七日目(前篇)「邂逅。高坂輝、酔っ払いと話す事。左足の付け根から膝」
雨はまだ止まなかった。相変わらずの雨音で輝は目を覚ました。
ベッド脇には左足の付け根から膝までが放置してあった。
風邪は峠を越したようで、もう吐き気もしない。輝は足を掴むと物置部屋の扉を開けた。首無しの、上半身と右足の膝までの物体がそこにあった。輝は左足を放った。
昨夜遅くに北川に連絡し、夜八時に新宿駅で待ち合わせる事になった。とはいえ、志津の事を思い出しただけで北川と菖蒲についてはまだ記憶がはっきりしない。輝はそれを北川に素直に告げた。初めは戸惑っていた北川だったが、会えば思い出すだろうと言って参加を快諾してくれた。
二日ぶりにシャワーを浴び、湯冷めしないようすぐに着替えてから歯を磨く。
鏡に映る自分の顔を見つめてみたが、足りない部分は無かったし、また余計なものがくっついている訳でもなかった。髭を剃り、キッチンへ向かう。
味噌汁と白米だけの食事だったが、まともに固形物を咀嚼し嚥下するのは随分久々の事のように感じられた。ミルクティーを煎れ、ソファに腰掛けてタバコを吸う。
風邪薬の為か少しぼんやりとしていた。
時刻は午前十一時半。待ち合わせまで時間がある。
輝は物置部屋へ向かった。不自然な形の肉体を見ないようにしながら、高校の卒業アルバムを探す。一番奥の黒い本棚の隅に、それはあった。リヴィングに戻ってソファに座り、緑色の表紙を開く。
見開きで、学年全員が校庭に『光』という字に並んでいる俯瞰図があった。自分を探そうかとも思ったがすぐに諦めた。
教員の紹介ページなどを捲っていくと、クラス毎の写真に辿り着いた。輝が所属していたのは三年B組だ。担任と副担任の写真が左上にあり、クラス全員の個人写真があり、集合写真が二枚あった。
担任の顔を見ても全く覚えがなかったが、北川を見つけると懐かしさを感じた。クラスの誰よりも流行り物が好きで、髪の毛を茶色に染めていたものの、この撮影の為に注意され黒髪に染め直していた。顔つきは分厚い唇が印象的で、目は小さい。黒目がちで、ニキビが多かった。白井菖蒲も発見した。少し赤味がかったショートボブで、愛嬌のある目をしていた。そして皆川志津。輝の記憶に間違いはなかった。クラスで一番色白で、黒のロングヘア、控えめな笑顔に輝は何とも言えない感情を覚えた。
輝自身は今とさして変わりなく、色白で若干不健康そうで、ぎこちない作り笑いを浮かべていた。
一枚目の集合写真は修学旅行で沖縄へ行った時のもので、志津も女子生徒の一群の中で笑っていた。二枚目は恐らく彼女の死後だったのだろう、右上の小さな枠の中に、個人写真と同じ笑顔が付け足されていた。
ページを捲っていくと、生徒が担当するクラス紹介のコーナーへと移った。様々な写真のコラージュや文字が踊っている。B組の見開きページの中央には志津の写真があり、『NEVER FORGET』と赤い文字で書かれていた。北川はひょうきんな顔だけ切り取られ、別の女子生徒の身体にコラージュされていた。菖蒲は別の生徒と抱き合って笑っている姿がページの端にあり、輝は眼鏡をかけて分厚い本を読んでいる遠巻きな写真が一枚、右下に挿入されていた。
輝は中央の志津を見ながら手探りでタバコを手に取る。
北川、菖蒲、志津以外の三人は、全く見覚えがなかった。
幾ら考えても、思い出せない。他のクラスに友人は居なかっただろうかと思い、A組からF組まで目を通したが、見覚えのある顔はなかった。
部活動のコーナーや委員会の紹介ページもあった。輝と志津は図書委員として、図書館の受付コーナーに他の生徒と一緒に映っていたが、やはり彼らに覚えはなかった。
輝はアルバムを閉じる。タバコに火を付け、天井に向かって煙を吐いた。
その後、卒業文集を探したが見つからなかった。町田の実家にあるのだろうか。
昨年の今日について思い出そうと努力した。昨夜、毎年四人で会っている事と、盆には皆で墓参りに行っている事は思い出せた。では去年はどうだったか。
分からない。
一時間考えても、思い出せなかった。
インターホンが鳴る。
「私よ」
桜子だ。こんな時間に来るなんて珍しい。玄関に向かい鍵を開ける。入ってきた桜子は、今度は左の眉も剃っていた。
「おまえ、眉毛無いぞ」
「いいの、これで」
いつも通り桜子はソファに座ったが、輝はコーヒーに砂糖を入れるか否か少し迷った。
「俺、もうすぐ出かけるけど」
「そう」
桜子はお構いなしにタバコに火を付けた。輝は肩をすくめ、ブラックのコーヒーを差し出した。
「消えてしまいたい気分だわ」
溜息混じりに煙を吐き出しながら、桜子が呟いた。
「どうした、何かあったのか?」
「無いわよ。無いからよ。貴方もこういう事ない?」
輝は赤いマグカップにミルクを注ぎながら少し考えた。
消える?
「それって死にたいって事か?」
「違うわよ。死ぬのと消えるのでは大違いじゃない。死んでも死体は残る。今の私は、跡形も無く消えたいの。そうね、私という存在自体なくなって欲しいわね」
語る内容とは裏腹に、桜子の口角は少し吊り上がっていた。
「存在って難しいものね。仮に私が今死んでも、死体は残るし、人の記憶にも残る」
輝は反射的に志津の事を思い出した。確かに彼女は八年前に死んだ。今は骨になって墓の中に居るが、存在自体は多くの人間の中に残っている。
「存在自体を消すなんて、無理な話だよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
桜子が左眉のあるべき所を指先で撫でる。
「でも、出来たら素敵だと思わない? 誰の記憶にも残る事なく消えるの。きっとその方が、平和になるわ」
平和、の言葉に、輝はキャシーの言った事を思い出した。
脳の平和。
自分自身が消えて、誰からも忘れ去られて、果たして自分の脳は平和になるだろうか?
輝は何も言えずに居た。存在の消去、脳の平和。
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