第62話 Sullen Girl(3)
(1)
窓辺に佇み、窓の片側分のカーテンを半分だけ開ける。手に掴んだカーテンで身を隠すようにしながら、格子窓も少し、開ける。元いた場所と比べ、吹き渡る風も降り注ぐ陽光も、この地のものは暖かい。
頬や髪を撫でる風と日差しが心地良く、目を細めて深呼吸を繰り返していると、どこからともなく楽隊が奏でる賑やかな音楽が流れてきた。
(そう言えば、この時期、中央では規模の大きな祭りが開催される、と、聞いたな……)
「……祭りか……」
祭りなど、ほんの子供の時分――、九〇年近く前に一度だけ、出掛けたきりだ。
残雪が溶け切らない北の地の春。
遅い日の出によるまだ薄暗い朝。
僅かばかりの硬貨を握り締め、兄姉達と一緒に北の大都市へと向かう幌付きの荷馬車に乗り込む。でこぼことした不安定な埃道を、ガタガタと大きく揺られて進むこと数時間。到着した先は、噴水がある円形の池や幾つかの銅像を中心とした、大きな広場だった。
噴水の池を囲むように多くの露店が軒を並べ、食欲を刺激する匂いがそこら中にぷんぷんと漂っている。朝から何も食べていなかったため、すぐにぺしゃんこの腹から空腹を報せる音が鳴った。
早く、早く!何か食べようよ!!と兄姉達にせがめば、仕方ない、と言いたげに露店へと連れて行ってくれた。
生まれて初めて食べた、クラップフェン。
揚げたての油の香ばしさ、カリカリとした食感。
中にたっぷりと詰められた、アプリコットジャムは舌が蕩ける程に甘い。
お金がなくて買い物はできなくても、普段の生活ではお目に掛からない品物や光景を眺めるだけでも、充分楽しくて。こんなに、わくわくと胸が湧き踊ったことなどあっただろうか。
『また、来年もここに行きたいなぁ』
少女の、ほんのささやかな願いが叶う事は、二度となかったけれど――
「エヴァ様ー、あんま人目につくような行動は……」
「煩い。ほんの二、三分程外気に当たりたかっただけだ」
チッと忌々しげに舌打ちし、背後で心配そうにするズィルバーンを振り返る。振り返りざま、左手で窓とカーテンを閉めるのも忘れずに。
エヴァの悪態に、ズィルバーンは特に気を悪くする風でもなく、ふへへ……と、間の抜けた笑みを浮かべた。ほぼ寝たきりの廃人状態だったのがベッドから起き上がり、憎まれ口を叩くまでに主が回復したのが心底嬉しいのだ。
少しずつ心身が回復し始めたエヴァは、引き続きヘドウィグの自宅に匿われ続けている。回復次第、憲兵に身柄を突き出すものだと、エヴァもズィルバーンも覚悟を決めていた、にも関わらず。
シュネーヴィトヘン同様エヴァも反逆罪を犯した逃亡犯であり、北部からの逃亡を幇助し、あまつさえ長らく匿っていることが知られでもすれば――、ヘドウィグとて重罰を下されるというのに。加えて、エヴァはヘドウィグに強い憎しみを抱いているというのに。
(……放浪の魔女は一体、何を考え、企んでいるのか。分からん、全くもって分からんな……!!)
自分への罪滅ぼし――、にしては、過分すぎるにも程があるのでは。
もしくは、以前語っていたように本気でエヴァに自らを殺して欲しいのか。
どれだけ世話になろうと、ヘドウィグへの殺意が胸中から消え去ることは決して有り得ない。今でも、隙をついて――、と、無意識に機会を窺ってしまうことが正直、何度でもある。
一方で、庇護者を失えば必ず我が身も破滅するのが目に見えるし、認めたくはないが、僅かながらに芽生えた――、と言っても、空中に霧散する塵屑程度だが――、ヘドウィグへの温情等により行動に出るのを躊躇し、衝動的な殺意は押し留められていた。
手首から先を失った右腕を、左手でぐっと握り締める。とうに塞いだ筈だというのに、胸元に残る無残な刀傷痕がじくじくと痛みだす。
この、不甲斐ない状況と、消えない傷の元凶となったディートリッヒに対しても、完全に憎み切るに至れていない。
そうかと言って、リヒャルトに討たれて命を落としたと聞かされても、怒るでも悲嘆に暮れるでもなく、反対に胸がすく訳でもなく――、我ながら驚くほどに全く何の感慨も受けなかった。
窓を閉めても尚微かに漏れ聞こえてくる音楽に耳を傾けながら、エヴァは力無くベッドの脇に腰掛けたのだった。
(2)
「……はあぁぁぁぁぁーん……」
吐息を漏らす、悩ましげな憂い顔にどきりとさせられるのも一瞬の事。
口から魂でも抜け出てきそうな、死人と見紛うくらいに生気を失った顔つきで、アストリッドはバタン!と机上に突っ伏した。
「うぎゃん!!」
余りに勢い良く突っ伏したせいで、机に山積みされた大量の魔法書が雪崩を起こし、アストリッドの頭上に見事に直撃した。
「ちょっ……、勘弁してくらさいよほぉぉー」
最早呂律すら上手く回っておらず、頭に乗っかった魔法書を押しのける気力すら、ない。
しばらくの間、ぐったりと微動だにせず、机に伏せていると。ふっと、急に重たかった頭上が軽くなった。
のろのろと身を起こせば、ウォルフィがアストリッドの上に乗っかっていた魔法書を無言で拾い上げているところであった。
「わぁ、ありがとうございますー!さっすが、ウォルフィはよく気が利きますねぇー。えへへー、折角だからー、お礼にほっぺにちゅーでも……」
ゴスッ!!
「うぎゃん!!何するんですか?!はっはーん……、さ・て・は、照れてるんですねー。ウォルフィの照れ屋さんっ、このこのぉー……、って、ぎゃん!!」
魔法書で頭をぶっ叩かれたのにも懲りず、重ねて揶揄うアストリッドに、ウォルフィは容赦なく再び魔法書の角を頭頂部に叩き落とした。
「下らんこと言ってないでさっさと仕事をしろ」
目尻に涙を浮かべて非難まじりに睨むアストリッドを、ウォルフィは冷たく見下ろしている。アストリッドの瞳から見る見るうちに生気が失われていき、死んだ魚のような虚ろなものへと変化していく。
「ふふふふ、えへへへへ……。ウォルフィに言われなくても分かってますとも……、ええ、分かってますって……」
「…………」
「これでもですねぇー……、試験問題の大半は作成できたんですよぉー……??でも、ね……」
アストリッドの鳶色の双眸がカッ!!と大きく見開かれ。
右手に震えが生じる程に拳を強く握りしめ、頭上へと高く掲げた。
「あとの残りをどうしようか、煮詰まって先に進めないんじゃいっ!!!!」
「威張るな」
イザーク達によるゾルタール襲撃事件と、ヤスミンが中央へ向かった次の日、アストリッドとウォルフィも中央へと戻った。どのみち、諸々の出来事が発生しなくても、魔女の国家試験で出題する試験問題作成等、準備をしなくてはならなかったからだ。
そのため中央に戻ってから二週間近く、アストリッドは自宅から一歩も外へ出ずに試験問題の作成に勤しんでいた。
「大体、あんたが出題する問題内容はやたらと引っ掛けが多すぎるんだ」
「だってー、誰でも簡単に合格できてしまう内容じゃ、ダメじゃないですかー」
ウォルフィの言う通り、アストリッドの作成する試験問題は色々と紛らわしい。
『一〇通り並べた水属性の魔法陣の図から、三番目と八番目に効力の高いもの、四番目に効力の低いものの番号を選びなさい』
『二〇通り並べた火属性の詠唱文の内、三つを除き全て間違っています。正解である詠唱文の番号を抜き出しなさい』
「……ウォルフィは分かんないかもですけどー、魔法を使う者は多少なりともひねくれた思考が必要とされるんですよ……」
「なら、泣き言垂れずにさっさと取り掛かれ」
依然、机に突っ伏し、ヤダヤダヤダとごね続けるアストリッドに、ウォルフィはさも面倒臭そうに言い放つ。
「夕食はあんたの好きなキャセロールを作ってやる」
「キャセロール!!」
アストリッドの目がキラーン!!と一際強く輝き、シャキーン!!と姿勢をしっかりと正して机に向かい始める。
「ウォルフィ!!牛肉たっーぷりでお願いしまっす!!いいですか!!大事なことなので二回言います!!牛肉を」
「諄い、一回言われれば分かる」
全ての魔法書を机に置き直すとこれ以上絡まれたくないからか、ウォルフィはアストリッドの私室から出て行こうと――
「あっ、待ってください!!」
まだ用があるのか、と言いたげに振り返ったウォルフィに、「あの、明日、元帥府に出掛ける予定があるのですが……」と、やや歯切れ悪くアストリッドは告げた。
「勿論、あんたに付き従うつもりだが」
「そ、そうですか……」
「言っておくが、ヤスミンの元に会いに行くつもりはないからな」
「…………」
「あんたはともかく、俺と会ってまた動揺させる訳にいかないだろう。試験も迫っていることだし」
「そう、ですね……、って、あ……」
これ以上話をする気はないと示すように、アストリッドが止める間もなく、今度こそウォルフィは部屋から出て行ってしまった。
静かに閉じられた扉を見つめながら、アストリッドは目を伏せて項垂れる。
「……どこまで意固地なんですか……」
ヤスミンの名を口に出した時、部屋のの小窓、厳密に言えば外へと一瞬意識を向けた癖に。
窓越しから遥か遠く、元帥府がぼんやりと微かに見えることくらい、アストリッドが知らない筈がなかった。
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