第116話 Ray of Light(7)
(1)
テラスから中庭へと抜ければ、整然と群生するクロッカスが眼前に現れた。
煉瓦で作られた正方形状の広い花壇は左右対称に二列ずつ並び、黄色と白、薄紫と白、紅紫と薄紫、薄紫と黄色と花壇ごとに配色が分かれている。
ゆるやかに吹く微風が肌に心地良い。
背が低く地面すれすれに咲く花々が凪ぐ風で揺れる。近隣に植樹された樹々の枝葉も揺れる。新緑の瑞々しさ、木漏れ日の暖かさにも安らぎを感じる。
「綺麗ねぇ……」
カシミラを乗せた乳母車をゆっくりと押しながら花壇の周囲を歩く。
ヤスミンの一、二歩後をアストリッドとルドルフがついて歩く。
イザークの出方次第で一触即発になり兼ねない緊張の中、この中庭だけは別世界のように穏やかだ。
この平穏さはいつまで保たれるのか。擡げてくる不安を心の奥底へと強引に落としていく。
心中の不安の影が(無理矢理)消え去るのと入れ替わりに、轟音に近い羽音が近づいてくる。音と共に大きな黒い影が頭上に拡がる爽やかな青空を覆う。
影の正体を探るべく空を見上げてみる。
明るい陽射しを浴び、全身の鱗を翡翠色に輝かせたシグムント・ゲオルグ地上ヘと降り立つ途中だった。
「あ、フリーデリーケさん」
先程自分達が通った、テラスから中庭に続く階段を下っていくフリーデリーケの姿を目に留める。フリーデリーケもヤスミン達に気付き、傍に近付いてきた。
「あら、ヤスミンさんとアストリッド殿。カシミラちゃんとお散歩??ルドルフまで一緒なの」
フリーデリーケの問い掛けに応えようとしたところ、ちょうどシグムント・ゲオルグが彼女の傍らへと降り立った。
拡げた翼を背に戻すやいなや、周囲に自生する雑草をむしゃむしゃと食みだす。
その姿は成長途中の幼体で小柄なせいか、竜というよりも大型の馬のようだ。
「少佐はシグムント・ゲオルグのお世話ですかー??」
「世話という程のことでもないですが……、亡きクレヴィング少将達に虐げられていた影響がまだ残っているので、外へ出した時に万が一軍服を着用した者を襲わないようにと、見張りを兼ねているのです。まぁ、閣下と私で躾け始めましたから、大丈夫かとは思うのですが……」
事務的で淡々とした語調とは違い、フリーデリーケがシグムント・ゲオルグに送る眼差しや硬く鋭い背びれを避けつつ背を撫でる仕草も、あくまで優しさを湛えている。
「シグムント・ゲオルグは賢いですね。ちゃんと花壇のお花と雑草を区別して食べて……、って……」
飼い主が自分以外の別の生き物を構うのが面白くなかったのか。
それまで大人しくしていたのが一転、ルドルフが背を低めた姿勢で緑竜に向かって唸りだした。背を低めて耳を下げ、ぼわんぼわんに膨らんだ尻尾を地面に叩きつけるように振っている辺り、相当機嫌を損ねている。
シグムント・ゲオルグはというと、初めて目にする人間よりも小さな生き物に興味津々。草を食べるのを中断し、ルドルフに鼻先を近づけていく。心なしか紅眼が嬉しそうに輝いている。
鼻先を寄せてくる未知の巨大生物への怯えと怒り。
ルドルフはフシャアァァ―!と威嚇の声を上げ、シグムント・ゲオルグの鼻面にバシン!と猫パンチを一発お見舞いした。
「駄目よ、ルドルフ!」
ヤスミンとフリーデリーケの叫び声が重なった。
きゅうぅ、と小さく悲鳴を上げるシグムント・ゲオルグを尻目に、ヤスミンは慌ててルドルフを抱き上げる。
しかし、当のルドルフは素知らぬ顔。叩いたばかりの長い鼻先に顔を擦りつけさえしている。
シグムント・ゲオルグは混乱しながらも、ルドルフによる『お前より自分の方が目上で偉いんだぞ』アピールを大人しく受け入れていた。正確に言えば、訳も分からず受け入れるより他がないといった体だが。
「あはは、まだ子供なのにシグムント・ゲオルグは本当に賢いですねぇー。体格差を理解してるのか、あえて負けてあげるんですから」
「……ドキドキした。ルドルフってば、もう……」
「シグムント・ゲオルグがおっとりした性格なのが幸いしたわね……」
緑竜と猫との逆転劇(?)――、ほのぼのと言うより、何事も起こらなかったことに一同がホッと胸を撫で下ろす中、中庭に駆け込んでくる荒々しい足音が和やかな空気を打ち破った。
「ポテンテ少佐!半陰陽の魔女殿!!」
「何事なの」
微笑さえ浮かべていたフリーデリーケの顔付きが一瞬にして切り変わる。
兵士の報告を聞き終わるや否や、表情は更に固く厳しいものに。
フリーデリーケだけではない。アストリッドもヤスミンも表情を凍り付かせていた。
「ヤスミンさん、今すぐカシミラちゃんとルドルフを連れてリーゼロッテさんの元へ戻りなさい!アストリッド殿は私と共に、取り急ぎ元帥閣下の許へ!」
フリーデリーケに投げかけられた言葉で我に返った二人は、色を失くした顔色で大きく頷いてみせた。
(2)
開いた時同様、乱暴に閉められた扉の音が室内に大きく反響した。
たった今告げられた報告に衝撃を受けている二人には、気にも留めないどころかどうでもいい程に些末なことでしかないけれど。再び降りた沈黙は先程とは比べ物にならないくらい、重々しく沈鬱なものだった。
シュネーヴィトヘンは口許に手を宛がい、思案げに俯き。ウォルフィは唇をきつく噛んでシュネーヴィトヘンから徐に視線を逸らしている。
窓から室内に漏れる陽光は場違いなまでに明るかった。
「……貴方は、知っていた、の……??」
しばらくして、ウォルフィを見上げながらシュネーヴィトヘンが問い質す。
懐疑と怯えを含んだ上目遣いにどう答えたものか。
珍しく考えあぐねるウォルフィの一挙手一投足見逃すまい、これから告げる内容の一言一句聞き漏らすまいと、シュネーヴィトヘンは目を、耳を、じっとそばだてる。
『暴動が発生し、デモ集団が元帥府に向かって行進しているのです!』
『そいつらがデモを起こした原因は』
『それが……、半陰陽の魔女様の父親が暗黒の魔法使いというのは真実か。それを知った上で国軍は事実を隠蔽していたのか。隠蔽していたならば、先日のギュルトナー元帥閣下の声明は茶番ではないのか。我々国民にはっきりと真実を示せ、と』
『…………』
『デモ集団を封じるために兵を動員させましたが……』
『武力でデモ集団を制圧したとしても、国民の不信と反感は大きくなるだけだろう』
『はい……。ですから、中央軍上層部の緊急会議にアストリッド殿を招集したく……』
『アストリッドなら俺の娘達と中庭にいる筈だ』
『はっ!了解!!』
ウォルフィも彼と共にアストリッドを探しに行くべきなのかもしれない。
しかし、シュネーヴィトヘンをたった一人だけ置き去りにするのが不安で仕方なく、断腸の思いでこの部屋に残った。
一人にした隙を狙い、イザークが何を仕掛けてくるか。
それだけでなく、報告内容への弁明も行わなければ。
彼女もまた、「真実」を知らない者の一人なのだから。
「……あぁ、知っていた」
「……そう……」
なぜ黙っていたの、と責められるかと覚悟したが、意外にも納得したように短く返されただけだった。
「……言われてみれば、あれだけの力を持つ方だもの。正直な話、腑に落ちたわ」
言い方だけ捉えれば皮肉に聞こえかねない。
だが、声色から失望、嫌悪といった負の感情は一切含まれていなかった。
「……すまない」
「なぜ謝る必要があるの??主が公にしていない情報を従僕が明かす訳にはいかないでしょう??例え家族に対してだって」
「……」
「きっと、あの男との血の繋がりを誰よりも認めたくないのはアストリッド様ご自身じゃないかしら」
鋭い指摘を発した唇を、見開いた右眼で凝視する。
シュネーヴィトヘンは苦笑交じりに軽く肩を竦めてみせた。
「これまでのアストリッド様の働きを思えばこそであって、あくまで私の勝手な想像よ。彼女があれ程までに国に尽力するのは、贖罪――、ご自身が犯した母殺しの罪、その母マリアが犯した大罪に加えて、あの男の悪魔のごとき所業の数々を償うためじゃないのか、って」
「……お前には敵わないな」
今度はシュネーヴィトヘンの方が黒曜石の双眸を見開いた。
まさかウォルフィから褒め言葉――、に近い発言を受けるとは思ってもみなかったのだろう。
「ただね……」
ここでシュネーヴィトヘンは言葉を切った。
ウォルフィは怪訝そうに顔を覗き込むが、結局彼女は口を噤んだままだった。むしろ、言えなかった。
『贖罪について常日頃考える自分だからこそ共感と理解ができただけかもしれない。でも、そうじゃない、只人から見たら――。……人は己と立場が違う者、取り分け、異端に対しては攻撃的になりがちだから』
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