところで記憶とは違うなにかを感じる。


「ねえ、織」


 違和感が形を持つ前に、隣から熱を帯びた声が発せられた。視線を向けた先の愛美は未だに頬を紅潮させていて、両手で持ったコップの水面を見つめている。


「私たちが夫婦になれるのは、いつになるのかしら」

「それは……」


 すぐに答えることができなかった。

 以前にも一度、似たようなことを言われた。それ以降織も真剣に考えてみたのだ。お互いに日本の法律上では結婚できる歳だし、まだ世界が平和なうちに、とか。

 今はもうそんなことできる状況ではなくなってしまったが、織が答えあぐねた理由はそれじゃない。


 未来視を使った。真剣に考えだしてから、いつかそんな未来が来るのかと覗いてみたことがある。


 結論から言うと、なにも見えなかった。

 バージンロードを歩く愛美も、婚姻届を出しに行く二人も、なにも見えなかった。

 今思えば、間接的に世界の変化を表していたのだろうが、それでも未来が見えなかったのは事実だ。


「いつか、全部が終わった後。グレイを倒して、世界が平和になった後になるだろ」


 苦し紛れでもそう言うしかない。

 生き急いでいると言われればそれまでだが、愛美と夫婦になって、本当の家族になるのを夢見たことは何度もある。叶うなら、今すぐにでもと。


 そして所詮は苦し紛れの口八丁にすぎない。言葉の綻びを、愛美は見逃してくれない。


「無理よ。私たちの戦いが終わるってことは、世界が作り変えられるってことだもの。そこでは私もあなたを覚えていなくて、赤の他人として存在している。もう一度あなたと出会って、あなたのことを好きになる自信はあっても、この世界であなたとは夫婦になれない。朱音がいる、この世界では」


 結局はそこに帰結する。

 世界が作り変えられて、仮にもう一度織と愛美が出会ったとしても。

 桐生朱音の存在がどうなるのかは、全く予測できない。


 もしかしたら完全にいなかったことになってしまうのかもしれないし、もう一度二人の間に生まれてくるかもしれない。あるいは、今の朱音がそのまま改変された世界へ渡る可能性だってある。


 全くの未知。だからこそ悪い可能性も考えてしまって、愛美は急かすようなことを言う。


「それに、朱音のことを抜きにしても……私はあなたが好きなのよ」

「お、おう……」

「好きで好きで、あなた以外に考えられないの」


 突然の告白に驚きながら、照れを誤魔化すように甘酒を飲み干した。

 くらりと、脳が揺れる。すると先程の違和感が今更形を持って、まさかと思い愛美へ視線を戻せば、そのまさかだった。


「織のことがこんなに好きなのに……大好きなのに……」


 紅潮した頬。トロンとした目。肩に寄りかかってきて物欲しげにこちらを見上げてくる。間違いない、完全に酔ってやがる。

 愛美は愛の言葉を囁く程度じゃ顔を赤くしたりしないし、こんな人の往来のあるところで甘えてきたりもしない。つまり酔っ払ってる。


 この甘酒、アルコール度数がかなり高いのだ。織が違和感を覚えたのは味の違いよりもそこだった。一口目で気づけば良かったのだが、飲みやすさに騙されてしまった。


「愛する人と夫婦になりたいと思うのは、当然のことでしょ?」

「あー、まあ、そうだけど……とりあえずほら、羊羹食え」

「食べさせて」


 あー、と開いた口へ、切り分けた羊羹を放り込む。実に美味しそうな笑顔で咀嚼した愛美は、おかわりを要求するようにまた口を開けた。可愛い。

 なくなるまで食べさせてやっているうちに、夫婦云々の話はどこかへ行ってしまったらしい。満足そうなだらしない笑顔で腕にしがみついてきた。めっちゃ甘えてくる。


 悪い気はしないが、さすがに人の目もある。さっきから店の前を通る人たちは、絶世の美少女が浮かべる緩みきった笑顔に釘付けだ。見せもんじゃねえぞ。


「ほら、そろそろ旅館に戻るぞ」

「だっこ」

「えぇ……」


 まさかの要求が飛んできた。

 だっこってこいつ……十八歳の女性を子供にするみたいに抱えるわけにもいかないし……さすがに幼児退行しすぎなのでは?


「おんぶで我慢してくれ」

「やだ」

「ったく……」


 どうにもこちらの言うことを聞かなそうだったので、いわゆるお姫様抱っこで妥協した。めっちゃ頬擦りしてくる。普段なら愛おしさが爆発しそうなものなのだが、相手は酔っ払いだ。それが頭にあるから、織は自分でも不思議なくらい冷静だった。


「んふふ……」

「はぁ……」


 この数分で一気に疲れた。

 さすがにこの状態で街中を歩く度胸は持ち合わせていないので、旅館の部屋へ転移してしまう。

 おろそうとしてもしがみついてイヤイヤと首を振るもんなので、仕方なく抱えたまま。両手も塞がったままだから、全部魔術を使って布団を敷いた。


「ほら、酔っ払いは寝とけ」

「酔っ払ってにゃい」

「呂律回ってねえじゃん」


 半ば無理矢理布団に下ろせば、不安そうな瞳が見上げてくる。ほんの少し罪悪感で胸が痛んだ。


「どこにもいかない?」

「いかない。ずっとここにいる」

「本当?」

「本当だよ。お前の横にいるから」


 優しく微笑んで小さなキスを落とすと、愛美は嘘のように寝入ってしまう。

 酔うと魔力操作も上手くいかないのか、簡単に魔術をかけられた。


 これで明日覚えてたら、色々面白いんだけどなぁ。



 ◆



 織たちと共にノウム連邦へやって来ていた有澄は、これから会う相手のことを考えると憂鬱で仕方なかった。


 イブが最高級クラスの旅館を押さえてくれた時には生まれて初めて彼女に感謝する勢いだったのに。

 事件当時イブがここの温泉でゆっくりしていたと聞いて若干怒りが湧いたし、引き換えに提示して来た有澄の仕事を聞いて今度はここに来たくなくなった。


 しかし織たちのことを考えれば、首を横に振るわけにもいかない。

 意図せず彼らを巻き込んでしまったし、イブの地獄のような訓練を最後までやり遂げたのだから。そのご褒美のためとあれば、大人の自分が嫌だと言うわけにもいかないのだ。


「ごめんなさい、翠ちゃん。わざわざ付き合ってもらっちゃって」

「いえ、問題ありません。たしかに温泉は興味がありましたが、この国の龍の巫女とやらも同じ程度には気になります」


 場所はノウム首都のとある茶屋。城にほど近いこの店は、身分の高い者しか使わない。ドレスコードがあるわけではないが、周りの客たちはみな上品な服に身を包んでいた。

 暗黙の了解として、相応しい格好をしてこないといけない場所。貴族や王族などが使う店はそういう場所が多い。

 その点、翠は問題なくクリアしている。くるぶしまで丈のあるアウターネックのドレス。帽子は流石に外してもらい、セミロングの髪は有澄が結ってアップに纏めている。

 軽く化粧もしているから、これなら貴族の令嬢だと言われてもおかしくはない。


「しかし、なぜわたしを同行させたのですか? あなたの護衛というのであれば、シルヴィアを連れて来るべきだと思いますが」

「シルヴィアは先日の後処理がありますから、城でお留守番です」


 ノウム連邦の温泉に行ってくると告げた時の彼女は、なんとも悲壮感漂う顔をしていた。なにせせっかくできた友人も行ってしまうというのだ。シルヴィアとしては、是が非でも同行したかっただろう。

 けれど仕事というのは、個人の友情を尊重してはくれない。


 おまけに有澄の用事、この国の巫女に会うことを伝えれば、綺麗に掌を返して笑顔で見送られた。

 薄情な従者を持ったものである。


「ならあなたひとりでも良かったのでは」

「それがそうもいかないんですよね。わたし、今から会う相手とは相性が悪いというか、シンプルに仲が良くないんですよ」


 どうしてそんな相手と会うのか。

 そう言いたげな翠の顔は、疑問符で埋まっている。


 わたしだって、できれば会いたくないんですけどね……。


 内心でため息を漏らすが、イブに言われてしまえば仕方ない。おまけに彼女と会う目的だって、先日の事件に関連するものだ。無視するわけにはいかなかった。


 それからしばらく待っていると、待ち合わせの時間となった。しかし相手が来る様子もなく、やがて十分が過ぎようとした時、店の中に男性用のスーツを着た女性が現れる。


「よう、待たせちまったな」

「本当に待ちました。十分遅刻です」

「相変わらず細けえなニライカナイは。そんなんで異世界の旦那さんは愛想尽かさないのかね」

「ご心配には及びませんよ、蒼さんとは変わらず仲睦まじく暮らしてますから」


 怖いくらい穏やかな笑顔の有澄が相対するのは、燃え盛るような紅蓮の長髪を持つ男装の麗人。

 彼女こそがこの国に滞在している龍の巫女。アリス・ニライカナイの天敵にしてライバル、決して相容れない女性。


「クローディア・ホウライだ。よろしく、異世界からのお客人」

「出灰翠です」


 簡単に自己紹介だけを済ませると、クローディアは向かいの席に腰を下ろす。その所作ひとつひとつに上品さのカケラもなく、見た目以外はこの場に似つかわしくない粗雑なもの。

 そういうところも、有澄は好ましく思えなかった。


「んで? ニライカナイがわざわざオレに何の用だよ」

「勘違いしないでください、あなたに会うのはあくまでもついでです。わたしの友人がノウムの旅館に泊まっていますから」

「ああ、友人ってのはあの二人のことか」


 綺麗な顔にいやらしい笑みを貼り付けるクローディア。有澄の片眉がピクリと上がって、正面を睨め付ける。


「ちょっと姿を変えて様子を見させてもらったが、ありゃ傑作だったな」

「織くんと愛美ちゃんになにかしたんですか? 事と次第によってはただじゃ済ましませんよ」


 店内の温度が急激に下がり始める。

 隣に座っている翠は静かに嘆息した。なるほど、自分が連れてこられたのはこういう理由か。シルヴィアの普段の苦労が察せられる。


 そんな翠の心情を知る由もない有澄からは、彼女の苛立ちに呼応して魔力が溢れていた。言わずもがな、温度が下がった原因である。しかし本人は気づかず、ニタニタと下卑た笑いを浮かべるクローディアを睨んでいる。


「そう喧嘩腰になるなよニライカナイ。軽く甘酒を振る舞ってやっただけだ」

「甘酒って……まさかこの国の甘酒を飲ませたんですか⁉︎」

「当然だろ。ノウムに来ておいてあれを飲まないなんて選択肢はない」


 この世界の甘酒は、本来なら織たちの世界と似たようなものだ。アルコール度数はかなり低く、ソフトドリンクと同じ扱いをされている。

 もっと言えば、ドラグニアやノウム連邦など、この世界の大国では飲酒可能な年齢が十八歳からだ。


 織も愛美も、もう十八の誕生日を迎えている。法律的には問題ないのだが、それがこの国の甘酒となれば話は別である。


「なにかまずいのでしょうか」

「ノウムの甘酒はドラグニアや日本のものと違って、かなりアルコール度数が高いんですよ。たしか40%以上はあったはずです。お酒に慣れてない人が飲むものじゃありません。ましてや二人ともまだ子供です」

「たしか、桐原愛美はアルコールの耐性値がかなり低いとの情報を視たことがあります」


 額に手を当ててため息を漏らす有澄。織と二人とのことだったし、間違えても朱音は飲んでいないはず。それだけが唯一の救いか。

 愛美の方も、織がいればなんとかなるだろう。それはそれとして、クローディアの所業は許されないが。


「とんでもないことをしてくれましたね……」

「ハハッ! そう褒めるなよ!」

「本当に、一度痛い目を見たほうがいいんじゃないですか」

「なんだ、やるか? いいぜ相手になってやるよ。この前のラプンツェルとか言うやつじゃ消化不良だったからな!」


 クローディアからも魔力が溢れる。燃えるように熱い炎の魔力。有澄の魔力と相殺する形で店内の温度が元に戻り始める。

 周囲の客たちは龍の巫女に気付いたのか、そそくさと退店していった。店員はどうすればいいのか分からずに慌てているだけ。


 この女だけは、身の程というのを弁えさせなければならない。

 杖を取り出す有澄と、斧を持つクローディア。まさに一触即発。緊張が店内に走る中、場違いなため息の音が聞こえた。


「二人とも落ち着いてください」


 熱気と冷気が引いていく。放出されていた魔力が消え、両者は強制的に椅子へ座らせられた。

 出灰翠の異能、情報操作によるものだ。


「彼方有澄、あなたらしくもありません。こんなところでことを構えてどうするのですか。今日は先日の事件について、話をしに来たのでしょう」

「す、すみません……」

「クローディア・ホウライ、あなたもです。彼方有澄と険悪なのは理解しましたが、店に迷惑をかけるのはあなたとて望むところではないはず。煽るような発言は慎んでください」

「お、おう……」


 無表情のままで淡々と言われれば、妙な圧を感じて素直に引き下がってしまう。

 一回りも歳下の少女に叱られる情けない大人が二人。

 やっぱり翠を連れてきて正解だった。この子ならクローディアを言い包めることができるだろうと思っていたから。などと、自分のことを棚にあげる有澄。


「それじゃあ、事件の話をしましょうか」

「つっても、解決したんだろ? ナインのやつが暴走薬のワクチンも作ったって聞いてるぞ。今更なにを蒸し返すんだよ」

「あなた、ラプンツェルと戦ったと言いましたね。なにか感じるものはありませんでしたか?」

「オレら巫女と同じことをする人間もいるんだなぁ、くらいだよ」

「そこですよ」


 スノーホワイト、シンデレラ、ラプンツェル。この三人はいずれも、龍の巫女と同等の存在だった。

 その体にドラゴンを宿し、オーバーロードまで使える。暴走してはいたが、龍神に届くほどの力も持っていた。もしも正気の状態で戦えば、もう少し苦戦していただろう。


 ならばなぜ、そんな存在が生まれていたのか。いや、そもそも彼女らはどういった存在だったのか。

 スノーホワイトもシンデレラも、有澄とシルヴィアがやり過ぎたせいで死体が残らなかった。しかし一方で、ノウム連邦に現れたラプンツェルは死体を回収できていたのだ。


「あなたなら、彼女たちがどういった存在なのか、理解しているんじゃないですか?」

「まあな。とはいえ、それはそこのガキも同じだろ」

「わたしはあくまで、あなたの見解を聞きにきています」


 龍の巫女は、魂の色を見ることができる。

 転じて、魂に宿るとされる異能の正体も、彼女らには見えているのだ。

 クローディアが翠も理解していると言ったのは、情報操作の異能に気付いたからだろう。たしかに翠なら、スノーホワイトたちの正体を理解しているし、ドラグニアでも一度話を聞いている。


 しかしあくまでも、それは単なる情報に過ぎない。もっと言えば、異世界の存在である翠にはそこから発展した考察などを提供できないのだ。

 だから有澄は、嫌で嫌で仕方ないけど、こうして専門家に話を聞きにきたのだから。


「ラプンツェルは魂も肉体も、完全に作りもんだった。ホムンクルスに近いが、既存の理論が完全に当てはまるわけでもねえ。その辺はお前の方が詳しいだろ」

「この世界の人間が、今後再現できると思いますか?」

「無理だな。肉体だけならまだしも、魂まで作るとなりゃ話は別だ。不可能だよ。異世界の魔術とやらが使われてんなら余計にな」


 クローディア・ホウライの専門は魔導人体学。人の体を魔導の観点から研究する分野だ。そこから転じて、魂や精神といった非物理的なものにも手を伸ばしている。


 その道の専門家が言うのだから間違いはないのだろう。

 聞きたかったことは聞けた。これ以上この場に長居する必要もない。お茶の入ったコップを空にして立ち上がった有澄は、形だけの礼をした。


「ご協力感謝します、ホウライの巫女」

「あー、そういうのいいから。ここの勘定は頼むぜ」

「だそうなので、行きましょうか翠ちゃん」

「はい。では、失礼します」


 ペコリと丁寧にお辞儀する翠。こんな人にそこまで丁寧に挨拶しなくてもいいのに。


 会計をしてから店を出れば、翠は真っ先に当然の疑問をぶつけてきた。


「あなたがああも取り乱すとは、正直予想外でした。なぜあんなに仲が悪いのですか?」

「なんででしょうね。正直わたし自身にも理由は分からないんですよ」


 ただ、なんとなく相性が悪いというか、気が合わないというか。

 聞けば龍神ニライカナイとホウライも仲が悪かったとのことだし、その影響もあるかも知れない。


 クローディアとは巫女になってからの付き合いなので、かれこれ十年以上はこんな関係が続いている。それだけの時間があっても改善しないということは、やはり彼女とは生涯嫌い合うのだろう。


「でもまあ、仲が悪いからといって敵ではないので、そこだけは安心です」


 どうにも納得できていなさそうな翠だが、今の彼女の周りには感情で動く子ばかりだからだろう。

 かつての翠ならまだしも、今の翠はその子たちの影響で、まず自身の感情を優先する傾向にある。それは悪いことではないし、翠の周囲、葵や朱音たちを否定するわけでもないが。


 やはり時には、それを無視しなければならないのが大人というものだ。

 歳を取るって悲しいなぁ、と。一人落ち込む有澄であった。



 ◆



 ノウム連邦の旅館で一泊し、ドラグニアに帰ってきた織。どうやら愛美は昨日、酔って寝る前のことを起きた後も覚えていたようで。

 夕飯前に目を覚ました時は色々と大変だった。


 とはいえ、充実した休日になったと言えるだろう。

 そして今日は、ついに元の世界へ帰る日なのだが……。


「せっかく友達ができたのに、こんなのってないわ……またあたしはひとりぼっちに戻るのね……」


 ドラグニア城の玉座の間にて。王や王太子の前であるにも関わらず、まるで世界の終わりのような表情をした女性が一人。言わずもがな、龍神の娘にしてぼっち系拷問少女、シルヴィア・シュトゥルムである。


「まあまあシルヴィアさん。二度と会えないってわけでもありませんので。こっちの問題が片付いたら、また会いにきますが」

「そうね、せっかく友達になれたのだもの。また会いに来るわよ」

「アカネ……マナミ……!」


 もはや泣きそうな勢いで愛美に抱きつくシルヴィアだが、龍神の娘というくらいなのだし彼女も世界間移動は行えないのだろうか。


「それに、俺たちはお前から力を貰ったからな。こいつを自分だと思って、って言ったのはシルヴィアだろ」

「シキ……!」


 感激して織にも抱き着こうとしたシルヴィアを、愛美が首根っこ押さえて止めていた。愛美的にはさすがに抱きつくのは許せないらしい。


「今度は姉さんたちも、どうにかしてこちらに来れればいいのですが。なかなか難しいでしょうね」

「葵ちゃんたちの異能があれば、なんとかなりそうな気もしますけどね。そこはちょっと考えてみます」


 翠の言葉に前向きな返事をした有澄が、おもむろに杖を振った。

 玉座の間の中心に、孔が開かれる。先の見通せない虚無が広がるそれは、異世界へ繋がる扉だ。


 それを見て、王が別れの言葉を口にする。


「この度はこちらの事情に巻き込んでしまい申し訳なかった。次に来る時は、もう少しゆっくりとこの国を見て行ってくれ。我々はいつでも歓迎する」

「こちらこそ、身に余る歓待をしていただき感謝します」


 愛美が丁寧に腰を下る。普段からは考えられない上品さだ。昨日はどうにかしてこっちの記憶をなくそうと必死だったくせに。


「それじゃあ、帰りましょうか。シルヴィア、ひとりくらいは友達作ってなさいよ」

「シルヴィアさんならできますよ! きっと仲良くしたいと思ってる人はいるはずですが!」

「余計なお世話よ! でもありがとう! あたし、頑張ってみるわ!」


 本当に余計な言葉を残して、愛美と朱音は先に孔の向こうへと消える。


「じゃあな、シルヴィア。お前の力、遠慮なく使わせてもらう」

「ええ。あなたのその輝く心がある限り、輝龍の力はあなたの味方よ、シキ」


 最後に固く握手を交わして、織も孔へと飛び込んだ。

 元の世界に戻れば、待っているのは戦いだけだ。でも今の織には、異世界の友人から譲り受けた輝きがある。

 夜の空も照らすほどに強い輝きが。


 だったらあの悪魔どもにも、灰色の吸血鬼にも、負ける道理はない。

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