第29話

 禁術を盗まれた。

 この事実は魔術の歴史を見ても、稀に見る大事件である。

 そもそも、禁術を盗もうなんて輩は中々に存在しない。一歩間違えれば、術者の側が魔術に食い破られ、最悪死に至るからだ。

 盗みを企てた裏の魔術師が一切いないわけではないが、その全てがそもそも禁術の元へと辿り着けなかった。そして、その程度の実力しかないのであれば、例え使用したとしても術に食い破られ死ぬのがオチだ。


「ですから、今回は相手が悪かったのでしょう。我が安倍家の精鋭のみならず、かの名高い殺人姫と霧の魔術師がいてこの惨状。私自身も、怪盗に不覚を取られる形となってしまいました」


 屋敷の客間では、晴奈が織、愛美、晴樹の三人に対して慰めの言葉を吐いていた。

 因みに、愛美は奪われた制服の代わりに安倍家から着物を借りている。

 物の見事にしてやられた織たちだったが、悪いのは安倍家、そしてそれを率いる自分であると。晴奈はそう言っているのだ。


「学院には既に連絡してありますが、あなた方に処罰が降ることはないでしょう」

「……でも、俺たちのせいで盗まれたのは事実です。あのEMPの存在は、ジュナス自身の口から聞いていたのに」

「私も完全にしてやられました……私がジュナスと入れ替わっていなかったら、多分盗まれなかったと思います」


 愛美とジュナスが入れ替わったのは、織たちと納屋の前に向かう前だったらしい。少しお手洗いに行ったその時を狙われたのだとか。

 人間というのは、常に神経を張り巡らせることなんて出来ない。必ずどこかで気を緩める瞬間が来る。

 一人しかいないトイレの中なんて、それこそお誂え向きだ。


 織、愛美、晴奈の三人それぞれが己の失態を自覚し、沈痛な雰囲気になる中。前線に出ていなかった晴樹が、ハッと口の端を歪めた。


「揃いも揃って陰気な顔しとんちゃうぞ。盗まれたもんは盗まれたでしゃーないやろ。問題は禁術のことだけちゃう。未だに目ェ覚まさへん黒霧はどないすんねん」


 そう、問題は禁術だけではない。EMPにより上空から落下してきた碧は愛美が受け止めたが、その時から気を失ってしまっていて、未だに目を覚ましていないのだ。今は別室で寝かせている。

 EMPによる弊害、というわけではないだろう。実際、織も愛美も、既に魔力は正常に動かせる。安倍家の魔術師にも、晴奈にも見てもらったが、魔術的におかしな症状は見られないのだ。


 だが、あの戦闘中におかしな点は、いくつか見受けられた。


「最後のあれ、本当に碧だったのか?」

「……多分、そうだったと思うわ。口調や顔つきからしか判断出来ないけど、碧に近かった。でもあの子、変なこと言ってたわよね」

「あの子たちが創り上げた、だけの魔術、か……」


 それはまるで、他人事のような口ぶりで。

 自分のことをわざわざ、黒霧葵とフルネームで呼ぶことに、さしたる違和感は覚えない。葵と碧、二人で黒霧葵だ。それを自称したところで、なんらおかしなことはないのだが。


 あの子たち、という言葉がどうにも気にかかる。それは一体、誰のことを指しているのだろうか。


 なんにせよ、今気を失っているのが、彼女の二重人格の秘密に関わることは、明らかだろう。緋桜の名前が出た途端にあれだ。あの男は、なにか真相をしっているかもしれない。直接聞ければ一番なのだが、残念なことにそれも叶わない。


「桐原はなんか知らんのか? こん中で黒霧と一番付き合い長いんお前やろ」

「あの子の二重人格は魔術が絡んでる。つまり、人為的なものってくらいしか知らないわ。それは誰でも知ってることでしょ」

「まあ、そうだな。知ってるというか、見てたら分かる」


 通常の乖離性同一性障害だと、もう一つの人格と会話するなんて芸当は不可能だ。それが出来てしまっているという時点で、彼女の二重人格は世間一般のものとは乖離している。

 つまり、魔術か異能が絡むことになる。


 織でも分かることだ。それは晴樹を始めとした、他の学院生も理解しているだろう。


「あークソッ、考えることが多過ぎるんだよな、最近は」

「こればかりは仕方ないでしょ。今回は、分かったこともあるんだから。それで良しとは、出来ないけど、前向きに考えなさい」


 吸血鬼グレイには協力者がいた。当初睨んでいた南雲ではなく、怪盗アルカディアと黒霧緋桜。アルカディアの二人組がここの禁術を盗んだのも、緋桜がネザーにいたのも、グレイが関わっているのだろう。


 吸血鬼が人間を味方にするとは驚きだが、サーニャの例もある。それに、ルミは協力関係と言っていたから、もしかしたら純粋な仲間や味方、というわけではないのかもしれない。


 頭を悩ませる織と愛美だったが、パンパンと晴奈が手を叩き、この場を取りまとめた。


「本日はこの辺りにしましょうか。部屋をお貸ししますから、お二人はお休みになられてください」

「おかん、俺はどないする?」

「後処理を手伝ってくれるかしら? 先の戦闘で使い物にならなくなった結界を張り替えてちょうだい」

「了解。んなそういうことやから、俺は行くけどお前らはゆっくりしとれ。この時間からやったら……明日の昼くらいに帰ったらええやろ」


 安倍親子からの申し出をありがたく受け取り、晴樹と晴奈は部屋を出ていった。しばらくすると安倍家のお手伝いさんがやってきて、二人を部屋に案内してくれたのだが。


「なんで一部屋だけなんだ……」

「晴樹様からのご指示なのですが……」

「あの野郎……」


 ニヤリと笑っている友人の顔が思い浮かんで、無性に苛立つ織だった。



 ◆



 風呂にも入らせてもらい、軽食も出してもらって、朱音に明日の昼くらいに帰ると連絡を入れた二人は、部屋でゆっくり寛いでいた。何故か布団が一組だけしか敷かれていなかったが、それも恐らくバカな友人の仕業だろう。


 時刻は深夜三時。今から寝ようにも目が冴えてしまっている。つい二時間ほど前まで、脳も身体もフル回転で動かしていたのだ。疲れているのはたしかなのだが、どうにも眠気はやってこない。


 しかし愛美と二人きりということで気が緩んでいるのか、織の口からは盛大なため息が漏れていた。


「仕事、初めて失敗したな」

「そうね。反省点だらけよ」

「あいつら、普通に強かったし」


 怪盗アルカディア。

 その片割れであるルミ・アルカディアは言わずもがな、彼女がマスターと呼ぶジュナス・アルカディアも、十分に強かった。

 いや、強いというよりも、純粋に魔術師としての腕が立つのだ。先の戦闘で見た魔法陣や術式、魔術の精度は美しいの一言に限る。こと戦闘に関して言うと、織が戦ってギリギリ勝てるかどうか、程度の実力。愛美の足元にも及ばないだろう。


 だが、これまでに踏んできた場数と、そこで培われた経験を実戦でしっかり活かしている。ジュナスと戦闘になってすぐ、数で有利な織たちの最も効率的な戦略は、包囲殲滅だった。だがジュナスは、まず初めに敵の数を減らすことでそれを回避した。

 あの拡散する魔力弾。あれさえなければ、安倍家の魔術師と織たちでゴリ押せただろう。


 なにより厄介だったのは、あのEMP。先に自分からその存在を示唆させておいて、しかし一発目にはそれを使わず。戦闘で有耶無耶になってから使用。もしかしたらあちらにもなにかしらの制約があったのかもしれないが、実際に織たちはあのEMPにしてやられた。


「あのEMP、俺の魔導収束なら多分対応出来たんだよな」

「そうなの?」

「おう。あれってようは、付近に魔力を阻害する魔力をばら撒いてるっぽいんだよ」

「魔障ってやつね」


 正式な名前があったのか。まだまだ勉強不足を感じながらも、織は説明を続ける。


「でも、それが魔力である以上、魔導収束で吸収できないわけがない。自分の魔力は一切使わず、その場に漂ってる魔力を使うだけで俺は魔力を使わない。術式を構成するだけ」

「ならなんでさっきはそうしなかったのよ」

「人間、焦るとお終いってことだな……」


 遠い目をして言う織だが、この結論に至ったのはつい先程だ。

 仮に魔障EMPと名付けるが、あれを使われた時は既に別の魔導収束の術式を構成していた。魔障EMPを使われた途端に、その術式が瓦解したのだ。おまけに愛美の概念強化も解け、碧が空から落ちてくる始末。困惑と焦りだけが募って、冷静な判断などできなかった。


「つか、愛美は今まであれを食らったことないのか? あいつらとは何回か戦ってるんだろ?」

「まともに食らったのは今日が初めてよ。いつも先生か緋桜が一緒にいたから、大体が発動される前に潰してたの。そもそもそれ自体忘れてたし」


 つまり、愛美にとっても魔障EMPは未知の領域だったわけだ。ああして発動されるのが初めてと言うことは、その存在を知っていても対処出来なくて当然か。

 だからと言って忘れてたのはどうかと思うが。


 次に戦うことがあれば、もう同じ手は食わない。ジュナスに関しては対策を立てられる。問題はルミの方だが、彼女も愛美が相手に専念できていれば、異能を発動する隙も与えられないだろう。今日見た限りだと、発動から光化まではタイムラグがある。体が発光して、それから光化。一度発動してしまえば手がつけられないし、戦闘になる前から発動されていればどうしようもないが、今日のようなパターンならどうにか対処可能だ。


「てか、俺たちで対処できるのに、先生か緋桜さんがいたら余裕じゃないのか?」

「まあ、実際余裕だったわね。あの二人がいた時は、今日よりももっと盗むことに集中してたわ。戦闘は二の次みたいな感じ」

「で、盗るもん盗ったらさっさととんずらってわけか」

「バカね、盗らせるわけないでしょ。あの二人が。特に先生がいる時なんか、あの人が出てきた時点ですぐ逃げてたわよ」

「それもそうか……」


 緋桜については詳しく知らない織だが、蒼はあんなのでも人類最強だ。敵うわけがないと最初から諦めているのだろう。


 元は海外が主な活動場所らしい、怪盗アルカディアの二人。かなり有名らしいから、あちらでは盗みの成功率も高いのだろうが、日本ではそうも行かないというわけか。

 まあ、今日は上手く出し抜かれて、しっかり盗まれてしまったわけだが。


「それよりあなた、よくジュナスの変装が分かったわね」

「あー、あれな」


 ジュナス・アルカディアの変装は完璧、ではなかった。たしかに姿形は魔術で完全に愛美へと変化していたが、言動が明らかにおかしかったのだ。


 フラッシュバンのダメージ回復に異能を使った碧に対しては、礼の言葉もなく異能を解けと一言だけ。あの場で呼び止めた織に対しても、本物の愛美なら織に耳を傾けていたはずだ。

 たしかに愛美は口が悪いが、決して仲間を蔑ろにするわけではない。


 そしてなにより。ジュナスが変装していた愛美は、織の名前を一度も呼ばなかった。


「なんで分かったの?」

「なんとなく、だな。今なら色々と理由は思いつくけど、あの時はなんとなく違和感があったってだけだよ」


 ジュナスの唯一の懸念は、碧の異能だっただろう。だが、彼女の異能による副産物、情報の可視化は、人間の五感に頼るもの。ならば当然死角も生まれる。

 特にあの時は、織が未来視を事前に使っていたおかげで、碧も異能を温存していたのだ。変装したルミがやって来るまで、異能はオフにしていた。

 その後もフラッシュバンによるダメージの回復で、碧はしばらく異能が使えなくなった。異能を解けと言ったのも、その辺りが理由だろう。

 おまけに愛美という身内に変装していたから、意識の死角も突いていた。碧対策はバッチリだったわけだ。


 だからまさか、織の直感一つに見破られるとは、二人も思うまい。


「ふーん」

「なんだよ」

「別に?」


 顔を綻ばせ、意味ありげな視線を向けてくる愛美。言葉以上にその表情が、彼女の感情を伝えてくる。

 悪い気はしないが、そんな笑顔でずっと見つめられていれば居心地が悪くなって、織はついそっぽを向いてしまった。

 そして口をついて出るのは、ほんのちょっとだけ素直な言葉。


「そもそも、俺が愛美のこと分からないわけないだろ。毎日同じ家で暮らしてる、家族なんだし」


 言いながら、自分の頬が熱を持つのを自覚する。なんだって、こんな小っ恥ずかしいことを口にしてるのか。

 いや、それでもこれが、織の本心だ。

 家族だから、というよりは、好きだから。そう言いたいところではあるけれど、それを言えたら苦労はしていない。


 だから、その代わりのように。別の言葉を紡いでいく。


「お前が優しいことも、俺や碧たちを大切に思ってることも、ちゃんと知ってるからな」


 いっそ無邪気なまでの優しさと信頼を、織たちに向けてくれている。それはこうして過ごす中で、痛いほどに伝わってくる。

 織だけではなく、葵と碧も、桃や朱音も分かっているだろう。


 チラと視線だけを愛美に戻せば。そこに笑顔はもうなく。でもなぜか、白い頬は真っ赤に染まっていて。

 予想外の反応に、思わずギョッとしてしまった。


「愛美……?」

「え? あ、あれ? なにこれ、なんか顔熱い……待って、ちょっと待って……」


 両手で顔を覆うが、それでその色が収まるはずもなく。

 あわあわと焦っているあたり、本人にもなぜ赤面してしまっているのかは分からないのだろう。でも、織の発言によるものだと言うことだけは、ハッキリしていて。


 それが分かってしまうから、織も釣られて顔を赤くしてしまい、なにも言えなくなる。

 二人きりの部屋で、互いにそっぽを向いてしまう。会話が途切れてから、どれくらい沈黙が続いただろうか。


 しおらしく俯いてしまった愛美が身じろぎする音と、自分の心臓が喧しく鳴り響く音しか聞こえないその空間の中。

 最初に口を開いたのは、顔の色もだいぶ収まってきた愛美だった。


「寝ましょう。ええ、そうしましょう。きっとあれよ、疲れてるのよ。もしくは魔障のせいよ」

「いや、魔障の影響はもうないってさっき言ってただろ」

「うるさい。織うるさい。いいからさっさと寝るわよ」


 と、言われても。


「布団、ひとつしか敷いてないぞ」


 ぼふん。そんな擬音が聞こえてきそうな程に、愛美の顔がまた真っ赤に染まる。

 さすがの愛美も、ひとつの布団に二人で、と言うのは羞恥心が勝るのだろう。そう解釈するには、あまりにも反応が大きすぎる気がするが。


 織だって戸惑っている。布団云々もそうだが、それよりもこんな愛美は初めてなのだ。いつも余裕綽々で織を揶揄っていた愛美が、急にこんなしおらしい、乙女のような反応をしだしたのだから。

 可愛らしくて大変結構だとも思うが、やはり戸惑いの方が勝る。


 やはり、屋敷の人に頼んでもうひとつ布団を持ってきてもらうか。うん、それがいい。そうしよう。じゃないと死ぬ。


 立ち上がろうと腰を上げかけたところで、服の袖に僅かな重みを感じた。中途半端な体勢で見やれば、愛美がちょこんと織の服の袖を摘んでいて。

 真っ赤な顔を明後日の方に向けたまま、ぽしょりと一言。


「別に、一緒に寝ればいいじゃない……」


 え、待ってなに言ってんのこの子。


「そもそも、いつもだって三人で二つの布団使ってるんだから、あまり変わらないわ。布団の数が一つ減って朱音がいないだけよ」

「いやいやいやいや、お前、自分がなに言ってるかちゃんと理解してるか?」

「してるに決まってるでしょ。いいから、ほら」


 袖を摘んだ手に力を込め、織はそのまま布団へと引っ張られる。振りほどこうにも、愛美の力が強すぎて無理だ。なんでそんなに頑ななんだ。


 そのまま布団の上に倒され、その隣で愛美が横になる。互いの間に開いた距離は、わずか数センチ。朱音が寝るときに抱きついてくるのとは、またわけが違う。

 未来から来た娘ではなく、同い年の、好きな女の子。

 意味がわからないくらい心臓が煩く脈打つ。愛美が掛け布団を二人の胸元まで被せれば、更に密着したように錯覚した。


 ここまで来てしまえば、観念するしかない。

 いや、違う。抜け出す隙は十分にあった。布団の上に倒された時でも、最初に袖を摘まれた時でも良かった。なのにそうしなかったと言うことは、そもそも織自身にその意志がないということで。


 でもやっぱり色々耐えられないので、せめてもの抵抗として、寝返りを打って愛美に背を向けた。


「……なんでそっち向くのよ」

「恥ずかしいからに決まってんだろ」


 とてもじゃないが、今は愛美の顔を見れない。彼女がどんな表情をしているのか、気にならないと言えば嘘になるが。

 例えどんな表情を浮かべていたとしても、どうにかなってしまいそうだから。


「ねえ、織」


 ソッと背中に手を添えられ、優しい声で呼びかけられる。聞き慣れた声のはずなのに、どうしてだろう。

 そこにいつもは感じられない、色気のようなものが見え隠れしていて。


「織さん愛美さん! 怪盗は⁉︎ 禁術はどうなったんですか⁉︎」


 バン! と勢いよく開かれる襖。驚き咄嗟に織を蹴り飛ばした愛美と、布団の外で死んでいる織。

 そんな様子を見た闖入者、目を覚ました黒霧葵は、一言。


「もしかして、お取り込み中でした……?」



 ◆



 葵の乱入のお陰で変な雰囲気は完全に霧散し、おまけに結局、愛美は葵と同じ部屋で寝ることになった。


「愛美さん、苦しいでしゅ……離して……」

「ダーメ。今日の葵は私の抱き枕なんだから」

「むにゅ……」


 屋敷の人にもう一つ布団を頼もうかと思ったが、安倍家の人たちは未だに慌ただしく動き回っていて、どうにもそんなことを頼める雰囲気ではなかった。

 とりあえず移動しながら軽く経緯を話し、もっと詳しいことは明日という事にしてもう休むことにしたのだが。


 愛美は葵とひとつの布団に潜り込み、小さな後輩を抱き枕にしている。


「それにしても。葵、本当になにも覚えてないの?」

「はい。お兄ちゃんのことを聞いたとこまでは覚えてるんですけど……碧もなにも覚えてないって……」


 抵抗することを諦め、愛美にギュッと抱かれたままの葵は、申し訳なさそうに眉尻を下げている。


 無事に目を覚ました葵だったが、彼女の記憶は途中から消えていた。

 アルカディアの二人から兄の話を聞こうとしたところまでは覚えているが、そこから先は全く記憶がないというのだ。

 それは碧も同じ。二人は記憶を共有してるはずで、あの時表に出てきていたのは碧だと思っていたのだけど。どうやら、碧にも記憶がないらしい。


「あなた、雷纏も使ってたわよ」

「……まだ上手く使えないはずなんですけどね」


 あの時葵が使った魔術。あれはたしかに、あの時の碧と思われる誰かが言っていたように、彼女たちだけの魔術だ。


 魔力の放出が苦手な葵は、桃と愛美から助言を貰い、元素魔術を身に纏う術を考えた。

 だが、ただの強化や、武器に纏わせるならいざ知らず、本来なら外に放出するべき魔術をその全身に纏うなんて、前人未到の領域だ。

 強化魔術のエキスパートである愛美も、魔女である桃ですら成し得ない。

 当然葵も、未だ完全に習得しているとは言えず。武器と片腕に纏うのが精一杯。全身に纏うなんて、夢のまた夢だと思っていたのに。


「ま、逆に考えれば、葵はちゃんとあの魔術を使えるようになるってことでしょ。前向きに考えなさい」

「はい、そうですね」


 ポンポン、と優しく頭を撫でてやれば、葵はふにゃりと頬を緩ませた。可愛い。お持ち帰りしたい。ていうか妹に欲しい。

 だが残念なことに、うちの娘は碧に苦手意識を持っているみたいだ。未来でなにをされたのか、碧に小一時間ほど問い詰めたい気分である。まあ、今の碧を問い詰めても無意味だが。


「ところで愛美さん」

「なに?」


 腕の中で上目遣いに見上げてくる葵。改まった口調だが、さてどうしたのか。なんでも言ってみなさいお姉ちゃんが聞いてあげるから、と内心姉ヅラしている愛美だが。


「ようやく、織さんが好きだって、自覚持ちました?」


 その言葉に、体を硬直させた。

 笑顔のまま固まってしまった愛美を、葵の双眸がジッと見つめる。どうやら、言い逃れさせてはくれないようだ。

 ため息を一つ吐いた後、負け惜しみのような一言を。


「視たわね……」

「えへへ、気になっちゃいまして」


 さっき、織と愛美が部屋でなにをしていたのかも。愛美が織に向けている感情も。全てをその瞳に映し出したのだろう。

 碧はともかく、葵なら勝手に視ることはないと思っていたのに。なんだか裏切られた気分だが、申し訳なさそうな笑顔が可愛いので許しちゃう。


「どうやら誠に遺憾ながら、そうみたいなのよね……」


 愛美は織が好きだ。

 家族としてはもちろんだけど。それ以上に、ひとりの男として。有り体に言えば、恋愛的な意味で。


 いつからだとかは分からないけど、気付かされたきっかけは、さっきの織の言葉。

 彼は、もう知っているのだと。そう言ってくれた。殺人姫としてではない、ひとりの少女としての愛美を。


 その言葉を聞いた瞬間に、胸の奥がキュッと締め付けられて、でも心はなぜかフワフワとして。

 ああ、これが恋なんだ。好きってことなんだ、と気付かされた。


 自覚してしまったらいきなり羞恥心が押し寄せたけど、こんな気持ちを本人に悟られるわけにもいなくて。どうにかいつも通りに振る舞おうとしたら、なぜか同じ布団で寝ようだなんて提案していて。


 あの時の愛美は、どっからどう見てもテンパっていた。焦っていた、と言ってもいいかもしれない。


 この気持ちを悟られたくないと思っても、同時に早く伝えたいと心が急かして。

 きっと、葵が乱入していなかったら、あのまま告白してしまっていただろう。そういう意味では助かったと言える。


「遺憾ながらって……織さんが聞いたら泣いちゃいますよ?」

「そう? どうせ向こうは、私のことそういう意味で好きってわけじゃないだろうし、泣くほどじゃないと思うけど」

「……本気で言ってます?」


 ため息混じりの言葉は、心底から呆れたもの。今の愛美の言葉のどこに呆れる要素があったのか。


「ダメだ碧……この人、思ったよりポンコツだ……」

「失礼ね。誰がポンコツよ」

「あー、いや、今のは……え? ダメだよ碧が出てきたら。余計に話がややこしくなるんだから」


 ムッとして言い返した愛美に曖昧な笑みを向けながら、自分の中にいる碧と会話している。器用な真似をするものだ。


 それにしたって、ポンコツとはなんだ。ポンコツとは。

 そりゃ我ながら、恋愛感情を自覚するまで長すぎるでしょ、とは思うけど。そこまで言われることもないだろうに。


「ていうか愛美さん、大丈夫ですか? 織さんと一緒に暮らしてるんですよね? 明日から普通に出来ます?」

「うっ……」


 痛いところを突かれた。

 少なくとも、今は織の顔をまともに見れる気がしない。なんなら明日も明後日も、その先も。顔を見れないだけならいいが、会話すら覚束なくなりそうで怖い。そうなれば織と朱音に無駄な心配をかけてしまうだろう。


 一応頑張ってみようとは思ってるものの、情けないことに大丈夫だと言い切れないのだ。


「まあ、なんとか、ギリギリ、普通に生活するだけなら……」

「それ、ダメなやつじゃないですか……」


 葵は愛美の乙女趣味を理解している。そこから考えてみるに、織のなんでもない一言に変な意味を持たせたり、普通にしてるだけで織の横顔に見惚れてボーッとしたり、そう言うのがあり得てしまいそうなのだ。


 普段の愛美からは想像できないだろうが、この人ならあり得ると、葵は自信を持って言える。花京院の魂も賭けられる。


「……だって、仕方ないじゃない。私、自分で思ってたよりもずっと、織のことが好きみたいだもの」


 拗ねた子供のように唇を尖らせた愛美は、今も胸の中で燻っている熱を感じる。

 なまじ、今までが家族としての愛情を向けていたから。それがそのまま恋愛感情に転化するわけでもないけれど、それでも。自分でも驚くくらい、あの男に惹かれている。


「あ、でもこのこと、桃にだけは言ったらダメよ。絶対揶揄ってくるに決まってるんだから」

「誰にも言いませんよ。安心してください」


 にこやかに笑う葵は一人思う。自覚云々はともかく、愛美が織のことを好いているのは、桃どころかサーニャも朱音も絶対に分かっている、と。

 愛美本人は相変わらず鈍感だから、周りのそんな気持ちにも、織の気持ちにも気づかなさそうだけど。


「私、愛美さんのこと応援しますから! 頑張ってくださいね!」

「ふふっ、ありがと。持つべきものは可愛い後輩ね」

「むにゅぅ……」


 嬉しそうに微笑みながら、葵の小さな体をギュッと抱き締める。


 でも今は、恋愛なんかにかまけてる暇はない。グレイのことも、緋桜のこともあるのだ。優先されるべきはそちら。

 やつらとの戦いが全部終わったら。その時には、この想いを打ち明けてみよう。



 ◆



 深夜の魔術学院は、周囲を覆う樹海の影響もあるのか、どこか薄気味悪く感じる。

 学校なんてのは怪談話の舞台にもされやすいが、こうして実際に来てみればそれも納得だ。長い廊下に、中の見えない教室。全てが闇の帳が降りた中だと、どうしても恐怖心というのは出てしまうものだろう。


 二年ぶりに訪れた古巣に対して抱く感情としては、些か人情に欠けるかと、緋桜は内心自嘲する。

 もちろんそれ以外にも思うところがないわけではないが、自分は既にこの場所を卒業した身だ。いや、捨てたと言っても過言ではない。唯一の後輩や自分より遥かに年上の魔女との関わりを断ち切り、己の目的のためだけにこの場から離れたのだから。


 長い廊下を歩いた先、二年前の記憶を掘り起こしながら辿り着いたのは、学院長室だ。その中へ入れば、緋桜以外の全員が既に揃っていた。


「久しぶりだね、黒霧君。学院に来るのは二年ぶりじゃないかな?」

「ええ、そうなりますね」


 そのうちの一人。この学院の長である南雲仁が、柔和な笑みで話しかけて来る。正直、この場にはいて欲しくなかった人物だ。


 ソファには金髪の男女二人が座っていた。怪盗アルカディアを名乗る、ジュナス・アルカディアとルミ・アルカディアの主従だ。


「それにしても、大胆なことしますねぇ。ここ、一応敵の本拠地じゃないですか」

「その敵のトップがこっちの味方なんだから、別におかしいことでもないだろ」


 濃密な魔力を帯びた巻物を手元で弄びながら、ジュナスはのんびりとした様子でルミに答える。歳はまだ愛美たちと変わらないだろうに、随分と肝が座っている。


 そして、この部屋の中心にいるのは、灰色の髪を持つ吸血鬼。

 魔女、桃瀬桃と銀髪の吸血鬼サーニャの仇敵であり、桐生織の両親を殺した張本人。緋桜としても、決して因縁浅からぬ仲にある男だ。


「さて。全員集まってくれたようでなによりだよ、諸君。今日は一つ、私の協力者同士で親睦を深めてもらおうと思ってね」


 吸血鬼グレイは、慇懃な態度で場を取り仕切る。この吸血鬼がこの場を纏めるのは納得が行く。集まった全員が、グレイとなにかしらの利害を一致させた協力者。それぞれがそれぞれの目的のため、グレイを利用し、また利用されるのを良しとしたやつらだからだ。


 しかし、ここで重要なのはそこではなく。緋桜たちはあくまでもグレイの協力者であり、その他のメンバーとはその限りではないということだ。


 緋桜は怪盗の二人と南雲、それぞれと関わりを持っていた。南雲とは言わずもがな、この学院で。怪盗とは、学院生の頃に何度か依頼で戦った。

 南雲と怪盗も、お互いその存在くらいは認知していただろう。


「御託はいい。さっさと本題を話してくれ。俺も暇なわけじゃないんだ」

「おや。そんなにネザーの仕事が忙しいのかな?」

「お陰様でな」

「ならば仕方ない。緋桜に言われては、私も弱いからね。早速本題に、と言いたいところだが、その前に」


 吸血鬼の視線が、ソファに座っている二人へと向けられた。それだけでグレイの意図を察したジュナスが、先んじて口を開く。


「この巻物は渡さないぞ。僕たちのお宝だ」

「ふむ。それは困るな。元々、盗んで来てくれと頼んだのは私だったはずだが」

「だとしても、だ。お前に頼まれたからと言っても、実際に盗んだのは僕たちだ。お宝を他人に渡すなんて、怪盗の流儀に反する。なにより、こいつをお前に渡して、僕たちになんのメリットがある?」


 ジュナスの言葉に、グレイがニヤリと口元を歪める。よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに。


「もちろん、見返りは用意しているとも。むしろ今日の本題は、そこにある」


 パチン、と指を鳴らせば、吸血鬼の手元に半透明に輝く石が出現した。

 いや、出現したのではない。たった今作り出されたのだ。グレイの異能によって。


「なんと……賢者の石か……!」


 興奮気味な南雲の声に、緋桜は内心かなり驚く。

 賢者の石。それは今、桃の体内にあるはずだ。しかしこうしてグレイが異能で作り上げたということは、オリジナルの賢者の石は既に奪われたのか? いや、南雲が声をあげたのを見るに、まだオリジナルは手に入れていないと思われるが……。


「そう。賢者の石だ。所詮は私の異能で作り上げた粗悪品だが、その中に秘めた魔力はオリジナルと同等。これとその巻物を交換でどうだろうか?」

「……どういうつもりだ?」


 あまりにも不可解。ゆえに、緋桜はつい聞いてしまっていた。


「お前の異能で作れるなら、オリジナルを狙う必要はないはずだ。違いなんて、魔術が記録されているかどうかでしかないだろ。それなのに、何故未だに桃を付け狙う?」

「オリジナルでなければ意味がないからさ」


 短くそう答え、グレイの視線は怪盗二人に固定されたままだ。これ以上話す気はない、ということだろう。

 ならば緋桜としても詮索はしない。どこでこの吸血鬼の逆鱗に触れるか分からないのだ。仮にそうなってしまった場合、緋桜はグレイには勝てないだろう。


「……少し見せてもらってもいいか?」

「どうぞ、ご自由に」


 賢者の石のコピーを受け取り、それをジッと見つめるジュナス。

 たしか、彼はなんの異能も持っていなかったはずだ。織のように未来を見ることもできなければ、葵のようにそのコピーの情報を映すこともない。


 ただし、怪盗としての鑑定眼はかなりのものだ。異能や魔術に頼らず、これまでの経験と天性の直感だけで、自らが狙う宝を鑑定する。


 果たして、そんなジュナスが下した結論は。


「たしかに、これは賢者の石だ。妙な力も込められていない、純粋な魔力の塊。オリジナルがどうか僕は知らないけど、遜色ないんじゃないか?」

「なら」

「でも、それとこれとは話が別だ」


 賢者の石をグレイに突き返し、己と吸血鬼の力量差も弁えず、ジュナスは不敵に笑ってみせる。


「言っただろう。あれは僕たちが盗んだお宝だ。それを渡すのは、怪盗の流儀に反する」


 さすがマスターかっこいい! とルミが賛辞の言葉を叫ぶのは、いつものこと。だが、今ばかりは緋桜もルミと同じ気持ちだった。

 よくもまあ、この吸血鬼相手にそこまで大見得切れるものだ。


「ただ、このお宝は僕たちの求めているものとは違う。いつも通り適当なところに捨てようと思ってたんだけど、引き取ってもらえるなら助かるよ。その賢者の石は別にいらないし」

「この力が必要ないと?」

「ああ、必要ない」


 ジュナスが巻物を差し出し、グレイが受け取る。幸いにも、グレイが怒るようなことはなかったとは言え、一触即発であるのには変わりないだろう。


「そうか。なら君の言う通り、こいつは私が預かり処分する、ということにしておこう。流儀や矜持というのは大切だ」

「そいつはどうも」

「では、君たちはどうする? 私と君たちは、利害の一致で協力関係にある。私の求めるものを持ってきてくれたなら、こいつを譲ろうと思うのだが」


 巻物を懐にしまい、グレイは緋桜と南雲に問いかける。手の中の石は、いつの間にか二つに増えていた。


 だが残念なことに、緋桜もそれに興味をそそられない。反応を示したのは南雲ただ一人だ。


「具体的にはなにを持ってくればいい?」

「南雲仁、君の場合はなにも持ってこなくていい。ただ、舞台を整えて欲しいだけだ」

「……学院祭で、なにか起こすつもりだな?」

「察しがいいな、緋桜。その通りだとも。私はここの学院祭当日、魔物に襲わせる。まずは厄介な学院の犬どもを始末せねばなるまい?」


 そして桃をあぶり出そう、というわけか。先日ここがグレイの眷属に襲われたことは、緋桜の耳にも届いている。

 あの時は、いわば前哨戦。敵の戦力を図るための斥候にすぎなかったのだろう。グレイにとって、有象無象の魔術師など眼中にない。確認したかったのは、魔女と殺人姫、そしてルーサーの三人だ。


「ふむ。そういうことならば承った。当日の結界管理は任せるといいよ。先日のように、魔物は通すようにしておこう」


 この学院の長であるはずの人物は、グレイの提案に随分と呆気なく頷いた。

 心の中で嘆息しながらも、緋桜はグレイに質問する。


「それに俺たちも参加しろって言うのか?」

「もちろん。私の眷属だけでは、戦力が足りない。数は用意できるが、質はイマイチでね。そしてご存知の通り、私は昼に動けない」


 緋桜としては、正直気が進まないというのが本心だ。既に決別した学院や愛美たちはいいとしても、生徒の中には妹がいる。


「もちろん強制はしない。降りてくれても構わない。我々は仲間などではなく、互いに利用し合うだけの関係なのだから」

「いや、やるさ。俺にとっても、学院は邪魔だからな」


 だがそれがどうした。妹がいるからと言って、緋桜はもう引き下がれないところまで来てしまっている。

 例え肉親だとしても。敵になるのなら、戦うしかない。


「マスター、私たちはどうします?」

「僕たちも参加しようかな。愛美さんやあの探偵もいるんだろう? 今後邪魔になるし、この辺りで退場してもらった方が、僕たちにとっても都合がいい」

「どうやら、決まりのようだね」


 邪悪に笑う吸血鬼。

 一体その目的はなんなのか。何故未だ、桃の持つ賢者の石を狙うのか。

 思考を巡らせた緋桜は、しかし直ぐに諦めた。吸血鬼の考えることなど、人間如きが理解できるわけないのだから。


 それからしばらくもしないうちに解散となり、真っ先にグレイが姿を消し、その後に南雲が消えた。残されたのは、緋桜と怪盗の三人だ。

 緋桜も帰ろうかと思った時、ソファに座ったままのジュナスが話しかけてきた。


「緋桜さん。一応報告ですけど、あなたの妹と戦いましたよ」

「葵と?」

「はい。その妹さん、封印が解けかけてました。なにかするなら、早めにした方がいいんじゃないですか?」


 それじゃあ、僕たちはこれで。言い残し、ジュナスとルミの二人も消える。

 学院長室で一人になった緋桜は、大きなため息を吐いた後に独り言ちた。


「どうせ聞いてるんだろ。葵のこと、頼んだからな」


 任せて。

 旧知の声が聞こえた気がして、緋桜はどこかへと姿を消した。

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