第83話「小倉競馬場へ行こう!」

 小倉こくら駅はすべての新幹線が停まるような大きな駅だから、駅ビルも巨大で、そのビルの3階部分にモノレールが突っ込んでくるようになっている。


 小倉駅から小倉競馬場に行くのに、最も手っ取り早い方法はモノレールに乗ることであり、それ以外は非効率的だ。


 親父が若い頃、「いつもモノレールに乗るのは退屈だから」と、モノレール以外の移動手段……たとえば西鉄バスとか、JRとか、タクシーとか……をあれこれ試してみたものの、どれも結局、運賃・所要時間ともにモノレールにはかなわなかったらしい。


 親父は一度、小倉駅に早朝に着きすぎてヒマだったので、徒歩で競馬場まで行ったことがあるらしいが、モノレールだと約10分で着くのに、徒歩だと1時間半もかかったらしい。


 いくらヒマだからって、なんでその距離……と言っても、小倉駅から小倉競馬場までは約5キロだが……を歩いてみようと思ったのだろうか? これがいわゆる「若気の至り」というやつなのか……いや、親父は今でも、外出時に謎行動をすることが多くて、とても「不惑」の40代とは思えないのであるが……


 閑話休題、北九州モノレールは基本的に10分おきに運行されており、俺たち家族が乗ったのは9時ちょうどに、小倉駅を発車するモノレールだった。


 さすがに朝の9時の時点で満員なんてことはなく、余裕で座れたが、車内にいる人の大半は、競馬新聞かスポーツ新聞を読んでいるおじさんで、一目で競馬目当てだとわかった……かく言う俺の親父もコンビニで買った競馬ブックを、俺の左隣の席に座りながら熱心に読んでいた。


 そんな親父のことを、親父の左隣の席に座っていたチカさんが微笑みながら見つめていた。







 モノレールは何事もなく、9時10分頃に競馬場前駅に到着し、親父は我先にとモノレールを降り、俺とチカさんを置き去りにして駆けていった。


 別にいつものことなので、俺もチカさんも焦ることなく、ゆっくりとエスカレーターを降りて、改札から外に出た。


 北九州モノレールの競馬場前駅と小倉競馬場の入口は直結していて、駅舎の外に出ることなく、競馬場に入場することができる。


 親父が駆けていったのは、その入場時に必要な入場券を買いに行ったからである。


 小倉競馬場の入場料はたったの100円なので、3人で300円。


 入場券は自動販売機では売られていなくて、入場券売場のお姉さんに100円玉を渡して売ってもらうシステムで、そうしてゲットした薄っぺらい紙の入場券を、緑色の派手な服で着飾ったモギリのお姉さんに手渡して、半券を受け取れば入場することができる。


 ちなみに、入場券を買わないと入れないのは、競馬が開催されている時だけで、競馬が開催されておらず、場外発売しか行われていない時は、入場無料である。


 閑話休題、親父は入場するとまず、タダでもらえるレーシングプログラムを取り、そのあとは俺に1000円札を3枚渡してきた。


「ほれ、3000円もあれば飢え死にすることはないだろう。それじゃあな」


「あっ、ちょっと待ってくださいよ、慶彦よしひこさん! じゃあ坊っちゃん、何かあったら電話してくださいね」


 親父は俺に別れを告げると、さっさとパドックの方へ駆けていき、チカさんはそれを追いかけていった。


 つまり俺は置き去りにされたわけだが、別になんとも思うことはなかった。


 俺が小倉競馬場に来るのが今日初めて……なんてわけもなく、子供の頃から何度も何度も親父に連れてこられていて、正直、もう新鮮味はかけらもなかった。


 競馬場の隅から隅まで、一般のファンが入れるゾーンはすべて行ったことがあるし、パドックで馬を見たとて、馬券を買えない俺には特に意味がない。


 競馬のレース自体に興味はあるので、レースは外で見るけど、それ以外の時は涼しい室内で、大人しくしていたいというのが本音だった。


 去年だったか一昨年だったか、親父にそう言ったら、「じゃあ、食事用のお金やるから、お前はお前で自由に過ごすがいい」とのたまい、以降、俺は競馬場内では親父やチカさんとは別行動をするようになったのである。


 大都会の競馬場には行ったことがないのでわからないが、少なくとも、小倉競馬場はとても治安がよく、場内のベンチに座っている時に、ついうっかり眠ってしまったことが何度もあるが、特に何も盗られることはなかった。


 さらに子供の頃から通い続けていて、はっきり言って、小倉競馬場は「庭」だ、ほぼすべての場所を知っている。


 だから親父は、俺が競馬場内で自由行動することを許してくれるのである……というか、親父は親父でパドックや馬券売場を自由に行ったり来たりしたいので、レースの時以外は室内にいたがる俺のことを足手まといだと思っているのかもね……


 閑話休題、親父と別れた俺はとりあえず、競馬場内にある給茶コーナーで、冷たいお茶を飲んだ、競馬場のいいところはお茶や水がタダで飲み放題だということだ、だから水分補給に関してはお金を無駄づかいせずにできる、3000円もあれば飢え死にしないどころか、お腹いっぱいで動けなくなってしまいそうなほどである。


 ところで、俺に3000円を渡して去っていった親父は今頃、パドックで1レースの出走馬のことを血まなこで見つめているのだろうか? 先程も書いたように、未成年で馬券を買えない俺には、1レースの九州産馬限定2歳未勝利のパドックなんて見てもしょうがないので、涼しい室内で大人しくしていた。


 別に、馬券は自動販売機で売っているし、年齢確認がされるわけでもないのだから、買おうと思えば買えなくもないのだが、俺はそういうルールは律儀に守るタイプなのだ。


 もし俺が「ルールとか関係ねえよ、己の欲望のままに生きてやるぜ」なんて思う男だったら、夏休みになっても童貞のままなわけないじゃないか……もし俺が欲望に正直に生きていたら、サアヤさんとクレナお嬢の両方に手を出した挙句、モエピやロバータ卿にも手を出して、4人のいずれかに刺されて、今頃は地獄に落ちていたことだろうよ、「ドン・ジョヴァンニ」みたいにね……


 なんて、ありもしないバカげた妄想はさておき、俺はレーシングプログラムをチラと眺めたあと、空いている椅子に腰かけて、家から持ってきた漫画や小説を読んでヒマを潰した。


 充電が切れるのが嫌で、スマホは本当に必要な時以外はいじらず、時間確認も100円ショップで買った腕時計でしていた。


 1レースの発走時刻は10時で、発走時刻が迫ると、本を閉じて、外に出て、ゴール地点の近くでレースを見た。


 親父はどこで見ているのか知らない、少なくともゴール周辺にはいない。


 発走時刻になると、ファンファーレが鳴って、レースが始まる。


 1レースは芝1200メートルなので、スタート地点は肉眼で確認するのは困難なほど遠くにある。


 だから普通の人はターフビジョンと呼ばれる巨大なモニターでレースを見るのだが、俺は、親父のお下がりの双眼鏡を使って、レースを見た。


 レース自体は九州産馬限定戦でレベルが高いわけもないし、2番手の馬が抜け出して勝っただけだから、特に面白くもなんともなかったのだが、いかんせん、勝ったのが超有名人のたけ騎手なものだから、土曜日の朝だというのに、ウィナーズサークル周辺にはたくさんの競馬ファンが集まってきた、みんな大スターである武騎手のことを近くで見たいのだ。


 俺としても、当然ながら武騎手のファンで、子供の頃から何度も何度もサインをもらおうとアタックし続けているが、いつも他のファンに阻まれて、サインをしてもらう前にタイムオーバーになってしまうから、未だにもらったことはない。


 他の騎手のサインはだいたい持っているのに、武騎手のサインだけはもらったことがない。


 今回もこのファンの多さでは、とてもじゃないがもらえそうもなかった。


 そう思いながら、ウィナーズサークルを眺めていると、俺の左隣にとある女性がやって来た。


 その女性は肌が黒く、オフショルの服を着て、黒い肩を露出していた。


 その肩から目線を顔の方に上げてみると……その女性はカンカン帽を被り、サングラスをかけていたが、俺には誰なのかすぐにわかった。


「カ……カレンさん……」


「え? あっ! サトシくん!?」


 俺は完全に油断していた。


 まさか防府ほうふから100キロ以上離れた、小倉競馬場で知り合いに会うとは思っていなかったのだ……

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