第93話 Burn the witch(2)
(1)
西日に照らされた銀杏の葉が歩道へと舞い落ちる。
無数の落ち葉が散乱し、埋め尽くす石畳の上を二つの影が長く伸びた。
カサカサと落ち葉を踏みしめて二つの影は足早に歩く。
小さい方の影はしきりに振り返っては背後を窺っていたが、大きい方は我関せずと先を進んでいく。
「ねぇ、パパ。ここで一旦止まってアストリッド様を待った方がいいんじゃないの」
小さい方の影、ヤスミンは立ち止まり、後ろを、もう何度目かしれない――、振り返った。大きい方の影、ウォルフィもまた足を止めてヤスミンを振り返る。長い腕には食料品が詰め込まれた茶色い紙袋を二つ抱えている。
「必要ない。市場でヴルストの匂いにつられ、買い物そっちのけで勝手に消えるのが悪い」
「でも」
「腹が満たされるまであいつは戻ってこない。待っていたら日が暮れるどころか夜になってしまう。初秋の今は日没も早いからな」
「確かに、そうだけど」
ウォルフィの言い分も理解できるが納得はできないようで。
「行くぞ」と促されてもヤスミンの足は前へ踏み出そうとしない。
「やっぱり先に帰るのは気が引けるわ」
ヤスミンの頑固さは自分か
街路樹の間から差し込む光で薄茶の長い髪は金茶色に、真っ白な頬をほんのりオレンジ色に染めながら。逆光の眩しさでしばたたせる右眼に映った娘は寂しそうに微笑む。
「どんな状況でも、相手が誰であっても置き去りにするのが嫌なの。私自身がそうだから」
「…………」
へへへ、と、無理に笑ってみせるヤスミンにウォルフィは返す言葉がなかった。
ハイリガーに大切に養育されていても孤児だった境遇に加え、シュネーヴィトヘンの件はヤスミンの心を深く抉り、癒えることのない傷として残っている。
普段の明るい笑顔と態度の裏側に隠していた本音、それでもほんのごく一部だろう、を改めて思い知らされる。
シュネーヴィトヘンの火炙りが決定したのはすでに二カ月近く前。
リントヴルムの死刑は可決から半年後に執行されるため、彼女に残された命はあと約四カ月。
その間にせめて一度くらいは面会させてやりたいが、死刑囚との面会は法的な血縁者でなければ許可されない。ヤスミンの戸籍は、母親の欄が空白のままだ。
「……分かった。お前の言う通り、アストリッドを待とう」
ウォルフィの返事にヤスミンの表情がパッと晴れる。通り雨が過ぎ去った後の青空みたいな笑顔に、ウォルフィがそっと胸を撫で下ろした時だった。
少し離れた後方、おそらくは同じ通りから。ガサガサと落ち葉を踏み鳴らし、二人が佇む方向へ駆けてくる音が聞こえてきた。
音が近づいてくるにつれ、ぜぇぜぇ、はぁはぁと、乱れた荒い呼気が混じりだす。
「…………みぃーつ、け、たあぁぁぁ!!…………」
「遅い」
華奢な身体を九の字に折り曲げて呼吸を整えるアストリッドに、ウォルフィは一言、冷たく言い放つ。
「どうせ市場で散々買い食いしていたのだろう」
「ち、違いますぅ!今日に限っては何も食べてませんっ!」
「じゃあ何していたんだ」
軍法裁判の尋問役のような鋭い目線と詰問。
身体は折り曲げたまま、アストリッドはウォルフィを見返す。
赤茶色の前髪が額にさらりと落ちる。
「焼き立てヴルスト買って食べたかったのに、財布が消えてたんです!」
「どこかに落としたのか」
「いーえ、そういうことじゃなくて」
「はっきり言え」
「財布役の貴方、ウォルフィの姿が見えなかったから!食べたくても食べられなかったんです!!」
盛大に頬を膨らませるアストリッドに、ヤスミンはぽかんと口を開けて絶句し、隣に立つウォルフィを見上げた。ウォルフィはうんざりしたようにヤスミンに向けて頭を振ってみせる。
怒りが一周回って呆れに変化し、閉口せざるを得ない。軽く眩暈すら覚えながら、どう罵倒、もとい、叱責するべきか。
停止する思考を巡らせるウォルフィの気などそっちのけで、「もう!二人共いくら仲良し父娘だからって、自分を仲間外れにしないでください!!」と、胸の前で腕を組み、ぶんむくれている。
「アストリッド様、も、申し訳ありませんでした!」
アストリッドの不貞腐れ振りに気が咎めたのか。はたまた面倒臭くなってきたのか。ヤスミンは(少女にしては)長身を竦ませ、軽く頭を下げた。
「あぁ、ヤスミンさんには怒ってませんから安心してくださいねー。隣の白髪隻眼の根暗でドSな従僕に怒っているん……」
文句を言い切る前に、細身の黒いレザーパンツを履く長い脚が伸びてくる。
エンジニアブーツの靴底で腹を蹴られる直前、アストリッドはひょいと飛び下がった。
「暴力はんたーい!」
蹴りが空振りに終わり、突き出した脚を歩道に下ろすウォルフィはチッと舌打ちをする。勢いをつけて下ろしたせいで落ち葉が足元で低く舞う。
「可愛いヤスミンさんに嫌われますよー??」
「…………」
二人の様子をハラハラと見守っていたヤスミンに気付くと、ウォルフィは気まずそうに背を向ける。
「さっさと帰るぞ。説教は屋敷に着いてからだ」
早足で歩き始めたウォルフィの後に続き、ヤスミンは慌てて小走りで、アストリッドはイーッ!と歯を剥きだしてのろのろとついていく。――ついていこうとしていた。
ぐごごごごぅぐぅ―
ぎょろぎょろぐぅ―
「な、何、何の音……」
悪魔召喚の詠唱を彷彿させる不気味な低音に、不安も露わにヤスミンは振り返る。
しかし、後ろにいるのはアストリッドのみ。
前を行くウォルフィも音など気にせず歩き続けている。
空耳かしらと首を捻りつつ、前を向く。
ごぉるごぉるるるる―
ぐぎゃぎゃごごぉう―
うごぉうごぉうううー
ごぉごぉごぉおおお――
ぎょぎょぎょごぉ――
「もう!さっきから何なのよ!!気持ち悪い音!!」
もう我慢できない!と、顔中を不快に歪めてヤスミンは叫んだ。
娘が珍しく上げたヒステリックな叫びに、ウォルフィはようやく足を止める。
「ねぇ、パパ!パパも気付いているでしょ!?」
「……あぁ……」
嫌悪で鼻先に深い皺を刻み、腕に縋りついてくる娘の姿に、ウォルフィの口元がほんの僅かに緩みかける。
「安心しろ、ヤスミン。あの音は」
「あの音は何!?」
「……アストリッドの腹の音だ」
ヤスミンの手がウォルフィの腕からするすると離れていく。
強く吹き出した秋風に煽られ、扇の形の葉が宙に舞い乱れた。
ヤスミンがゆっくりと振り返った先には、バツが悪そうに笑うアストリッドの姿が。
「えへへ……、自分の腹時計、かなり耳障りな音ですみませんー」
「い、いえ……!」
ヤスミンは何度もぶんぶんと頭を大きく振り、胸の前で両手をしきりに振った。
知らなかったとはいえ、自ら発した失言を大いに悔やみながら。
「そうだ、ヤスミン。お前が気にすることじゃない」
「……ウォルフィに言われると、何か腹立つんですけどー」
「勝手に言ってろ」
豹柄フロックコートの裾を翻し、再び歩き出すウォルフィと、空腹を報せる奇怪な音を平坦な腹から響かせるアストリッドに挟まれ、ヤスミンは頭を抱えたくなってきた。
太陽の半分以上が地平に沈み、辺りには夕闇が迫っている。
フリーデリーケとズィルバーンは彼らの帰りを屋敷で待っている。
ならば一刻も早く屋敷で帰らなければならない。
けれど、アストリッドの腹がこれだけ鳴るというのは相当に空腹で、だんだん哀れに思えてきた。
「ねぇ、パパ。私もお腹空いたし、休憩がてら適当なお店に入って軽く食べようよ」
「ヤスミン」
「ヤスミンさん!」
眉間に皺を寄せるウォルフィと、鳶色の瞳をキラキラと輝かせたアストリッドが同時にヤスミンを注視する。
同じ色の片眼を強請るように見つめればウォルフィは小さく呻き、黙ってしまった。怯まず、尚も見つめていると。
「……ヤスミンの分は支払うが、あんたは自腹だ」
そう言い捨てると、ウォルフィは靴先で落ち葉を蹴って歩き出す。
「この通りを真っ直ぐ南へ歩けば、カフェやパブが軒を連ねる飲食街に入る」
「パパ!」
「自腹ぁ?!ドケチ!!」
後に続くヤスミン、アストリッドそれぞれの高い声に反応することなく、ウォルフィはただひたすらに先を急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます