第70話

 上空から甲高い金属音が、何度も聞こえてくる。

 葵と翠。同じ力を持った者同士がぶつかり、激しい戦いを繰り広げている。友人への心配は尽きないが、今の蓮にその余裕があるわけではない。


 今も目の前では、龍とカゲロウが敵に斬りかかっているのだ。実力不足だとしても、その援護をしなければならない。


「あまり吸血鬼を舐めてもらっては困りますねぇ!」


 左右から襲いかかる異なる剣を、吸血鬼は身を翻して躱す。いくらその身体能力が人間など及ばない域にあると言え、カゲロウだって半分は吸血鬼だ。しかしそれでも、敵を捉えきれない。

 身の丈ほどもある大剣を俊敏に振るうが、掠りすらしない。間断なく龍も攻め込むが、やはりスピードで一手遅れる。緋色の桜と魔力の糸が隙を見て放たれるものの、物量で圧したそれは同じだけの魔力弾に迎撃されてしまった。


 強い。

 碌な魔術も異能も使っていないのに、攻撃が一つも通らない。シンプルに、なんの理屈もなく強いのだ。

 これが吸血鬼。グレイが規格外なだけではない。この種族は、誰も彼もが規格外の強さを有している。


「ちょこまか動きやがって……!」

「数の有利を活かせ! 休む暇を与えるな!」


 前衛の二人は尚も果敢に攻め続けるが、吸血鬼は余裕の表情を崩さない。だが、その余裕にこそ付け入る隙がある。

 ネザーの二人は、カゲロウと葵を最優先の対象としているだろう。そして最も警戒しているのは、転生者である龍だろう。

 龍が奥の手を出さずにいる間は、吸血鬼も余裕を見せているとは言っても警戒は解かないはず。更には緋桜の正確無比な援護射撃もある。


 この場において、糸井蓮という小っぽけな魔術師は、やつの眼中にすら入っていない。


 だからこそ、自分にしか出来ないことがある。自分の力を過信せず、正確に把握しているからこそ。弱い自分でもできることを。


「ん?」


 一瞬。吸血鬼が、なにかに気を取られた。

 その一瞬があれば事足りる。懐まで踏み込んだ龍の斬撃が、吸血鬼の体を横一文字に両断した。

 再生が始まるより前に、カゲロウの翼から放たれた魔力弾と、緋桜の矢が畳み掛ける。

 体を再生しながら防護壁を展開し、それらを防ぎ切った頃には再生も終えている。新しく生えた下半身で地面を踏みしめ、ついに攻勢へと転じた。


「無駄無駄、人間ごときが吸血鬼に勝てるとは思わないことですねぇ!」


 後退する龍とカゲロウを追うようにして、吸血鬼は弾丸のように駆ける。

 それこそが蓮の狙いとも知らず。


 カゲロウの懐まで肉薄した吸血鬼が、腕を振りかぶる。体術もクソもない、ただ腕を振るだけ。しかし吸血鬼のパワーとスピードがあれば、それだけで途轍もない破壊力を生み出す。

 こちらから攻撃しても動きを捉えられなかったのだ。敵の攻撃に反応なんて出来るはずもなく。カゲロウがダメージを覚悟した、その瞬間。


「むっ!」


 吸血鬼の動きが、完全に停止した。


「やらせない……!」

「魔力の糸ですか、小癪ですねぇ!」


 敵の体を縛るのは、数千に届くほどの糸。戦闘の最中、蓮が静かに張り巡らせたものだ。

 攻勢に転じて防御を捨てたなら、少なからず隙は生まれる。例えそれが、コンマ一秒に満たない瞬間だとしても。

 文字通り、針に糸を通すような精密なコントロールとタイミング。


 しかし問題はここからだ。動きを止めたのはいいが、蓮の力ではもって数秒。

 指先から伸びる糸はギチギチと音を立て、今にも千切れてしまいそうだ。全身の魔力を全力で稼働させて、それでも足りない。

 三秒と経たずして、糸は一本一本音を立てて切れていく。全力以上の魔力行使に蓮の体が悲鳴を上げるが、歯を食いしばって耐える。


「ナイスだぜ蓮!」


 叫んだカゲロウが足元に魔法陣を展開させ、大剣から斬撃を飛ばす。彼の異能の込められたそれは、当たれば吸血鬼であろうと容赦なく絶命させるだろう。


 斬撃が吸血鬼に当たる直前。蓮の糸が全て引き千切られたのと同時に。吸血鬼の足元の床が、せり上がった。

 それは壁として機能し、カゲロウの斬撃を難なく受け止める。次いで放たれた緋桜と龍の魔術すら、壁は傷一つつくことなく防いでみせた。

 せっかくのチャンスだったのに、まだ力を隠し持っていた。魔力の反応はなかったから異能か、もしくはこの空間自体にそういう機能があるのか。


 なんにせよ、これでまた振り出しだ。

 いや、それよりなお悪い。今ので蓮は、魔力を殆ど使い切ってしまったから。


「目障りですねぇ……さきにあなたから殺してさしあげましょうか……」


 吸血鬼が忌々しげに呟いた瞬間。

 床が、動いた。

 材質など完全に無視して、波を打つように蠢く。足を取られ、まともに立っていられない。龍とカゲロウは咄嗟に宙に飛んだが、蓮に浮遊魔術は使えない。


「……ッ! 蓮、こっちに来い!」


 叫んだ緋桜が花びらを飛ばし、蓮の体をそこに乗せる。お陰でなんとかなったが、安心してはいられない。

 床が元に戻ったかと思えば、今度はカゲロウと龍の二人との間に、壁が聳え立った。天井まで届くそれは、こちらを完全に分断するためのもの。


 そして蓮と緋桜の前には、深い笑みを浮かべた吸血鬼が。


「あの転生者も、ついでに確保しておきたいですからねぇ。この世界で最も謎の多い異能の正体を、この手で暴く! あぁ、想像しただけで興奮してきますよぉ!!」


 真性のマッドサイエンティストとは、こいつのことを言うのだろう。さすがはネザーの支部をひとつ預かるだけある。

 などと感心している場合ではない。敵は強大。しかし蓮は足手まといにしかならず、殆ど緋桜ひとりに任せてしまうことになる。

 あまりにも歯痒い。己の無力さが恨めしい。弱い自分に怒りすら沸き起こる。


 糸井家の魔術を継ぐと決めた時、なりたいと思う自分がたしかにあったのに。今のままでは、誰も守れやしない。

 大切な女の子ひとりすらも。


「下がってろ、蓮」


 悔しさに歯噛みする蓮の前に、緋桜が立つ。

 緋色の桜を咲かせるその背中は、出会って間もない蓮ですら頼もしく見えてしまう。


「知ってますよぉ、黒霧緋桜。本部からわざわざこの支部に来たと思えば、やはり学院とグルだったのですねぇ」

「なんのことだか。俺は学院から見学に来た生徒たちを守ってるだけ。学院からの正式な申し出を受けて見学させている以上、こいつらを守る義務が俺にはある。なにより、こんな馬鹿な真似をしたら本部のお偉方が黙ってないぞ?」

「そのお偉方からの命令なのですよ。あなた程度の下っ端には、なにも伝えられていないと思いますがねぇ」


 どうやら、この吸血鬼はあまりオツムの出来が良くないらしい。

 わざわざネザー本部の関係をその口に出してくれるとは。あるいは、やつのもつ余裕こその発言なのかもしれないが。


「しかしあなたも馬鹿な男だ。ネザーに所属しておきながら、目の前にあった賢者の石をみすみす逃してしまうとは!」

「なに?」

「復讐に取り憑かれた馬鹿で哀れな魔女は死んだ! 次の宿主はまだほんの子供! 位相と繋がるあの石があれば、我々の研究は更に広がる! プロジェクトカゲロウはその悲願に到達できる!」


 大仰に両手を広げ、殊更に芝居掛かった声の吸血鬼。

 賢者の石は、魔術の最奥とも呼ばれる石だ。そこに異能は関係ないはず。このまま喋らせれば有益な情報を得られるかもしれない。


「カゲロウとシラヌイをあなた達学院から返してもらえば、次は殺人姫と探偵賢者の二人ですねぇ。あの二人を殺して石を奪う! そして我々ネザーは、この世界の真実を──」

「口を慎めよ、吸血鬼」


 だが、緋桜の放った矢がそれを遮った。

 正確に心臓を貫いたが、吸血鬼にそれは通用しない。仮に心臓を貫かれたとて、やつの再生力の前では無意味に等しい。


「お前は今、誰を馬鹿にした? 誰を殺すと言った? 誰の前で、それを口にした?」


 怒りが、魔力を増幅させる。

 大切な友人を侮辱し、後輩を殺すと。この吸血鬼は、そう口にした。あまつさえ、妹すらも奪おうと言うのだ。


 緋色の桜が右手に収束し、刀を形成する。怒りに呼応して輝くそれは、緋桜本来の実力以上の魔力を秘めている。


 そんな男を見て、蓮はゾッとして背筋に嫌な汗が流れた。

 頼もしい男であるのは間違いないけど。彼の怒りに、その矛先を向けられたわけでもないのに、恐怖を覚えている。


「おやおやぁ? 随分とお怒りのようですねぇ!」

「桃の分も、あいつらの未来を見届けると決めた。それを奪おうとするって言うなら、ここでお前を殺す」

「面白いッ! やれるものならやってみるがいいですよぉ!」



 ◆



 地上の異変は、上空で戦っている葵も察知していた。床が変な動き方をしたと思ったら、先程までなかったはずの壁が聳えている。おまけに四人は二人ずつに分断されているのだ。蓮は既に限界のようだし、カゲロウと龍は壁の向こうにいるから様子を伺えない。


 早く決着をつけなければと、気が急いてしまう。結果として動きは精彩を欠いて、葵は苦戦を強いられていた。

 いや、理由はそれだけじゃない。


「くッ……! いい加減教えてよ……! あなたは何者なの⁉︎」

「……」


 先程から何度も繰り返し投げている問いかけ。しかし翠は口を開かず、淡々と得物を振るうのみ。

 戦いだけに集中出来ていないのだ。だから、互角の力を持つはずなのに、終始押されている。

 今回ネザーにやってきた目的は情報収集。プロジェクトカゲロウについて、少しでも知るために。


 学院としての目的以前に、葵は知りたかった。一体この少女が何者なのかを。

 葵とカゲロウと同じ異能を持つ、半吸血鬼の出灰翠。プロジェクトカゲロウの被験者なのか。何故彼女だけネザーにいるのか。翠自身は、ネザーでなにをしたいのか。


 聞きたいことは沢山あるけど、今は戦いに集中しなきゃ。じゃないと負ける。殺されはしないだろうけど、捕まったらどうなるか分かったもんじゃない。


「逆に、問いましょう」


 刀とハルバードが激しくぶつかり合う中。ついに、翠がその口を開く。

 変形させた鎌を横薙ぎに大振りすれば、容易く防がれた後に鋭く尖った灰色の翼が刺突を繰り出してくる。黒い翼で自身の身を覆うようにして防ぎ、距離を取った。

 演算と術式構成を並行して進め、次の攻撃準備に入る。


「あなたは、何者ですか?」

「……え?」


 しかし、そのどちらもを中断せざるを得なかった。翠の問いは、決して無視できるものではなかったから。

 無感情で無機質な、冷たい瞳に射抜かれる。


「言い方を変えましょう。あなたは、何者のつもりですか?」


 動きが、止まった。止めてしまった。

 答えは口から出なくて、思考が固まってしまう。いや、答えは分かりきってるはずだ。何者のつもりだなんて、そんなの、私は私だから。それ以外に答えようがなくて。


 居を突かれた一瞬の隙に、翠の接近を許してしまう。袈裟に振るわれるハルバードに反応できず、葵の身体を容赦なく斬りつけた。


「ぁッ……!」

「答えられないのであれば、あなたは我々ネザーの研究成果、所有物でしかありません」


 追撃の蹴りもまともに受けてしまい、吹き飛ばされて体が壁にめり込む。

 痛みで顔を歪ませる。意識が飛びそうになる。しかし吸血鬼の再生力は傷を直ぐに塞ぎ、ダメージを回復する。刀を強く握りなおして、灰色の少女を睨んだ。


「だったらあなたは? あなたは、自分が何者のつもりでいるの?」

「何者でもありません。わたしは、プロジェクトによって生み出された道具。出灰翠というこの名前も、単なる記号にすぎない」


 翠を中心として、紅蓮の魔力が渦巻く。展開された赤い魔法陣に込められているのは、本来なら人間であれ吸血鬼であれ、使うことなど許されない力。


 直感する。あれは、マズイ。

 この前沖縄で、インドラの一撃を受け止めたのと同じ魔術だ。すぐに雷纒を発動し、術式構成を始める。

 が、遅い。


火天アグニ


 翠の背後に、赤い巨人が出現した。燃え盛る炎の衣を纏った巨人は、この世界に偏在する火の神格。

 天上にあって太陽とされる神の拳が、葵へと襲いかかった。


 インドラの召喚が間に合わず、咄嗟に防壁と翼で身を守る。それら全てを無に帰す破壊力の拳は、華奢な体を打ち捉え、勢いそのままに背後の壁を粉砕した。


 一瞬、全身の骨が粉々に砕かれる。しかし吸血鬼の再生力は葵の身体を容易く元に戻し、意識を失うことすら許さない。

 しかし傷が塞がっただけだ。さっきと違って、ダメージの回復まで見込めない。全身を襲う痛みは消えることなく、立ち上がることとすらできない。


 神氣を帯びた巨人の拳は、まさしくインド神話の火の神と同じ力を持っている。

 火のあらゆる属性の神格であるアグニは、太陽の力すらも内包しているのだ。それを直接ぶつけられた。半分以上は人間である葵ですら、立ち上がれないほどのダメージだ。

 純粋な吸血鬼やカゲロウが受ければ、ひとたまりもないだろう。


「はぁ……はぁ……ッつ、ケホッケホッ……」


 口から血を吐き出し、自分が床に這いつくばっていることに気づいた。

 さっきまでいた場所ではない。翠が壁を砕き、隣接していた別の部屋に出たのだろう。しかし、この建物は地下四階、葵たちがいた場所が最も下の階層だったはず。あの白い空間以外に通じる道はなかったのに。

 隠し部屋、ということか。見られてはいけない研究なんかをしてそうだ。


 いつもより時間が掛かりつつも、異能の演算を終えてダメージを誤魔化す。なんとか力を振り絞って立ち上がり、明かりのついていない暗い部屋を見渡した。

 奥にあるのは、培養器だろうか。それが二つあるが、どちらも割れてしまっている。その少し手前にはモニターがいくつも設置されているが、電源が入っていないから画面は真っ黒。葵がこの部屋に入って来たせいか否か、床には書類が散らばっていた。

 手近にあった一枚を拾うと、見覚えのある単語が目に付いた。


「プロジェクトカゲロウ……まさか、ここが……?」

「ここが、プロジェクトの始まった場所。そしてあなたが、シラヌイが生まれた場所でもあります」


 部屋に入って来た翠は、赤い巨人を消していて。一枚の写真を、葵に向けて投げた。

 地面に落ちた写真を拾う。写っているのはこの部屋だ。二つの培養器。中にはそれぞれ新生児と思わしき子供が、液体に浸かって閉じ込められている。

 培養器の下部には、それぞれの名前が。

 カゲロウと、シラヌイ。

 そして、培養器の前に立つのは、見覚えのある銀髪の女性。


「プロジェクトの試作型であるカゲロウは、異能の出力が安定しなかった。その失敗を踏まえて作り出したシラヌイは、吸血鬼の遺伝子を減らしたにも関わらず、その特性が色濃く出た。そうして次に作られたのが、完成形のわたしです」


 手元の写真から、目を離せない。信じたくないのに、認めたくないのに。葵の目が映す情報には、残酷な現実が映っていて。


「あなたは、黒霧家の人間ではない。葵などという名前も、嘘偽りのもの」

「違うッ!」

「違いませんよ。あなたはシラヌイ。灰色の吸血鬼の遺伝子を組み込まれて生まれた、デザインベビー。ネザーの研究成果、その一つです」

「違う……私は……私は黒霧葵だッ……! シラヌイなんて名前じゃない!」

「なら、先ほどもそう答えれば良かった。自分は人間の黒霧葵だと。答えられなかった時点で、あなたは自分で認めているようなものですよ」

「煩いッ! 私は、あの子達から、託されたから……黒霧葵としての人生を……! だから、私は……!」


 そう、そうだ。消えてしまった二人の妹から、託されたんだ。

 あの子達の未練も後悔も、黒霧葵の人生全てを。

 そして、彼は。蓮は、私を友達だと言ってくれた。シラヌイなんて名前じゃない。黒霧葵は、糸井蓮の友達だと。


 懐から、注射器を取り出す。

 あんな攻撃を受けても壊れないのは、朱音が作ったからか。

 心の中で、一言詫びる。


 ごめん、朱音ちゃん。一つずつって言われてたけど、もう一つ使わせてもらうね。


 針を腕に刺そうとして、しかし。

 その直前に、翠の言葉が届いた。


「気づいていますか? あなたは、自分で自分を定義できていないことに」

「え……?」


 よせばいいのに、その言葉に耳を傾けてしまう。ゆっくりと歩み寄ってくる翠。その無機質な瞳と目が合って、葵の動きは止まってしまう。


「あの子達、というのは、呪いによってかつて存在した人格のことを言っているのでしょう。その二人に依存しなければ、自分が何者かすら定義できない。あなたが黒霧葵である理由を、他人に預けている」


 翠の羽織っているマントの中から、機械の尾が出てきた。瞬く間に葵の身体を縛り上げる。

 力が、抜ける。

 吸血鬼化が解けかけている。持っていた刀と注射器も握っていられず、床に落ちた。


「誰かがいなければ、黒霧葵ではいられない。なら誰もいなければ? あなたの周りの人間を全て取り除き、あなた一人を見た場合。あなたは何者なのですか?」

「わた、し、は……!」


 抜け出そうともがくが、力は抜けていくばかりだ。キツく身体を締め付けられ、骨がミシミシと悲鳴を上げている。


「認めなさい。黒霧葵などという人間は存在しない。あなたはプロジェクトカゲロウによって生み出された、シラヌイであると」


 破壊された壁の外。緋桜や蓮たちがまだ戦っているその空間の宙に、葵の身体は晒される。もしも今この尾から解放されれば、ろくに魔力も練れず演算すら出来ない葵では、地上まで真っ逆さま。命はないだろう。


 恐怖心に支配される。死が、すぐそこまで迫っている。

 ただ、それでも。最後に一言だけ、目の前の少女に言ってやりたかった。


「私は、絶対に認めない……!」

「そうですか、残念です」


 翠の異能が発動される。その情報を最後に視界に映して、葵の意識は暗転した。



 ◆



「ただの人間の分際で、私と張り合うとは!中々やりますねぇ!」


 緋色の刀が振るわれ、地面からせり上がった壁にぶつかる。その壁から鋭い鏃が突き出るが、緋桜は身体を霧に変えることで回避した。

 黒霧家の人間が、霧の魔術師と呼ばれる所以の魔術だ。


 吸血鬼の背後に現れた緋桜が、その首目掛けて刀を振るう。しかしやはり壁に阻まれ、今度こそその体に鏃が突き刺さった。

 かに思われた。


 緋桜の体が桜の花びらとなって散っていく。

 分身だ。その更に離れたところで、本体は力一杯弓を引き絞っていた。


「緋桜一閃」


 短く紡がれる詠唱。

 射られた矢の速度は音を超え、壁を容易く突き破り、吸血鬼の体を貫く。

 だが、それもすぐに再生されてしまう。吸血鬼の不死性の前には、どれだけ攻撃を繰り出そうと無意味なのだ。


「なにをしようが無駄なのですよぉ。それに、あちらもそろそろ終わったようですしねぇ?」

「なに?」


 吸血鬼の視線が、壁に空いた穴へと向けられる。そこは先程、葵と翠の戦闘によって破壊された場所だ。二人はそこに入ったまま、戻ってきていない。


 だが釣られてそこを見てみれば、翠の機械の尾に縛られた葵の姿が。


「葵!」


 吸血鬼と緋桜の戦闘を見ていることしかできなかった蓮が叫ぶものの、反応がない。気を失っている。まさか、あそこから落とすつもりか。


「どうやら、我々の勝利のようですねぇ! 今頃その壁の向こうでは、カゲロウとあの転生者も、こちらの手に落ちていることでしょう! さあ翠、シラヌイをこちらに!」


 葵の身体を捕らえたまま、翠は吸血鬼の隣へと転移してくる。そして吸血鬼へとその身柄を手渡そうとして。


 大きな爆発音が、響き渡った。


 そちらに気を取られる四人。

 その隙に、翠の背後へと迫る影が。白く輝く三対の翼を靡かせたカゲロウが、同じ色の大剣を翠の尾に向けて思いっきり振り下ろしていた。


「そいつは返してもらうぞ!」

「……ッ!」


 咄嗟のことで反応できず、大剣が直撃した尾は粉々に砕け散る。

 葵の身体を確保したカゲロウ。

 そしてあろうことか、そのまま蓮の方に投げ飛ばした。


「蓮!」

「ちょ、おい! 投げるなよ!」


 なんとか魔力の糸をクッションがわりにして受け止め、庇うように腕の中に抱く。

 華奢な体からは温もりが感じられて、葵がちゃんと生きていることを蓮に感じさせた。

 心底から安堵していれば、爆発音のした方向、派手に砕け散った壁の向こうから、眩い輝きが。


「おやおやぁ? これはまた、随分と計算外ですねぇ」

「あまり、転生者を舐めるなよ」


 現れたのは、光り輝く剣を手に持つ剣崎龍。

 壁の向こうにはいくつもの機械が横たわって壊されている。恐らく、あの機械に襲われていたのだろうけど。全滅させたから、こちらに来た、というわけか。


 そして、まだ終わらない。状況は更に好転する。

 片耳に手を当てた翠が、うわ言のようになにか呟いた。


「……命令を受諾。これより、本部へ帰還します」

「はい? 翠、それはどういうことですか? この私を、お前を育ててやった私を見捨てると?」

「ネザー本部の命令は、最優先事項となります」


 そう言い残し、最後に葵の方をチラと見遣って、出灰翠はどこかへ姿を消した。

 どういうことか理解の追いつかない蓮だったが、吸血鬼を鼻で笑った緋桜が説明してくれる。


「どうやら、本部に見捨てられたらしい。関西支部の例をみれば、こうなるのは明らかだったとは思うがな」

「くッ……こうなれば、手段は選んでいられませんねぇ……ここにいる学院の関係者全員、この場で始末してくれましょう! さあ見ていなさい! 貴様らの学友が、教え子が! 蹂躙される様を!」


 宙空に映し出されるのは、四つの巨大なホロスクリーン。それぞれがこの人工島の景色を映し出し、そのうちの一つは地下四階、蓮や葵のクラスメイト達がいる場所だ。しかしその光景は、異様の一言に尽きた。

 ところどころに映っているネザーの研究員。その全員が、体の一部を金属に変えられている。意識があるようには見えない。いや、それどころか命すら。

 それでいて学院の生徒はどこにも見当たらない。


「な、なんですか、これは……」


 さしもの吸血鬼も、その光景に愕然としている。人体を金属へと変えるなんて、そんなことが魔術で可能なのか? いや、仮に異能だとしても、そんな真似ができるのか?


 右端のスクリーン。地下四階を映し出しているそこに、ひとりの女性が。

 最低限しか手入れされていない髪は、戦闘の余波で更に乱れ、相変わらずやる気のなさそう顔をしているのは、久井聡美。

 どこかでサボっているはずの、もうひとりの引率だ。


『お、これ映ってるのか? おーいアーサー、探しモノは見つかったかー? こっちはひとまず、生徒全員学院に帰しといたぞー。あたしも先に帰るから、後は頼んだー』


 バキッ、という音を最後に、映像は途切れた。スクリーンに映し出されている光景は、どうやら全て聡美ひとりの仕業らしい。

 日本一の錬金術師とは聞いていたが、あんな恐ろしい真似をしてしまうとは。


 輝く剣を構えた龍が、一歩前に出る。


「チェックメイトだな、吸血鬼」

「ふ、ふふふ、はははははははは!!! なにを言っているのです? 私は吸血鬼! 貴様ら人間如き、本来なら私ひとりでも十分なのですよぉ!」

「ソウルチェンジ・アーサー」


 それはただの剣にあらず。

 正き心を持つものだけが振るえる、邪悪を選定し、討ち滅ぼす聖剣。


 そして、持ち主の強き心を光の魔力として放出させる、湖の妖精が作りし剣だ。


「これで終わりだ」


 光の奔流が、吸血鬼の体を呑み込んだ。



 ◆



 結局、引き出せた情報は少なかった。

 カゲロウと葵は、プロジェクトによって生み出されたデザインベビー。それは出灰翠も同じであり、彼女はネザー本部の意向に従っている。

 つまりこのプロジェクトは、異能研究機関ネザーの全て、本部までも関わっているということだ。


 ネザー全体が学院の敵である。その認識でいいだろう。この支部は本部から見切りをつけられたようだから、表で正面から文句を吹っかけたとしても、知らぬ存ぜぬで通されそうだが。


「どうだ、蓮。葵は起きそうか?」

「いえ……」


 葵が眼を覚ますまでしばらく待ってみようという事で、一同はまだネザーに留まっていた。場所はさすがに移って、蓮と緋桜、気を失った葵は医務室にいる。

 葵をベッドに寝かせ、蓮がそれを看ていたのだ。緋桜は先程まで、この日本支部に他のデータや情報が残っていないかを調べていた。

 今は龍とカゲロウが、引き続き捜索してくれているだろう。


「……すいません、緋桜さん。俺、全然力になれなくて」

「謝る必要はないぞ。お前はよくやってくれた。吸血鬼を相手に一歩も引かなかったどころか、ちゃんと足止めまでしてくれたしな」

「それでも……」


 それでも、力が足りなかった。

 もしも緋桜ほどの魔力があれば。蓮の魔術なら、あの吸血鬼の動きをもっと制限できたはず。そうすれば、龍やカゲロウと分断されることもなく、葵の手助けに向かわせることが出来たはず。


 そしたら、葵はこんな目に遭わず、今も笑顔で隣に立ってくれていたはずなのに。


「必要以上に自分を責めるな。俺にだって責任はある」

「でも、俺は、葵の友達なのに……また、守れなかった……」


 弱い自分が許せない。大切な女の子ひとり守れないという事実に、怒りが沸き起こる。

 いつもいつも守られてばかりで。ちっとも助けてやることはできなくて。


「俺、魔術師になるって決めた時、ひとつだけ目標があったんです」

「目標?」

「はい。他のやつらみたいに、神秘の探求とかはどうでもよかった。ただ、いつか大切な人を守れるヒーローみたいになりたいって」


 幼い頃に抱いた、子供の夢。

 それを、蓮は今も大切に持っていた。

 普通なら夢物語で終わるはずのそんな夢を、叶えられるだけの力が、魔術にはある。


 いつか大切な人が出来た時に、その人を守れるために強くなりたい。


 そう願ってこの道に進み、学院に入学して。

 けれど、あの子も葵も、誰も守れなくて。


「俺は、もっと強くなりたい……!」


 ヒーローだなんて、そんな大それたことはもう言わないから。

 ただ、守りたいと思った人を、守れるだけの強さを。


「お前と似たようなやつを、ひとり知ってる。家族を守りたくて、正しいと思ったことを成して、その為に強くあろうと背伸びしたバカなやつを。そいつのバカなところはな、いつの間にか手段と目的が逆になってたんだ」


 正しさのために強くなりたかったのに、強さのために正しいことを成していた。

 守りたいと思ったものを見失いかけて、そうしたらいずれは自分すらも分からなくなる。


 そんなやつを知っていると、緋桜は懐かしむように語る。


「焦るなよ、蓮。余裕を持て。視野を広げろ。お前には仲間がいて、時間だってまだまだあるんだ。気をつけないと、そのバカと同じ目に遭っちまうぞ」

「……肝に命じておきます」


 強さだけを純粋に求めるのは、楽なことなんだろう。

 けれど、蓮が目指すべきはそんなものじゃない。大切な人を守るためにこそ、力を求めるのだ。


 そこを履き違えるな。間違えるな。

 じゃないと、なにも守れないまま死んでいく。それだけは御免だ。


 そんな想いが伝わったわけでもないのだろうけど。目の前のベッドに横たわる葵の口から、うめき声のようなものが漏れた。


「葵?」


 ゆっくりと開かれる瞼。その奥の瞳と目が合う、その瞬間。

 直感で、理解した。

 いつもの葵ではない、と。


「糸井くん……?」


 でも、知っている。

 この瞳を。この声を、呼ばれ方を。

 まさかと思って尋ねる言葉は、自分の口から出たくせに、本当に信じられないもので。


「黒霧、なのか……?」


 消えたはずの少女が、そこにいた。

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