第123話

「余計なことはしないでもらえるかな?」


 蒼たちが出て行った学院長室に、老人の声が響く。少し苛立ちが孕んだものを向けられて、桐生凪は不敵に口角をあげていた。


「余計なことねぇ。学院長、俺はどうにかしてあいつらの手助けをしたいだけだ。謎があれば、解明しようとするのが探偵なんでね」

「君の介入は、余計な混乱を招く羽目になりかねないんだよ」

「そういう可能性もあるかもな」


 鋭い視線、敵意にも似たものすら前にして、凪は正面から受け止める。

 橙色に輝く瞳には、あらゆる可能性が映っていた。それが彼の異能、千里眼の力だ。

 あらゆる並行世界を覗くことができる。起こったかもしれないこと、起こるかもしれないこと、その全てが映る。


 その中には当然、凪の介入で余計な混乱が広がる世界だってある。

 しかし、なぜその可能性が生まれるのかを推理し、そうならないよう尽力して、よりよい未来を引き寄せるのが、桐生凪の使命だ。


「君は無理に首を突っ込まないでもいいはずだ。子供はまだ小さいんだろう? だったら家族のところにいてあげるべきだと思うよ」

「その子供のためだよ」


 笑みが優しいものに変わった凪の目は、ここにはいない、まだ二歳になったばかりの我が子へ向けられるもの。

 以前視てしまった、ある未来のために。


「こいつはいわゆる、先行投資ってやつだ。十六年後の織のためのな」



 ◆



 学院長室を出た蒼たち五人は、今後のことを話し合うために互いの自己紹介を道すがら済ませながら、とりあえず教室へと向かった。

 一歩足を踏み入れれば、クラスメイトたちがアリスへ視線を集中させる。異世界からの来訪者。その噂はすでに、校内全体へと回っていた。


「そうじゃなくても、その服装は目立つだろうね。なにかしら他の服を用意してあげたいところだけど」


 蒼の席に他の四人も集まり、それぞれ手近な椅子に座る。

 アリスが今着ているドレスは、かなり目立つ。いくら魔術学院の生徒といえど、集まってるのは現代っ子ばかりだ。オシャレをしてるものはおれど、奇抜な格好をしているやつはいない。アリスのドレスは、この世界だと時代錯誤な感じが否めない。これで街も歩けないだろう。

 唯一アリスと同性であるルークへと視線を向ければ、肩を竦められた。


「ボクの服じゃ、アリスとはサイズが合わないよ。一緒に買いに行くってなら全然アリだけど」

「服もそうだが、住む場所はどうするんだ。まさか学院にずっといさせるわけにもいかないだろう」

「それから、人付き合いも考えさせないとダメだな。基本的に蒼がすっと一緒についてるとは言っても、興味本位で近づいてくるやつは絶対いる」


 なんだかんだで面倒見のいい三人だ。過保護ともいう。

 事実、衣食住のうち二つは目下一番の問題だ。アリスは文字通り、その身ひとつでこの世界にやってきた。服なんかそのドレス一着しかないし、住む場所なんてあるはずもない。食べ物はどうにかなるとしても、その二つは考えておかないと。


 いや、ていうかそれよりも。さらっと龍が変なことを言っていた気がするのだが。


「この人がずっとわたしについてるんですか……」

「同じことを言おうとは思ったけど、なんでそんなに嫌そうなんだ」


 めちゃくちゃ嫌そうな顔をされた。苦虫を噛み潰したような表情のお手本みたいな顔だ。


「拾ったのは蒼だろ。だったらお前が面倒見るべきだ」

「そんな捨て猫みたいな」

「どうせだし、この馬鹿の家に邪魔したらどうだ?」

「お断りします」


 即答である。これにはさすがのアダムも苦笑い。貴重なものを見た。


 しかし残念なことに、住む場所に関しては選択肢が限られているのだ。


「俺の家は魔術師の模範みたいなとこだから、来たら確実に研究対象としか見られないぞ。よくて生きたまま解剖、最悪殺されてどこぞに公開されるかもな」

「ボクの家は人が住めるような場所じゃないね」

「俺はそもそも、住まわせるつもりがない。この中だと、馬鹿のとこが一番安全だ」


 蒼の両親も魔術師であり、学院の卒業生だ。しかし現在は一般社会で普通に働き普通に暮らしている。有事の際以外に魔術を使うこともなく、ごくごく普通の両親だ。

 妙な陰謀に巻き込まれたり、といった心配は皆無と言っていい。


「あの、ルークさんの家は本当にダメなんですか? 人が住めるような場所じゃないって、ルークさんは住んでるんですよね?」

「住んでるというより、そこで寝てるだけ、みたいな?」

「アリス、特に他意があるわけじゃないけど、ルークの家は本当にやめといた方がいいよ」

「そもそもあんなところで寝れるこいつがおかしいだけなんだ」

「俺はあれを家とは認めない」

「酷いなぁみんな。ちょっと周りにゴーストが多いだけで、変なことなんてなにもないのに」

「ゴースト……この世界には幽霊が実在するんですか……」


 美しい顔から血の気が引いていた。どうやらどの世界でも、幽霊とは怖がられる存在らしい。この世界のゴーストはそのようなものではないのだが、説明は後でいいだろう。


「いいんだよ、ボクはどうせ卒業したら、龍のところに転がり込むから。それよりアリス、本当にどうする? 蒼の家は普通に両親とか二歳の妹とかいるから、いろんな意味で安全だと思うけど」

「この人の家か、幽霊か……」


 ぐぬぬ、と悩むアリスだが、幽霊と比べられている蒼としてはどこか腑に落ちないものを感じる。

 ぐぬぬ、と唸りながら考えに考え、やがてアリスが出した結論は。


「……わかりました。本当に嫌で嫌でしょうがないですけど、幽霊よりはマシだと思うことにします」

「転生者は半分幽霊みたいなもんだがな」

「アダム、余計なこと言わなくていいから」


 スッと黙って距離を取られた。どうやら未だ、好感度はマイナスのままらしい。



 ◆



 他の三人はそれぞれ予定があるとかで、蒼とアリスは二人きりになってしまった。

 せっかくなので校舎内を案内しているのだが、アリスは常に一定の距離を開けて歩いている。清々しいまでの嫌われっぷりだ。


「ここが最後だね。学院から斡旋された依頼を貼り出してる掲示板だよ」

「依頼、というのは?」

「魔物討伐だったり、要人護衛だったり、魔術の触媒を収穫したり、まあ色々だよ。ここに貼り出されてるのは生徒用だから、大した難易度でもないけど」


 衣食住のうちの食事がどうにでもなると言ったのは、この依頼による報酬があるからだ。

 生徒用の依頼は高額な報酬が出るわけでもないが、その日だけの食事代くらいならお釣りが出るだろう。


「あなたはどんな依頼に行くんですか?」

「僕が受けるようなのはここに貼ってないよ。日本支部は年中無休人手不足でね。一部の実力ある生徒は、プロと同じものを任せられるんだ」


 蒼の他にも、さっきの三人にあともう一人。全員一年生ではあるが、その五人だけがプロの魔術師と同じ依頼を任される。


「お強いんですね」

「僕よりも、さっきの三人の方が強いよ。純粋な戦闘力ならルークが一番だし、龍は馬鹿みたいに守りが固い。アダムの異能は特殊すぎて手に負えないしね。僕なんか器用貧乏以外に取り柄がない」

「特筆すべき点はなにもない、どこにでもいる平凡な一般人Aだと?」

「些かトゲを感じるけど、間違いじゃない」

「過ぎた謙遜は嫌味にしかなりませんよ」


 こちらを見据える目は、まるで値踏みするようなもの。蒼の持つ魔力に気づいているのだろう。異世界人とは言え、お互いがお互いの魔力をしっかり感じられる。

 隠しきるのとなんて最初から不可能だ。


「あなたは恐らく、他三人の長所を全て集めた万能タイプじゃないですか?」

「根拠がないね」

「器用貧乏、なんて風に自分を卑下する人は、そういうタイプが多いんです」


 アリスの言葉はなにも間違っていないから、蒼も明確な反論を返せない。

 いや、実際はルークの方が純粋な戦闘力では上だし、龍が完全に守りを固めると突き崩す隙なんてなくなるし、アダムなんて規格外が服を着て歩いているようなものだ。

 それらは決して間違えていない。ただ、それ以上のアドバンテージを蒼が持っているだけ。

 わざわざ語って聞かせるつもりもないが。


「この話はここまで。で、どうする? 今日は疲れてるだろうし、明日にでもなにか依頼を受けてみるかい?」

「そうですね……この世界の敵がどれくらいか、見極めておきたいです。どれにするんですか?」

「それも明日決めよう。今決めたやつが明日までに取られたり、なんてこともある」


 掲示板前には、チラホラと人が集まり始めていた。授業がないと分かれば、生徒たちのやることなんて依頼を受けるくらいしかない。

 いくら教師たちが忙しくて授業がなくなったとは言え、依頼の受理はするはずだ。


 やってくる生徒の全員が噂を聞いているのか、アリスの方へと視線をよこしている。着ているドレスとアリスの美貌も一端を担ってるだろう。


 あまり長居する必要もないし、そろそろ移動するかなと考えたところで、クラスメイトの一人を発見した。

 人付き合いは考えろ、と龍は言っていたけど、彼女はアリスを変な目で見ないはずだと思い、目が合った相手に軽く手をあげた。


「やあ久井。依頼を探しにきたのか?」

「おおー、小鳥遊か。それと、そちらが噂の異世界人?」


 魔術学院日本支部の生徒の中で、五人目の規格外。錬金術師、久井聡美。

 ボサボサの髪にダボダボのジャージ。思春期女子のくせに女性としての尊厳をどこかに捨ててきたような見た目の癖して、胸元の主張は激しい同級生。


「アリス・ニライカナイと言います」

「久井聡美。小鳥遊とは同じクラスだよ」

「さっきは教室にいませんでしたよね?」

「ちょっとなー」


 間延びした喋り方からは、覇気ややる気というものが全く感じられない。

 つまり、ちょっと、なんて言っているがただ寝坊しただけである。

 遅刻の常習犯として教師や南雲たちが頭を悩ませているが、こんなのでも世界一の錬金術師だから大人たちも持て余し気味だ。


「それより、また随分な美人さんだなー。小鳥遊的には本命?」

「僕は随分嫌われてしまったみたいだから、その辺はもう少し親睦を深めてから判断するよ」

「ははっ、相変わらずクズいなー」

「怠惰が服着て歩いてるような君に褒められてもね」

「褒めてねーっての」


 互いに笑い合うが、どちらも目が笑っていない。険悪というほどでもないが、久井とは仲良しなんてほどでもないのだ。友達ではなく、ライバルと言った方が正しいか。

 蒼は諸事情により、魔術であれば凡ゆる術を極めておきたい。いや、極めなければならない。他の追随を許さず、頂点に立たなければならない。


 しかし錬金術だけは、どうしてもそれが叶わないのだ。

 久井聡美という稀代の天才がいるから。


「あの、久井さんは」

「聡美でいいぞー。あ、さん付けもなしな。人から敬称で呼ばれるの、嫌いなんだ」

「で、では、聡美はこの人と仲が悪いんですか?」

「いんや、いいライバルとは思ってるぞー」

「こんなのただのじゃれあいさ」


 本当に仲が悪ければ、口喧嘩が実力行使に発展しているし、校舎は倒壊してる。


「そんなことより、アリスはつい数時間前来たばかりなんだろ? だったら今度、あたしと一緒にお出かけしようぜー。友達一号に立候補、ってな」

「ええ、わたしでよければ喜んで」


 どうやら聡美のことは警戒していないらしく、和かな笑顔を見せて二つ返事で頷いらっしゃる。笑った顔はとびきりに可愛いから、できれば自分にも向けて欲しいところだけど。今のところそんな可能性は絶望的だ。


 じゃあなー、と手を振りながら去っていく聡美を見送り、アリスはボソリと呟いた。


「なんだか、不思議な人でしたね」

「怠惰の塊だからね、あれは。ちょっとは女性としての自覚を持って欲しいところだよ」

「そうではなくて。魂の色が、中途半端に混ざり合っているような」


 驚いた。龍の巫女とはそんなことまでわかってしまうのか。


 久井聡美はたしかに、普通とは言えない。彼女の家は代々、先祖の精神性と魂の一部を長子に引き継がせてきた。詳しいことは省くが、錬金術の研究のためだ。それで永劫回帰のウロボロスを擬似的に再現しているらしい。

 アリスが言っているのはそのことだろう。


 となるとまさか。思えば、綺麗な瞳がジッとこちらを見上げてくる。


「不思議で言えば、あなたたちの方が不思議なのですけどね。聡美のように、別の魂が混ざり合って一つになっている人は、わたしの世界でも見たことがあります。でも、あなたやルークさん、龍さんのように、二つ以上の魂を完全に別々として持っているような人は、見たことがありませんから」


 黙っていたわけではないし、いつか話すつもりではあったが。まさか、アリスの方から勝手に気づくなんてのは予想外だ。


 バツの悪そうな顔でため息を吐けば、アリスの表情が僅かに歪む。


「すみません、あまり触れてはいけないところでしたか?」

「いや、そのうちこっちから話すつもりだったから、別にいいよ」


 優しい子だ。蒼の深いところに触れてしまったことに勘付いたのだろう。

 しかし、蒼は自身の境遇、転生者のことを語る上で、あまり多くの言葉を持たない。それでもこんなところで立ち話するような内容でもないから、蒼は転移の魔法陣を構築した。


「立ち話もなんだしね。そろそろ、うちを案内するよ。母さんも君を気にいると思うし、小さい妹もいるから、仲良くしてやってくれ」


 若干無理矢理気味な笑顔を浮かべると、気遣わしげな視線を送られる。

 その優しさが、アリス・ニライカナイの本質なのだろう。ほんの少しでもそれを見せてくれたことを嬉しく思いながら、自宅へ転移した。



 ◆



 小鳥遊家は東京都千代田区某所に位置する三階建ての一軒家だ。父親が某大手企業でエリート社畜をしているから、かなり裕福な暮らしをさせてもらっている。

 そうでなくとも、蒼は学院の依頼で高額な報酬を貰っているのだ。未成年のうちではどうしても持て余してしまうため、いくらか家に入れていたりする。


 そんな小鳥遊家の前に転移してきた二人。三階建ての我が家を前にして、いやそれよりも、東京という街を見て、アリスは一言。


「お、大きい……」


 完全に圧倒されていた。なににって、立ち並ぶビル群に。あと東京タワーとか、そういうのを見て。


「なんでこんなに大きな建物が……」

「街の大きさに反して、人口密度が高いからじゃないかな。出来る限り人がたくさん入るように作ったとか」

「それにしたって、大きすぎる気がします」


 その気持ちがわかってしまうから、蒼も苦笑するだけに留めておいた。

 日本に生まれたのはかなり久しぶりで、前世やその前はどこぞの遠い異国の地だったから、変わり果てたこの国を見て呆然としたものだ。


「車の数も多いですし、電気や水なんかのインフラもちゃんと整備されてるんですね。わたしの世界とは大違いです」

「むしろ車とかインフラとか、ちゃんとあるんだね」

「馬鹿にしてますか?」

「いいや、この世界特有の、異世界に対する固定観念だとでも思ってくれ」


 ゲームなどのファンタジー世界だと、大体が中世ヨーロッパモチーフの世界が多いから、アリスの世界もてっきりその類かと思っていたが。

 そう言えば、人類側は科学技術が発達してる、みたいなことを言っていたっけか。


 ドラゴンと共生とか、国の名前とか、いかにもファンタジーちっくな世界を想像していたけど、思ってるよりもこの世界と似ているのかもしれない。


「さあ、とりあえず家に入ろうか。街の案内は今度してあげるよ」

「お願いします」


 さらっとデートの約束を取り付け、内心ガッツポーズ。向こうはデートだなんて思わないだろうけど。


 アリスを伴い自宅の扉を開け、そのまま一直線にリビングへと入れば、小さな影が突撃してきた。


「にーに!」

「おっと、ただいま栞」


 二歳の妹、栞だ。

 抱き上げて頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めた。浮かべる笑顔は純粋無垢そのもの。小鳥遊家の天使である。

 そしてソファに座って兄妹の微笑ましい光景を眺めている女性は、二人の母親である小鳥遊凛子りんこ


「おかえり、蒼。随分早かったじゃない」

「学院から連絡来てない? 緊急事態で授業は中止になったよ」

「勿論来てるけど、それにしてもよ。あなたが出なくていいの?」

「今のところはね。それよりもっと重要なことがあるからさ」

「その子のことね」


 蒼の背中に隠れるようにして立っていたアリスのことも、凛子は聞いているらしい。なら話が早い。

 一歩横に避け、アリスと凛子が対面する形になる。他人の家というのに慣れていないのか、アリスはどこかソワソワとした様子だ。


「アリス・ニライカナイです。この度はしばらくの間、お世話になります」

「小鳥遊凛子、その二人の母親よ。ここは自分の家だと思って寛いでくれていいから。これからよろしくね」


 にこりと凛子に微笑まれ、アリスは照れ臭そうに笑みを返した。


「それにしても、また随分な美人さんよねぇ。蒼のお嫁さん候補にどう?」

「お断りします」

「あら残念。あんた振られちゃったわよ」


 さっきまではにかんだ笑みだったのに、すぐにニコリと惚れ惚れする笑顔で丁重に断られた。完全に脈なしである。

 ていうか、まだ今日会ったばかりだし。


「まだ時間はあるし、これからゆっくり仲良くなるよ」

「ポジティブなのはいいことだと思いますよ」


 すっごく他人事みたいに言われた。アリスは仲良くなる気がゼロらしい。

 それでも蒼はへこたれない。別に本気でアリスを口説き落としたいわけではないが、今より仲良くなりたいとは思っているのだから。


 その後はアリスの部屋を決め、母親は昼食の準備をするからと二人から離れてしまった。栞も遊び疲れたのか寝てしまい、擬似的に二人きりの状況が。


「ちょっとついてきてくれるか?」


 ソファで横になっている栞を優しい目で見るアリスに声をかければ、途端にその目が怪訝そうなものに変わった。

 どうして僕にだけそんななのかな。


「別に変なとこへは連れてかないよ。話をするのに、ここでってのもなんだろ?」

「……そうですね」


 ちらりともう一度妹を一瞥するアリスは、眠っている妹を気遣ってくれたのだろう。その優しさの十分の一でいいから、こちらに向けてくれないだろうか。


 二人で家の中を移動し、やって来たのは三階のとある一室。扉を開き中へ通すと、息を飲む気配がした。


 四方の壁それぞれが一面ルーン文字で覆われ、床には様々な魔法陣が。そのどれを取っても、この世界で最高峰の魔術式となっている。

 部屋に道具やゴミが散乱していることもなく、魔法陣が描かれた以外は綺麗な部屋だ。本棚には多くの魔導書が所狭しと並べられ、そのうちの幾つかが机の上に置いてあった。


 しかし、アリスが驚いたのは部屋の様子にではない。

 明らかに、広さがおかしい。

 この部屋は三階にある一室だ。なのにリビングよりも大きいなんて、あり得るはずがない。


「空間拡張の魔術だよ。小鳥遊家は代々、時空間魔術を得意としていてね。それで部屋を広げてる」

「そんなことまで出来るのですか……」

「そっちの世界にはないのかい?」

「わたしの世界の魔術、魔導とは、戦争に用いられる兵器です。空間転移ならまだしも、時空間の拡張なんてものは存在しません」


 魔術と科学、そのどちらも発展した世界。より多くの火力や利便性を考慮すれば、魔術の方が戦争に用いられるのは当然か。

 一方で科学技術は、日常生活の発展に極振りされているのだろう。


 やはり、この世界とは根本が違う。

 文化レベルを比べる、なんてのはナンセンスそのものだ。


「とりあえず座りなよ」

「椅子は一つしかありませんけど」

「問題ない」


 適当に術式を発動して、椅子をもうひとつ出現させる。それにも驚いていたようだが、いちいち反応していてはきりがないと諦めたのか、アリスは素直に腰を下ろした。


「僕たち転生者のことについて、話しておくよ」

「転生者?」

「悔やんでも悔やみきれない、何度生き返ってでも必ず果たしたい後悔を持つ者だけがなれる、特別な存在さ」


 イマイチピンと来ていないのか、アリスは可愛らしく小首を傾げている。


「守りたいと願い、守ると誓ったものを守れなかったやつ。なりたい自分が沢山あったのに、結果何者にもなれず鳥籠の中で一生を過ごしたやつ。教え子の苦悩に気づかず、その子が死ぬ様をただ見ていることしかできなかったやつ。そういうやつらの強い想いに応えて、不死鳥との契約が結ばれる」


 右腕に、蒼い炎を灯した。

 もはや単なる力とは言い切れない、蒼自身とも呼ぶべき炎。

 それが転生者の証だ。


「不死鳥ですか」

「そう、不死鳥。と言っても、あれは恐らく本物のフェニックスじゃない。概念的なものだろうね」


 この世界での不死鳥とは、魔物の一種として存在している。おおよそ伝承にある通りの存在だ。死ぬ間際に燃え尽き、生まれ変わる。

 転生者も、それと同じ。


「死んだその時点で、次の生が確約されている。前世の記憶も力も全て引き継いでね。転生を繰り返すたびに強くなるけど、だからって後悔が果されることはない」


 それでも、転生者たちは次を求める。いつかその後悔を果たすために。

 よほどのバカと狂人の集まりだ。不可能なのだと分かっているくせに、決して諦めることはしないのだから。


「あなたも、色んな人生を歩んできたんですか?」

「人だけじゃなかったけどね」


 本棚の方へ手を翳せば、一冊の本がひとりでに飛んでくる。それをアリスに渡してやると、意外そうにというか、若干の驚きでその表紙を眺めていた。


「文字が読める……?」

「位相とやらの影響じゃないかな」


 力をこの世界に適応させるためのフィルター。ならば力の持ち主であるアリス自身も、この世界に適応されているということじゃないだろうか。あくまで憶測だが。


 そもそも、異世界人がこの世界にやって来たなんて話、蒼は聞いたことがない。

 ならばアリスが初の例であり、本来位相は力だけでなく人にも作用するものだった、ということも考えられる。


 閑話休題。


 読んでみて、と一言告げれば、アリスは表紙を開いた。視線は紙の上に注がれていて、かなり集中していることが窺える。

 それだけで、この子は本が好きなのだとわかった。


 蒼が渡した本は、北欧の主神オーディンに関する文献だ。どこぞの魔術師がルーン魔術の研究過程で出した本。ルーン魔術を研究するなら、その始祖であるオーディンは避けて通れない。


 そして誰あろう、小鳥遊蒼がオーディン自身なのだ。


 何度目の転生かなんて覚えていないが、神になったのはあれが初めてだった。調子に乗って割と死にかけたことが何度もあったが、あれも若さゆえの過ちというやつだろう。


 首吊ってグングニル刺したまま九日間は辛かったなぁ、と当時を回想していると、ふとアリスの様子がおかしいことに気づいた。

 視線は本に固定されている。それはいい。読書とはそういうものだ。ページを捲る白い指は緩慢でありつつも、既に二、三ページ読み終えているようだ。


 ただ、あまりにも没入しすぎている。

 本の世界にのめり込んでいる。


「アリス?」

「……」


 声をかけるが、返事はない。その代わりにまた一つページが捲られた。

 まさか、読み終わるまでずっとこのままなのだろうか。


 その後も何度か声をかけたが、やはりアリスの顔が上げられることはなく、声をかけられていることにすら気づいていない様子。

 試しにほっぺたでも突いてやろうかと考えたが、出会って初日の女性にそんなセクハラを働くほど、蒼も腐ってはいない。


 結局二時間掛けてしっかりと文献を読み終えたアリスは、嬉しそうに淡い笑みを浮かべていた。

 蒼が彼女から笑顔を向けられたのはこれが初めてなので、不覚にも見惚れてしまう。


「面白かったです。このオーディンという人、凄い人なのに馬鹿なんですね」

「うん、人じゃなくて神様ね。そっちの世界でいうところの龍神様」


 一緒にすべきではないのだろうけど、まあ似たようなものだろう。アリスの世界に果たして龍神以外の神がいるのかはわからないし。


「それより、意外な一面を見たね」

「なんの話です?」

「それ読み始めて二時間経ったけど、気付いてる?」


 途端、アリスの顔が真っ赤に染まった。手に持つ本で顔を隠し、チラと覗いた目が申し訳なさそうな色をしていた。

 可愛すぎか?


「すみません……読んだことない本を読むといつもこうなんです……」


 悪癖だと自覚があるだけ十分。ちゃんと可愛く謝れるところもポイント高い。


「いいよ、別に。君の真剣な顔を可愛かったし、飽きることもなかったからね」

「……ところで、首を吊って槍を刺しながら九日間過ごした感想はどうでしたか?」


 ほんの少し悪戯気味に言ってやれば、非常に痛いカウンターを食らった。オーディンとして残した記録の中でも、一番調子に乗ったやつだ。

 チクリとした言葉にぐうの音も出ない。


「よく気付いたね……」

「あの話の後にこの本を読まされたんです。気付きますよ」


 なんとか絞り出した声に、アリスは不機嫌そうな音を奏でた。

 せっかく可愛かったのに。いや、不機嫌なのも可愛いから別にいいや。蒼は考えるのをやめた。


「このオーディンが、一番最初のあなた、というわけではないのですよね?」

「うん、違う。最初の僕は、神様なんかじゃなかった。教え子の一人も救えない、馬鹿な先生だったさ」


 思わず自嘲混じりの笑みが漏れてしまい、しまったと後悔する。

 そこに込められた感情を、この美しい少女は読み取ってしまう。結果、気を使わせてしまい、また申し訳なさそうに眉根を寄せていた。


「その話を聞く権利は、まだわたしにはないですよね」

「進んでしたい話でもないけど、聞きたいなら語ってみせるよ?」

「いえ、遠慮しておきます。またいつか、機会があれば」


 どこまでも優しい少女は、そういって微笑を見せた。

 蒼の古傷を抉らないための配慮、あるいは、アリスの方に聞く覚悟がないのか。凄惨なものだと察してしまっているから。


 その優しさが、蒼の胸に温かく広がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る