30ー1 蔦 

 何度も何度も読み返した。病気で文字はガタガタだが、彼女の優しさや思いやりが、にじみ出ていた。紙からは、微かに彼女の病室の匂いがした。

「行かなきゃ。」

 僕は、喪服に着替えた。10時前。走れば、まだ間に合う。家を飛び出すと、梅の花が咲いていた。

  チュン チュン チュン

鶯のささ鳴きが聞こえる。何かを訴える聲。僕は、彼女の聲を聴けたのかな。花屋の前を通る。そこに売ってある、真っ赤な薔薇が目についた。薔薇が何かを訴えかけている気がした。早く行かなければ。もっと速く。

「蔦莉。」

僕は、加速した。

  はぁはぁはぁ

 僕は、蔦莉が好きなんだ。蔦莉が。他の誰でもない蔦莉が。彼女の全てが、愛おしくて愛おしくて仕方なかった。無邪気な動作も、少し大人っぽい笑顔も、美しい横顔も、泣き顔も、体にある痣も。その全てに、恋していた。君のおかげで、僕は人生が楽しくなった。君がいないと、ダメなんだよ。君といるとホッとする。お願いだ。戻ってきて。聲を聞かせて。姿を見せて。蔦莉。

 お葬式の会場が近づいてくる。あともう少し、あともう少しで着く。その気持ちが足を速めた。


「–––即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経」

お坊さんが、般若心経を読んでいる。無事、葬儀に間に合った。僕は息を整えながら、最後列に座った。

「本日はご多用中のところ、またお足元の悪い中、娘・蔦莉の葬儀に多数ご参列いただきましてありがとうございました。おかげさまをもちまして、式をつつがなく執り行うことができました。心よりお礼申し上げます。娘の蔦莉は一昨日病院で、22歳の生涯を終えました。パーキンソン病でした。蔦莉は歌手・琴音として、相方である澄さんと音楽活動をしてきました。蔦莉の音楽愛は、誰にも負けないものでしたので、病室でも作曲をしておりました。彼女の一生懸命な姿に、心を打たれました。私たち家族も蔦莉も、最期まであきらめずに、いろいろな可能性に賭けてきましたが、ついに力尽きました。親としては悔やみきれませんが、精一杯戦った蔦莉、今はゆっくりお休みと言ってやりたい心境です。生前は蔦莉がご厚情を賜りまして、ありがとうございました。娘に代わり、お礼申し上げます。本日は最期までお見送り、ありがとうございました。」

楓さんが、挨拶をする。泣かないように言っているようだが、声が震えていた。僕は、人が出ていくのを待った。人がいなくなったのを確認し、僕は棺に近づいた。1ヶ月ぶりに見る彼女の顔は、最後に見たときより痩せていた。

「蔦莉。君には、僕の聲は届かないかもしれない。・・・でも、伝えるね。今まで辛かったね。・・・よく頑張ったね。・・・好きだよ。君の全てが。・・・手紙も、嬉しかった。・・・会いたい。会いたいよ、蔦莉。」

目から熱い熱い液体が流れた。彼女が亡くなってから初めて流した涙。それは、止まる事なく流れ続けた。

–––ありがとう。私も好きだよ。ごめんね。

聞こえるはずのない蔦莉の聲が、聞こえた気がした。

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