第三章『鴛野真緒と緑丘楓』

第13話 夕焼けの青いボールペン。





 初めて彼女ができたとしても、僕は未だに夢心地のようだった。しかも唐突に、いわばなんとなく出来たような感じで、僕は未だに楓が彼女だと信じられずにいた。それ故かはわからないが、僕は付き合ったことを誰にも言わないでいた。楓の方は親しい友達に報告をしていたようだが、僕自身は特に誰も言わなかった。

 しかし、僕が誰にも言わなくても、荏隈えのくまはじめの耳には確かに情報が渡っていた。直接僕を揶揄からかわなかったが、俺は知ってるぜと言ったような雰囲気を醸し出していた。もちろんこれは沙羅にも言えることだが、仲の良い鴛野おしのには知らない様子であった。


「今のところ誰に言ったの?」


 昨日の土砂降りから一夜、僕らはテスト期間に突入し、僕と楓は放課後学校のコミュニティというエリアで勉強をしていた。

 楓がオームの法則と書いたところで僕に話しかけて来る。電気基礎のようだ。


「誰にも言ってないよ。僕が知っている限りの人間には、既に情報が渡っているようだし」


 僕はコンツェルンの図を書く。現代社会である。


「私は仲の良い人しか言ってないよ。稚依ちいちゃんと沙羅ちゃんぐらいかな。あ、あと肇とか」


 稚依とは隣のクラスの蒲江かまえ稚依のことで、楓と一番仲が良い女の子だ。


「大方そうだろうな」

「鴛野ちゃんには言わないの?」


 トラストの絵を描いていた手を止めて、僕は楓を見る。


「うーん、言う必要もないしなぁ。別に言わなくても良いだろうって思ったんだけど、言った方がよかった?」

「言わないで良いよ」


 楓は間髪入れずに言う。


「そのつもりだよ」


 静寂に近い時間が刻々と過ぎていく。聞こえるのは二人の呼吸の音と、ペンを動かす音。時々楓が僕に向かって話しかけ、笑いが起きる。その後すぐに黙って書く。


「ボールペンなんだ」


 話しかけてみる。


「うん。たくさんあるから使い切ってしまいたいの。そういう庵だってボールペンじゃん」

「青ペンは記憶力が上がると言うから実験してみてる。果たして本当に効果があるかどうか」

「迷信じゃなくって?」

「それも含めて実験。何事も検証が大事である」

「ふーん」


 こうやって黙り込むのは大層珍しくもない。僕は楓の前でそこまで喋らないし、楓はかなり喋るにしろ、僕の邪魔をしてこない。ただ今回だけは、さっきまで描いていた図の名前を忘れるほど妙に緊張していた。テスト勉強が頭に入ってこない。ペンは動かしているものの、頭は一向に動いてない。

 僕は自動販売機の上にある時計に目をやる。すで五時を回っている。


「時間大丈夫? もう五時だけど」


 楓に話しかける。楓は後ろを向いて、慌てたような顔持ちでペンを筆箱に収納する。


「ほんとだ。帰って家のことしなきゃ」

「じゃあお開きだ。帰ろうか」


 机にあった黄色のノートと筆箱をリュックサックに詰めて、それを担ぎ、ポケットに手を入れてから楓を待つ。ブレザーの内ポケットにある自転車の鍵を探しながら、彼女を待つ。

 外はだいぶ暗くなっていたものの、流石の五月か陽はそこまで落ちていなかった。遠くの空は茜色に染まり、黄昏時のように感じられた。僕らは両方自転車で、双方右手側にそれを添えて手で押す。この時はゆっくりと時間が流れているようだ。僕らの帰り道が分かれる途中までの道のりが、何だか長く感じられる。


「庵ってどっちにいくの?」


 本屋を真っ直ぐ行った先、焼肉屋がある交差点。楓が右か正面を人差し指で指しながら言う。


「普段は右だけど、真っ直ぐでも行ける」


 信号が青に変わる。肩を並べて分かれ道まで歩いていく。ほどしばらく歩くとすぐに、道までついてしまった。僕は右に行かなければならないが、楓は左に行く。つまりここでお分かれとなる。


「庵」


 楓の呼ぶ声がする。


「なに?」


 左を向く。


「何か言うことない?」



「……また明日……?」


 楓の目がじっと僕をみている。


「……わかってるけど、恥ずかしい……。こういうのは慣れてないんだ」

「かわいいじゃん」


 にやにやしている。


「どこがだよ……」

「そのうち慣れてね。じゃあまた」

「ああ、また明日」


 同時に自転車を漕ぎ出す。少し生温い風が、僕の火照った顔を冷ますように擽る。自分が今どんな顔をしているか想像したくもない。きっと気持ちが悪いだろうから。



 彼女と分かれた帰り道は、少し淋しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます