第57話 Every Single Night(16)

(1)

 

 鋼の如く、太く固く黒い剛毛を逆立て、五十の頭部を振り乱しては地の底まで届きそうな唸り声を上げ続ける。獲物を狙うべく姿勢を低くしたケルベロスに怯え、重機関銃を構えていた兵士の中には戦闘放棄しかける者、恐怖に耐えて踏み止まる者、逃げようとする者を制止する者と、士気が乱れ始めていた。

 その上階の窓では、ケルベロスの赤く光る眼球に狙いを定め、ウォルフィがライフル型の魔法銃を休む間もなく連射し、ハイリガーも詠唱しながら光弾で眼球を撃ち抜いていく。眼球を潰された頭部の幾つかが悲鳴を上げ、まだ撃たれていない残りの頭部は威嚇し、咆哮する。

 口を大きくこじ開け、激しい地鳴りを伴う咆哮と共に唾液が飛散し、城門の石壁のあちこちに付着。唾液に含まれる猛毒で濃灰色の石壁はどす黒く変色し、石と石の繋ぎ目からは鶏の鶏冠の形に似た薄紫色の花、鳥兜が発生した。

 益々怯む兵士達に追い打ちをかけるように、ケルベロスは後ろ足で二、三度地を蹴り上げ、城門に向かって猛突進してくる。窓際で攻撃を仕掛けていたウォルフィとハイリガーは、ぐったりしたアストリッドの襟首や腕を掴んで引きずりながら奥へと素早く下がり、咄嗟に石柱の陰に身を隠した。


 どぉぉん!!と城門全体が激しい揺れに見舞われる。


 ケルベロスが激突したせいで辺りに土埃が舞い上がり、天井壁からぱらぱらと石の欠片が降り注いでくる。視界を遮られ、充満する黴臭い臭気が鼻や咽頭に絡みつき、げほげほと咳き込む。ケルベロスのそれぞれの頭部は窓に鼻先を突っ込んだり、城門の外壁に齧りついたり前足を掛けて引っ掻いたりと、好き放題暴れ回っていた。


 先程と同じく柱の陰から目に狙いを定めて攻撃を続けるものの、振動が収まらない上に猛毒を含有する唾液を避けながらのため、思うように仕留められない。黒い森の鎮火を行いたくとも、この状況を打破しなければどうにもならない。

 こうしている間にも――、ウォルフィも、ハイリガーも焦りばかりが募っていく中、依然、アストリッドは正気を失ったままでいた。








(2)


「ねぇ、半陰陽の魔女。貴女は僕とマリアをエゴの塊だと忌み嫌うけれど、自分とて同じではないですか。自らの自由と引き換えに実母を殺したのだから」

「…………」

「アストリッド。実の親じゃない他人なんかが、特異な力と身体を持った貴女を真に認め、受け入れてくれるとでも思っていたの??」

「…………」


 小馬鹿にした物言いをするイザークにも、案じるように優しく諭すマリアにも。

 アストリッドは無言を貫き通し続けている。


「マリアの死後五十年、貴女はずっと国民の為、マリアに代わって贖罪し続けていますが……。一体それが何になるというのですか。貴女の、ただの自己欺瞞に過ぎないではないですか。国にとっての英雄にでもなり崇められたいのですか」

「…………」

「アストリッド。今貴女の傍に居てくれる人達も所詮は貴女の強大な力を必要としているだけであって、貴女自身を愛している訳じゃないのよ」

「…………」



 両親の言葉を聞き流しながら、アストリッドの脳裏に浮かんできたもの。



 処刑も覚悟の上で犯した大罪を免罪し、贖罪と新たに生き直す機会を与えてくれた、ゴードンの深い皺に埋もれた険しい表情。

 幼少期から何のてらいもなく素直に慕ってくれ、立場が逆転した現在ですら命を下す時どことなく申し訳なさそうな、リヒャルトの柔和なアイスブルーの瞳。

 不肖の両親に対し遺恨を抱いているのに、『あいつらはあいつら、アスちゃんはアスちゃんで別物』と、何かと親身に助けてくれるハイリガーの明るい笑顔。


 

 そして――



 顔立ちは悪くない筈なのに、目付きが悪すぎるが故の犯罪者顔で――

 超が付く程の堅物で、根暗で全っ然可愛げがなくて――

 何かと口煩くて下手すれば拳骨を落としてくるか蹴りを入れてくる暴力野郎で――


 だけど、何だかんだで一番頼りになる――


 

 を始め、現在己の周囲を取り巻く人々の顔が次々と浮かび上がるにつれて、好き勝手語りかけてくる両親への苛立ちは頂点に達していく。

 アストリッドは蹴倒すようにして椅子から立ち上がった。



「……例え、国民から忌み嫌われようが罵倒されようが、周囲の人々が自分を本心ではどう思っていようが、別に構いませんね。自分はただ、持って生まれた力を誰かの為に有効活用できればいいし、どんな理由があるにせよ傍にいてくれる人達を大事にしていきたいだけ。無駄??自己欺瞞??結構ですとも。少なくとも、己の都合で人を傷つけてばかりいるお前達にだけは干渉される筋合いはありません。それに……。今、自分は……、無性にヴルストが食べたくて仕方ないんですよ!!!!だから、そこをどけぇぇぇ!!!!」


 裏返った大声で叫ぶと同時に、アストリッドは両腕を真っ直ぐ伸ばす。

 拡げた両掌をイザークとマリアに向け、二人の等身程の大きさをした赤い光弾を撃ち放った。


「マリアはすでに死んだ!!イザークも姿を隠している!!過去や幻影になんか惑わされない!!でも、ヴルストの匂いは……、間違いなく本物!!!!だから、四の五の言わずに、食べさせろぉぉぉー!!!!」















 赤い光弾の眩さに思わず目を閉じ、そろそろ収まっただろう頃合いを見計らい、目を開ける。



「……あれ??……」


 アストリッドはしぱしぱと何度も目を瞬かせた。


「何で、自分は今、こんなごつごつとした石壁に囲まれた空間に……??しかも、なぜに床??らしきところに転がっているのでしょう??」


 頭が状況に全く追いつけない。すぐ傍の石柱の陰に隠れながら勝ち誇った顔つきのハイリガーが、不機嫌な顔して閉口するウォルフィが、床に伏しているアストリッドを見下ろしていた。


「あのー……、つかぬ事をお伺いしますが……、ヴルストは??」

「……あんた、それしか頭にないのか」

「アスちゃん、ごめんねぇー。貴女を目覚めさせるために、焼き立てヴルストの匂いのイメージを意識に流し込んだだけなのぉ」

「……うえぇぇぇぇー、そんなあぁぁぁ―」

 半身だけ起こしながら、アストリッドは徐に肩をがっくりと落とした。

「あ、でもぉー、あれを何とかしてくれたら、お礼で幾らでもヴルスト食べさせてあげるわん」

「それならやるやる!めっちゃやりますー!!って、あれって何ですか??」


 立ち上がったアストリッドは、ハイリガーが指先で指し示す方向を辿り、「あれ」を意味するところを確認する。ケルベロスが城門の窓という窓に黒い鼻先を突っ込み、強靭な牙で外壁に齧りついている。


「なーんだ、そんなの簡単ですよ!」

「えぇっ?!」


 意外な言葉に驚くハイリガーと、無言で片目を瞠るウォルフィに、アストリッドはイザークとよく似た類の不敵な笑顔を、口元に湛えてみせた。

 石床に掌を翳し、灰色の光を放射させる。足元には、山のように大籠に積まれたシュトーレンが出現。

 アーモンドやドライフルーツが生地に練り込まれ、表面に粉砂糖がふんだんにかけられた大量の菓子パンの登場に、ハイリガーとウォルフィは唖然とさせられるばかり。取り分けウォルフィは怒りすら覚えていて、ふざけてるのか、とアストリッドに掴みかかりそうになるのを堪えている。


「実はですねぇ、ケルベロスって甘い物が大好物なんですよー」

 ウォルフィの心中を知ってか知らずか、アストリッドは籠の中からシュトーレンを何個か手に取ってみせる。

「うっひゃ、砂糖で手がべとべとする……。で、ウォルフィ、マドンナ様!このシュトーレンをケルベロスに投げ与えて下さい!!」

「シュトーレンを与えることで奴らに何が」

「見てのお楽しみです」

「…………」


 言うやいなや、アストリッドは窓に鼻先を突っ込んでいるケルベロスの頭部の一つに近付いていく。半信半疑ながら、ウォルフィとハイリガーもアストリッドに倣い、シュトーレンを二、三個手に取って彼女の後に続く。焼き立てパンの香ばしい香りと甘ったるい匂いが混じり合い、辺りにぷんと充満する。

 シュトーレンの甘い匂いにつられたのか、ケルベロスは壁に押し付けるようにして鼻先を、舌を中に更に深く突っ込んでくる。

 垂れ流される毒性の唾液がかからないように細心の注意を払い、アストリッドはケルベロスが大きく開け放した咥内へとシュトーレンを放り投げる。アストリッドに続き、ウォルフィとハイリガーも各々が別の頭部へシュトーレンを投げ与えていく。

 ケルベロスはそれまでの凶暴さから一転、狂喜し、蛇の尾をぶんぶんと振り乱してシュトーレンに勢いよく食らいついた。

 まるで小さな子犬のような無邪気さに、ウォルフィとハイリガーが拍子抜けしていると。シュトーレンを食べた順から、ケルベロスの瞼がとろんと下がっていき、徐々に動きが鈍くなっていく。


 残りの頭部にシュトレンを投げ与える作業は二人に任せ、アストリッドは先程から気になっていたこと――、窓からちらりと横目で垣間見た遠くの光景――、炎に包まれる黒い森。


(……雨雲よ。今すぐ空を覆い隠し、雨を……)

 

 大雨を降らせる魔法を発動させようと、アストリッドが念じた時。

 地上を照らす太陽の光も青い空も、全てが一瞬で暗闇に覆われた。







(3)


 炎を粗方鎮火させた後、シュネーヴィトヘンは超巨大水竜を一瞬にして消失させた。まだ残り火がそこかしこで燻ってはいるが、その内自然と消えていくだろう。

 成す術もなく状況を見守っていたヤスミンは、改めて周囲の様子をぐるりと見渡した。


 焼け焦げた木々は煤で黒く変色し、すっかり身を細らせてしまった。黒く痩せた枝の先を伝い、大粒の水滴がぼとん、ぼとん、と落ちていく。煤に塗れて黒くなった葉は千切れ、ハラハラと風に流されて地に落ちていく様が哀れに見えて仕方がない。

 絵の具で塗ったような、はっきりとした美しい青空の下だからこそ、大部分が焼け野原と化した森の惨状が非常に痛ましく思えてくる。

 原因であるロミーは、相変わらずしゃがみ込んだまま俯き、ぐずぐずと鼻を啜って泣いている。


 胸が痛くて堪らない。

 ヤスミンは目を伏せ、焼けてしまった森からも泣いているロミーからも視線を逸らす。 その時、自分達を囲んでいた薄緑色の光が、ふっと消失した。

 それが合図かのようにヤスミンは顔を上げ、自分の前に立つシュネーヴィトヘンの背中におずおずと語りかけた。


「あの……、マ、マ……」

「…………」

「守って、くれて……、ありがとう……、ございます……」

「…………いらないから捨てた子にママなんて呼ばれたくないわ…………」

「……え……」


 背中を向けたままヤスミンを拒絶する。

 瞬時に固まるヤスミンを気に留めるどころか一切見向きもせずに、シュネーヴィトヘンはロミーの元へと足早に近づいて行く。


「私はこの娘を連れに来ただけ。この娘が貴女達と一緒になって焼け死のうとしたから、止めに入っただけの話よ」

 ロミーのすぐ傍に立つと、シュネーヴィトヘンは短く詠唱する。

 しゃがんでいたロミーは意識を失い、横倒しで地面へと倒れた。

「待って……!ロミーに何を……!!」


 悲痛な声で叫ぶヤスミンと無言で銃口を構えるエドガーを、ここで初めてシュネーヴィトヘンは振り返った。二人を見透える黒曜石の美しい双眸は、無感情で怜悧な光を宿らせるのみ。


「鎮火したんだから、さっさと城へ戻れば??」


 冷たく言い放つと、シュネーヴィトヘンはワンズの先端を素早く二人に差し向け、もう一度詠唱する。たちまち二人の身体は虹色の光に包まれ、この場から消え去っていく。

 二人の姿が消えるのを見届けると、シュネーヴィトヘンは地に膝をつき、気絶するロミーをそっと抱き起こそうとする。


「…………これでいいのよ…………」


 長い髪で顔が隠れているため表情は確認できずとも、微かに震わせた声色が彼女の心中を表していた。


『何と素晴らしい!!やはり、母親というものはこうでなくては!!!!』


 シュネーヴィトヘンの隣が虹色に強く光り輝き、盛大に手を叩く音と大仰に称賛する声が光の中から響いてくる。


「……本気でそう思ってるのかしら??」

「えぇ、勿論ですよ、リザ様」

「だったら、ヤスミン――、娘――、には、これ以上手出ししないで頂戴。ロミーという娘の身柄は確保したのだし」


(無理だというなら、刺し違えてでもこの男を……)


「別に構いませんよ。貴女の娘を手中に収める以上に面白いものが沢山見れましたから」

「…………」


 あっさりとシュネーヴィトヘンの言葉に従おうとする男、もとい暗黒の魔法使いイザークは、口元を歪めてニヤニヤと笑う。地に横たわるロミーと、膝をついて見上げるシュネーヴィトヘンを。

 見下ろされるのが癪に障ったのか、すっと立ち上がったシュネーヴィトヘンは不信も露わに彼をじっと見返した。


 青空と、佇む二人の間を、風に流された黒い灰が擦り抜けていく。


「そんな目で見ないでくださいよ、リザ様。美しき血塗れの白雪姫を敵に回してまで、あのヤスミンとかいう娘に固執する気はありません」

「…………」

 嗤うイザークに不信の視線を送り続けるシュネーヴィトヘンは、長らく胸中で抱き続けていた疑念をぶつけにかかる。

「貴方は一体何が目的なの。何の意味もなさない、国を乱してまで、質の悪い騒動を繰り返すのは……」

「言っておきますが、僕は富や権力、国の支配などには全く興味ありませんから」


 シュネーヴィトヘンが皆まで言い終わらぬ内に、イザークははっきりと語気を強めて言葉を遮った。


「しいて言うなら、賭けがしたいのです」

「賭け??」

「えぇ……。僕の遊びにどこまでリントヴルムの人々が持ち堪えられるのか。僕が遊びに飽きるのが早いか、国が滅びるのが早いか、という……、ね??」

「なっ……」


 悪い意味で予想を遥かに裏切る答え。シュネーヴィトヘンは絶句するより他がない。呻くように喉を鳴らし、さりげなくイザークの傍からじりじりと後退するシュネーヴィトヘンに、イザークの歪んだ笑みが益々深くなる。


「……ナスターシャは、知っている、の……??」

 ようやく唇から発せられたのは、小さな子供のような拙い口調での問い掛けだった。

「えぇ、勿論です。ナスターシャ様は全てご存知ですよ」

「そんな、理由にならない理由で……、あのやり手の雌豚が従うとは、思えないけど」

「おやおや、美しいお顔に似つかわしくない、口汚い言葉は使わない方がいいですよ??」

「余計なお世話よ……」

「困った白雪姫ですね。僕が言ってるのは本当ですよ??ナスターシャ様は、愚かで脆弱な人間風情や力があろうと不器用な性格揃いの魔女達では僕を倒すことなど到底無理だろう、と判断されたのです。僕についた方が確実に生き延びられるから、と。いやはや、あの方の、生に対する執着心は相当なものですよ!五十年前の魔女狩りの時も、生き延びるために多くの同胞を軍に売り渡したあげく拷問に加担していたのですから。未だに罪の意識の欠片もなく、全てなかったかのように振る舞う強かさは、まさに魔女の鏡!本来、魔女とはあのようでなくてはならない!!僕は、ナスターシャ様の、ああいった部分がとても気に入っているのです」

 両腕を大きく広げ、ナスターシャへの賛辞を大袈裟に語るイザークの芝居掛かった動きに、シュネーヴィトヘンはただたじろぐばかり。

「あぁ、貴女のことも勿論気に入っていますよ、リザ様。ご自身で己の首を絞め続け、雁字搦めになっていく、どうしようもなさがね……、何とも堪りませんねぇ」

「……気色悪いわ……」


 イザークからの侮辱に、身体の横に付けた両腕が自然と拳を形作り、怒りで震えをきたし始める。やはり、この男を――、と、攻撃魔法の詠唱しようと口を開きかけた時だった。


 空気を鋭く切り裂くようにして、二人の間を一本のダガーが擦り抜けていく。


 ダガーは二人から少し離れた後方、煤に塗れた樹に突き刺さった。

 ダガーが飛ばされてきた方向を確認すると――


 黒いボディスーツの上に黒いローブを纏い、顔の半分以上、鼻から下を黒いスト―ルで覆い隠した長い黒髪の、恐らくは女――、もとい、密偵の魔女イーディケが両手にダガーの柄を握り締め、二人と対峙していたのだ。



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