第131話 エピローグ(2)
(1)
もう一度軍服に袖を通す日々が訪れるとは夢にも思っていなかった。
助手席に座り、カシミラに掴まれていた裾を軽く撮んでみせる。
ウォルフィの隣には、V型8気筒の黒塗りの車――、この送迎車を運転するエドガー、後部座席には、彼が再び軍属に身を置くきっかけとなった、ギュルトナー元帥夫妻ことリヒャルトとフリーデリーケの姿があった。
きっかけは、やはり約二年前――、イザーク討伐後、自身が負った怪我の快癒、アストリッドの復活、その他諸問題が粗方片付き、ようやくアストリッド邸へ戻ったばかりの頃だった。
「これで最後ね」
フリーデリーケは居間に入り、窓近くに設置してあった猫用ハンモックを片付け始めた。
「なかなか休暇が取れなかったとはいえ、ずっと私物を置きっぱなしですみませんでした。しかも夕方近くになってから急に押し掛けてしまって」
「いえいえー、お気になさらずー。事前に電話で連絡頂いてましたし、それに貴重なお休みでやることも沢山あったでしょうから」
持ち込んだ私物はさほど多くないが、その大半は猫用品。
餌入れや猫トイレ、ゲージなどはすでに持ち帰っていたが、猫タワー、猫ハンモックなどの遊び道具はつい後回しにしていたのだ。
「むしろ、もうここに移り住んじゃっても良かったのに。ルドルフも皆に懐いていましたし」
「ありがとうございます。言葉だけ有難く受け取っておきましょう。私こそ、記憶を失っている間アストリッド殿を始め、皆さんにはお世話になりっぱなしでした。今度改めて、しかるべきお礼を致します」
「そんなの全然気にしなくていいのにー」
「いえ、そういう訳にはいきません」
折り畳んだハンモックを手に、苦笑交じりに薄く笑う。
珍しく見せるフリーデリーケの笑顔に、アストリッドがつい目を奪われていると扉を叩く音と、「アストリッド様、お客様です」とヤスミンの呼びかける声。
「え、誰でしょう??夕食時に来るなんて、さてはヤスミンさんが作ったゴハンを狙いに!」
「……んなわけねーじゃんよー、半陰陽のねーちゃんと一緒にすんなってば」
何でもかんでも食に結び付けるアストリッドの思考回路に呆れるズィルバーンの言葉と、廊下から響く忙しない足音、次いで、「あぁ……!ちょっと待ってください!!」と、慌てふためくヤスミンの声が重なった。直後、壊れるのではと心配になるくらい、扉を力強く叩く音が飛び込んできた。
ノックした者を邸内に通したであろうウォルフィの、「落ち着いて下さい」と小さく窘める声までが扉越しに聞こえてくる。
ウォルフィが敬語を使って話す者など、フリーデリーケ以外では彼しかいない。
「あぁ……、何をそう焦っているのか知りませんけどどうぞ入ってきてください」
入室の許可が下りると同時に扉が開く。
(2)
室内の照明を受けて白金の髪は輝いていた。
前髪を下ろし、ワイシャツにベスト、ベストと同色のサスペンダー付きズボンという私服姿は軍服姿の時よりも随分若く見える。
平時の、温厚だが威厳溢れる佇まいは微塵もない。息を弾ませ、緊張と焦燥で頬や口元を引き攣らせる余裕のなさ。
呆気に取られるアストリッドやヤスミン、ズィルバーンに「いきなり押しかけて申し訳ない」と一言口早に言うと、ぎこちない割りに早い足取りで同じく呆気に取られているフリーデリーケの傍に真っ直ぐ進んでいく。
「閣下、一体何事ですか」
リヒャルトが間近にまで迫ると、フリーデリーケは戸惑いも露わに目を丸くする。問いには答えず、リヒャルトは無言でズボンのポケットから黒の天鵞絨素材の小箱を取り出す。
見上げてくるフリーデリーケの群青の双眸を怖い程真っ直ぐに見据え、告げる。
「一五八回目の正直だ。私と」
「お断りいたします」
皆まで伝えきるよりもずっと早く、容赦のない台詞にばっさり切り捨てられる。
「……一応は最後まで話を聞いてくれないか」
「最後まで聞いたとしても私の答えは変わりません」
さっきまでの意気込みはどこへやら。肩をがっくり落とし、弱々しげに嘆くリヒャルトをフリーデリーケは冷たくあしらった。
いつもであれば、これで打ち切りとなる。そう、いつもであれば。
「『元帥の理想が実現された暁には考えなくもない』と、君は言っていた。軍事と魔法が調和し、民間人との完全共生にはまだ遠いかもしれない。しかし、実現への道は切り開かれてきた。それでも駄目なのか??」
食い下がるリヒャルトに反論がするかと思ったが、フリーデリーケは唇をきつく引き結び、固く閉じてみせた。
拒否の代わりに黙秘の姿勢を取るつもりらしい。負けじとリヒャルトはたたみかける。
「命令を行使さえすれば、君の口を割るのは赤子の手をひねるよりもたやすい。だが、今は上官としてではなく一人の男として聞いているんだ」
引き結ばれた唇の端がだんだん引き下がっていく。
眉を顰め、耐えるような厳しく難しい顔付き。彼女を知らない者が見れば、身の内の激しい怒りを押し殺すかのように見えるだろう。
けれど、この場にいる全員、彼女のをよく知っている。
怒っている訳ではない、非常に困惑しているのだと理解していた。
「私は……、もう若くはありませんし貴方とは身分が違います。ギュルトナー家から必ずや猛反対を受けるでしょう」
「あ、口挟んですみませんけど、その心配はないですよー」
諦めたように呟いた言葉に、リヒャルトよりも先にアストリッドが反応した。
「ゴードン様と奥様は常々、リヒャルト様の妻女はポテンテ少佐のような女性がいい、むしろ、ポテンテ少佐が妻女になってくれればいいのに、と、よく自分にぼやいてました」
寝耳に水といった体で驚き、フリーデリーケからアストリッドに視線を移すリヒャルトに向けて、アストリッドはへらへらと喋り続ける。
「えー、だって、ここだけの話!と口止めされてましたから、って、今、バラしちゃいましたけど、あははー。もちろん、お二人の真の関係については一切気付いてませんからご安心を!っていうかー、リヒャルト様が少佐にぞっこんらぶーなのはよーく分かりましたけど、少佐のお気持ちはどうなんですー??って、んがくくく」
「あんたはこれ以上喋るな。元帥と少佐の問題だ。外野は黙ってろ」
調子に乗って、とっくに廃れた死語を発しては余計なお喋りに移行し兼ねないと、ウォルフィはアストリッドの口を塞いで羽交い絞めにした。
軽妙な空気に支配されかけたのが一転、室内はしんみりと重いものへと切り替わっていく。
「ポテンテ少佐。……いや、フリーデリーケ」
気を取り直し、今度はもう二十年近く、士官候補生時代でも片手で足りる数でしか呼ばなかった名前で呼びかける。
フリーデリーケは、ぴくり肩を震わせて目を見開く。一瞬の後、挑むように、それでいてどこか恐る恐るといったように、再びリヒャルトを見上げ、閉ざしていた口を開く。
「……閣下は、とっくにご存知かと思いますが」
「記憶が元に戻ったとはいえ……、その間の記憶は何一つ忘れていませんから」
「では、なぜ!」
合点がいった顔をしたかと思えば、今にも肩を掴まんばかりに身を乗り出すリヒャルトに、溜め息が零れる。
「僭越ながら……、自惚れも甚だしいですが、閣下の暴走を諫められるのは私以外の他に誰がいるでしょうか??結婚となれば私は退役を余儀なくされます。職務中の閣下の御身を、家でただ案じるだけの身になど到底なれません。ですから」
「でしたら、少佐の信頼に値できるだけの者を、リヒャルト様の副官に任命すればいいじゃないですか」
「アストリッド殿」
ウォルフィに抑えつけられていた筈のアストリッドがまたしゃしゃり出て、もとい、二人の間に割り入ってきた。彼女の後ろでは、ウォルフィが仏頂面で歯型がくっきり残された右手をぶらぶら振っている。
「と言っても、少佐と同等の戦闘力に忠誠心、自己犠牲心を持てる人は、まぁ、ぶっちゃけ皆無ですよねぇ……」
唇に人差し指を押し当て、うーんと唸ること数秒、パァン!と大きな音で手を打ち鳴らす。
唐突な仕草にヤスミンとズィルバーンはびくぅ!と飛び上がった。
「いっそのこと、うちのウォルフィならどうですか?!少佐には及ばないかもしれませんが」
「シュライバー元少尉を??ですが、彼は貴女の……」
「無論、ただでリヒャルト様にお貸しする訳にはいきませんよ??条件はあります」
「条件??」
表情を引き締め、身構える二人に出したアストリッドの条件は、奇しくもリヒャルトが密かに考えていたことと、一致していた。
じゃあ、最もらしい口実が必要ですねぇ、その口実さえあれば、と、嬉々とするアストリッドを尻目にウォルフィが、フリーデリーケに決定的な一言を耳打ちした。
「ポテンテ少佐」
「何かしら」
「守るべき者がいた方が、閣下の無茶な捨て身行動に歯止めを掛けられるかもしれません」
「…………」
言葉こそフリーデリーケに向けたものだが、視線は眉尻を下げて心配げに事の成り行きを見守るヤスミンに注がれている。
彼が言わんとする意味を察し、フリーデリーケはまた口を噤み、俯いて逡巡しだした。
「ウォルフィ、たまにはいいこと言うじゃないですか!やるぅー!」
「あんたは黙ってろ」
何度目かの応酬を繰り広げる主従に構わず、リヒャルトも何度目かにフリーデリーケと向き合う。フリーデリーケがリヒャルトを見上げるのも、もう何度目か知れない。
窓の外はとっくに夜の帳が降りていた。カーテンが開いたままの窓から覗く暗闇が、たった一度だけ、彼女から告げられた言葉を思い出させる。
己は明確な言葉として伝えたことがあっただろうか。否、ない。
『契約』に負い目や責任を感じている訳じゃない。
皆無という訳でもないが、もっと根源の部分、そして、最も大事な言葉。
深呼吸をする。
薄青と群青が互いにぶつかり合う。
今、この時に伝えなくては。
「フリーデリーケ。十八年間、君を想い続けていたし、離れていた五年間も君を忘れられなかったんだ。私の伴侶は君以外考えられない……、ずっと、好きだった。だから」
私と結婚しよう。
開かれた小箱と、箱の中で光り輝く銀の指輪、穏やかに微笑むリヒャルトと、視線を何度も、何度も往復させた後――
僅かにはにかんだフリーデリーケが「
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