六日目「右足の付け根から膝まで。タクシー運転手。旧友。欠落」

「駅前、北口までお願いします」

 咳き込みながらそれだけ言って、輝は後部座席に倒れ込んだ。朝になっても熱が下がらず、何を食べても嘔吐する上に下痢までし始めた。トイレで何度も意識が飛び、この数日間は何か悪い夢だったのではないかと思ったが、幸か不幸か、ベッド脇には男性の右足の付け根から膝までが放置されていた。

 輝は洗顔と歯磨きだけして、髭も剃らずシャワーも浴びず、通りまで出てタクシーを拾った。日暮里駅の北口に行きつけの診療所があるのだ。普段なら歩いて行ける距離だが、自分の部屋の中ですらふらついてまともに歩けない状態で、通りに出るまでが精一杯だった。

「お兄さん、具合悪いの?」

 中年の運転手が咳き込む輝を見て言った。

「ちょっと、風邪を引いたみたいで」

 輝が返すと運転手はスピードを上げた。

「なら急がないとね。顔も赤いし、熱あるんじゃないの?」

「計ってませんけど、かなりあるんじゃないかな。とても歩けなくて」

 タクシーが赤信号に引っかかる。座席の前に貼ってあるプレートが目に入った。

『運転手 二之宮竜次』

「フリーターでしょ、お兄さん」

「そうです」

 具合が悪いというのにこの運転手は何故話しかけてくるのか、と少し怒りを覚えたが、それでも輝は返答した。

「だと思いましたよ。最近雨続きだし、気温もおかしいし、皆体調を崩す時期だねぇ」

「そうですね」

「病は気からって言うけど、本当のところどうなんだろうね。私は『気は病から』だと思うけど」

 気は病から。だがそれは『病』の種類にもよるだろう、と輝は思った。

「そこの角でいいかな?」

 タクシーはロータリーを回り日暮里北口改札に乗り付けた。千円札を渡すと、釣り銭をバッグから取り出しながら、二之宮運転手は言った。

「落とし物、ないかい?」

 他意無く輝は二之宮の顔を見上げた。


 落とし物ならある。記憶だ。


「ほらお釣り。この奥の診療所でしょ? 早く行った方がいいよ」

 二之宮はそう言って輝の手のひらに小銭を落とし、ドアを開けた。

「お大事に」

「お世話様でした」

 反射的にそう答えたまま、輝はしばらくそこに立ちつくしていた。



 診療所では少しばかり待たされたが、診断はただの風邪ということで、注射と点滴を打たれた。一時間半の点滴の間、輝はまた眠った。

 目を覚ますとちょうど看護婦が点滴の機器を外しに来た。会計を済ませ、薬局で薬を受け取って帰路につく。吐き気はあったが下痢は治まり、意識もはっきりしてきた。輝はそのまま歩いてアパートへ帰った。

 玄関のドアを開けると、やはりというべきか、首の無い男性の身体、上半身に右足の途中までがくっついた物体が出迎えてくれた。

 ふと、輝は今まで思わなかった疑義を感じた。


 これは、誰だ?


 ひんやりとしていて心臓も動いていないからには死体なのだろう。だが日に日に増していく身体のパーツ、それらが完成したらどうなる?

 輝は随分と重くなったそれを抱きかかえ、いつものように物置部屋へ運んだ。

 多少楽になったとはいえ吐き気が止まなかったので、輝はベッドへ向かった。サイドテーブルに携帯電話が置いてある。ここ何日かはずっと電源を切っていた。

 何かの予感に駆られて、輝は電源を入れた。

 メールが五通と、留守番電話メッセージが二件あった。

 五通のメールは全て北川準という人物からだった。

 北川。

 輝は曖昧な記憶を辿る。

 高校の同級生だ。二、三年とクラスが一緒で、よく二人で授業をサボっていた。

 メールの内容は以下のようなものだった。


『久しぶり。もうすぐ命日近いけど、今年はどうする?』

『返事無いけど元気にしてるか? とりあえず連絡くれ』

『前のメール届いてない? もう日が近いから、早めに連絡よこせよ』

『菖蒲と連絡取って、新宿で会うって決めたよ。おまえはどうする?』

『もう明日だぞ。無事ならすぐ連絡してくれ』


 命日? 何の話だ?

 輝は眉間に皺を寄せ、今度は留守番電話メッセージを聞いた。


『もしもし、北川だけど。忙しいのか? これ聞いたら電話くれよな』

『あー、俺だけど。ちょっと心配になってきた。元気か? 無理はしないで欲しいけど、命日だし、来れそうだったら連絡くれ』


 輝はベッドに転がって自分の高校生活を思い出そうとした。

 図書館に入り浸ったり進級に影響の無い程度に授業をサボったりもしていた。主に、北川とだ。

 いや待て、それだけじゃない。何かあったはずだ。何か大変な事が。

 そう思った瞬間、また猛烈な吐き気に襲われ、輝は便所へ走った。吐こうとしても何も出てこない。頭がキンキンと痛み、視界にキラキラしたものが飛ぶ。輝は頭を便座に乗せ、沈静を待った。

 ふと、胸元の痛みに気付いた。

 胸が痛い。

 風邪の所為だろうか? だがこんな症状はあるのだろうか。

 その時、輝は重力に負け、頭から右に倒れ込みながら、目を見開いた。


 桜坂高校の旧校舎。その非常階段のてっぺん。

 夏服の北川と、二人の女子生徒が話しているのが見えた。その脇に、制服を着た輝自身の姿も。

 視線はグラウンドに向かった。どこかのクラスがサッカーをしている。授業中なのだろう。

『あーあ』

 今度は声が聞こえた。紛れもなく、輝自身の声だった。この白昼夢のような映像の中で、初めて音声が聞こえた。視線が輝へと注がれる。

『なんか毎日同じ事の繰り返しでつまらないな』

 映像の中の輝は縁無し眼鏡を軽く押し上げたながら言った。

『言えてる〜』

 北川の隣に居た、茶色いセミロングの女子が相槌を打つ。

『まあ学生の内はしょうがねえんじゃないの? この時代、勉強くらいしねえと、後々大変だよ』

 北川は適度に日焼けしていて、片手にタバコを持っている。

『あんた、制服でタバコ吸うのやめろって言ってんじゃん、ダサいよ』

 非常階段の柵の脇に立っていた黒髪の少女が初めて口を開いた。

『いいじゃん、ここなら誰に見られる訳でもねえし』

 そう言って北川はタバコに火を付ける。視線は百円ライターに移る。

『でもさ』

 眼鏡を外して胸ポケットに仕舞った輝が言う。

『何かこう、アホらしくて笑っちゃうような事、起こらないかな』

『え、例えば?』

 セミロングの女子が尋ねる。

『いや、ぱっと思いつかないけどさ、こう、非現実的な何かがさ』

 輝は照れたように笑った。

『まあそんなのを待ってる内はダメなんだろうけどな、自分で動かないといけないかもしれないし』

『そうでもないよ』

 輝の声を遮って、黒髪の女子生徒が言った。肌の色は白く、化粧はしていないが、その透けるような肌はこの日光の下では季節違いの雪のように見えた。

『どういうことだよ』

 北川と輝、そして視線の主が彼女を見つめる。

『何かアホらしくて笑っちゃう事でしょ? 一回だけならいいよ』

 一同は顔を見合わす。

 その隙に少女は非常階段の手すりに腰掛けた。

『おい、危ねえぞ』

 北川が声をかける。

『よく見ててね』

 少女は輝に微笑みかけた。そしてそのまま落下した。


「志津!」

 思わず輝は声をあげた。便所で仰向けに倒れ込んだまま。

 手足ががくがくと震えていた。余りにも鮮明な、少女の落下の図。

 その後の事は奇妙な映像に助けられるまでもなく思い出した。

 落下して即死した皆川志津は、当時輝が交際していた相手だ。輝と同じく読書が好きで、よく本の貸し借りをしていた。図書館に入り浸っていた輝に、彼女から声をかけてきたのがきっかけで付き合うようになったのだ。クラスでは大人しい方だったが、その肌の美しさといつも謙虚な、それでいて飄々とした雰囲気が、輝は好きだった。

 言うまでもなく、志津の自死は学内外で大きな話題となり、特に現場に居た輝や北川や茶色い髪の女子・菖蒲も警察の事情聴取を受けた。テレビの取材も来たし、文字通り『笑っちゃう』ような大混乱だった。

 旧校舎は取り壊しが決定し、溜まり場だった非常階段も撤去された。

 輝は志津の死を受け入れられず、一月ほど不登校になった。

 そして制服姿でタバコを吸う事を辞めた。



 便器に手をかけて起きあがりながら、輝は涙を拭った。

 俺は、何故こんな大事な記憶を忘れていた?

 あれ以来、命日には毎年あの時の面子で集まって自分達なりの弔いをしていたのに。

 勿論輝は大学に入ってからも女性と交際したが、志津の面影から逃げることが出来ず、どれも長続きしなかった。

 志津が飛び降りた理由は「自殺」として片付けられた。彼女の家族も、一番近くに居た輝自身も、志津が自殺するような要因は見つけられなかったからだ。

 もし自分があの時あんな事を言わなければ。

 その懊悩に、輝はあの日からずっと苦しんできていた。

 なのに。

 それすら忘れてしまっているというこの現状。

 涙は止まらなかった。

 何故、俺の記憶を奪う?

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