第52話 Every Single Night(11)

(1)



  ――約三百年前――




 渓谷を睨み上げる形で建てられた黒く頑強な大門の最上に立ち、眼下に広がる街を一望する。埃混じりの湿った強風に煽られる真っ赤な長い髪を鬱陶しげに掻き上げ、自らの唇をぺろりと舐め上げる。

 髪と同じ色の赤い瞳に、加虐的な好奇心を滲ませながら。


 気が遠くなる程昔――、いつの時代であったか、自分自身でも忘れてしまった――、サキュバスに化けたインキュバスが適当な男と交わり、元の姿に戻るやいなや、当時のリントヴルム、否、リントヴルムの前身にあたる国の王の寵姫と夢で交わった。結果、サキュバスの姿で交わった男の精を寵姫に放ち、あろうことか寵姫は懐妊してしまった。

 王にも寵姫にも似ても似つかない、血のように赤い髪と瞳を持つ美しい赤子。

 姦通罪により寵姫は処刑され、赤子は王城地下深くの牢に幽閉された。

 だが、赤子から幼子、少年へと成長するに従い、彼の中で少しずつ変化が訪れ始める。


 彼は幼い頃より他の者には見える筈のない者――、悪魔の実体を肉眼で捉えることができた。

 悪魔達の方もそんな少年に興味を持ち、面白半分で彼に近付いては話しかけ、時には魔力を与えさえした。まるで自分達で仲間を育てるかのように。

 やがて、人間達からは何一つ教えられていない筈なのに、彼は並々ならぬ知性と魔力を兼ね備えた青年へと変貌、ついには地下牢からの脱出に成功。

 抑えることのできない、あくなき自らの欲望を満たす為、故国を含めた周辺の各国を転々と巡っては、人々を奈落の底へと突き落として楽しんでいた。

 更には、愉しみを悪魔達に横から邪魔されたくないがため、こちらから召喚しない限りは人間の世界に足を踏み入れられないよう、地獄と人間世界の境目を魔法で塞いでしまったのだ。


 以来、彼は心置きなく、自らの欲望を好きなだけ発散し続けている。


 今回、彼が目を付けたのは、リントヴルム西部国境沿いの街マンハイム。

 他の国境沿いの街と違い、西の隣国カナリッジとリントヴルムは友好的な関係のお蔭か、長閑で至って平和な、安定した街である。

 だからこそ、穏やかさの中での僅かな不穏さを見つけ出せたら――、さぞかし楽しいことだろう。


 箱詰めされた林檎の内、たった一つが腐っていたことで他も次々と腐っていくのか。もしくは、その一つだけが取り除かれ、捨てられてしまうのか。

 どちらの結果を迎えたとしても、彼が楽しむことができるのなら構わない。

 唇をいやらしく歪めて笑うと、彼は街中へ向かうため、大門最上部から軽やかな動きで階下へ飛び降りたのだった。 


 国境沿いの街とはいえマンハイムは西部の中核都市の一つなので、道行く行商人の数が多く、幌のついた荷馬車も行き交っている。

 昔ながらの、木や瓦葺の屋根をした木造住宅も多少は見掛けるものの、木造の骨組を外部に露出させ、その間を石や煉瓦で埋め込んだ形の住宅が街並みの大多数を占めている。

 荷馬車や通行人でごった返す大通りをするすると擦り抜けていくと、段々と道幅は徐々に狭まっていき、それに伴って人通りも家も少なくなっていく。代わりに、道の両端に等間隔で植樹されたリンデの木々が、彼を待ち構えていたかのように並んでいる。

 木陰に入ると益々風に勢いと湿り気は強まっていく中、彼の視界に美しく輝く黄金が飛び込んできた。


 黄金の正体は、彼の目の前に立つ少女の長い巻毛であった。

 十四、五歳くらいだろうか。曇天の鈍い日光が反射し、上質の金糸を思わせるゴールドブロンドが目に眩しい。

 濁りのない、榛色の瞳が特徴的な、天使のごとき清らかな美少女は、彼に向かってにっこりと微笑みかける。美貌とは裏腹に、地味でみすぼらしい服装、手には厚みがえらく薄い羊皮紙を握りしめていた。


「こんにちは。明日の午後、教会で定例のミサを行います。よろしければ参加してみませんか??」

「…………」


 少女は微笑んだまま、彼に羊皮紙、もとい、特別なミサとやらの開始時間や教会の場所が記された紙を手渡してきた。

 なるほど、この少女は教会が面倒を見ている孤児の類か、などと考えていると、紙を差し出す手がひどく荒れていることに気が付く。家事労働などでできる手湿疹やあかぎれのみならず、細かい擦り傷の痕までが白い手に残されており、見るも痛々しい。

 天使と見紛う美貌に似つかわしくない荒れた手。ここで彼はある可能性に思い至り、少女に気付かれない程度にほくそ笑んでみせる。


「定例ミサ、ですか。生憎、僕は無神論者でしてね。第一、神を信じ、敬ったところで救われるだなんて、馬鹿馬鹿しいとすら思っているのですよ」

 彼はせせら笑い、受け取りかけていた羊皮紙を少女に突き返した。

「まぁ、そんな罰当たりな考え方ではいけません!神を信じて己を正し、人の為に善行を行うことで魂の穢れが落ちていきます。魂の穢れが落ちることが一種の救いなのですから」

「ふっ……、そんなもの……。美徳に陶酔しているだけの、ただの自己満足に過ぎませんよ。貴女が勝手に行う分には構いませんが、押し付けるのは勘弁して欲しいですねぇ」


 少女に、自分の前から消え失せろ、とばかりに、掌をひらひらと振って追い返す素振りを示す。少女も、これ以上は何を言っても無駄だろう、と察したのか、踵を返して彼の前から去っていく。

 去り際に彼女の長い髪が風に攫われて舞い上がり、白い項が露わとなる。染み一つない、きめ細やかな肌には、虫に刺されたよう痕が二、三残っていた。生々しいまでの赤色を目にした途端、先程の可能性が確信に変わっていく。


 今度の標的はあの娘に決めた。


 盲信する神の存在などないのだと知らしめ、どこまであの清廉さを保っていられるのか、試してやろうではないか。


「街へ来て早々、格好の獲物と出会えるとは何と幸先が良いのでしょうねえ」


 込み上げてくる笑いを堪え切れず、彼――、暗黒の魔法使いイザークは、口元を両手で覆っては笑いを噛み殺そうと必死になっていた。




 翌日の午後――、小さな教会で行われた定例ミサの最中。

 祭壇の前で祈りを捧げていた、神父の身体が突如として炎に包まれた。


 原因不明の人体発火。



 この日を境に、あの美しい少女――、マリアの運命は少しずつ狂い始めていく。









(2)


  シャツのボタンを留め終わり、だらしなく腰まで下がっていたズボンをよいしょと引き上げ、男は後ろのベッドを振り返る。

 ベッドの上では、若い女――、まだ少女の域を出ていない――、が、のろのろと緩慢な動きで下着を身に付けていた。


「じゃあな、マリア。また来るよ」

「ありがとうございます」


 額や頬にかかる、乱れた長い金の巻毛の下から、マリアは柔らかく微笑んでみせる。情事の後で見せるにしては清々しい笑顔。

 男は一瞬何とも言えない気持ちに陥り、さっさと部屋を出るべく扉の傍まで歩いて行く。そう広くない室内では数歩歩いただけで、すぐに扉に辿り着く。

 板張りの床は男が足を一歩進めるごとにギシギシと、扉を開けば、ギィィと軋んだ音を立てる。扉が完全に閉まったのが確認されると、マリアは祈りを捧げる形で両手を組んだ。今日の稼ぎを得られた感謝を、神に捧げるために。


 半年前、定例のミサの最中、養父である神父の身体が突然自然発火し、教会が火災に遭った。

 幸いにも神父以外に死人は出なかったものの、神父の妻は残された孤児達の中でマリア一人だけを娼館に売り飛ばした。

 見知らぬ男達に弄ばれる日々。清廉なマリアにとっては耐え難い――、かと思いきや、彼女の心は至って平穏そのものであった。

 両親をなくして教会に引き取られてからというもの、マリアだけに課せられた、夜更けに神父の部屋で待ち受ける『説教』。

 マリアが『説教』される度、翌日は決まって神父の妻から陰で行われる折檻。

 ここを追い出されたら、まともに生きてはいけないと分かるだけに、数々の耐え難い仕打ちにひたすら耐えるしかなかった。


 でも、神を信じ善行を行い続ければ、いつかきっと……と、願い続けたお蔭で、マリアは辛い日々から逃れられた。きっと神様が私を憐れんで下さったのだ。

 娼婦の仕事は決して楽なものではないけれど、マリアから一方的に奪うだけだった神父と違い、客達は金という対価をきちんと支払ってくれる。

 また、仕事や家庭で堪った彼らの憂さを、微力ながらマリアの身体で晴らしてあげていると思えば、これもまた善行の一つだとも考えられる。だから、マリアは自分の元へ訪れる客一人一人を心からの笑顔で受け入れられた。

 生来の美しさに加え、気立ての良さや床で見せる細やかさなどから、マリアは見る見る内に店の一番人気へと成長。まだ新参者のガキのくせに、と、店の娼婦仲間から苛められるけれど、懸命に生きていれば、神様はきっと私を救ってくださるのだと。

 マリアは強く、強く信じては疑わずにいた。


 着替えを済まし、順番を待つ客を出迎えにマリアは部屋を出て、階段を下りていく。一段、また一段と下りていくごとに、ミシミシと音が鳴る。

 最後の一段を、跳ねるような足取りで降りると、「丁度良いところにきた」と店主が声を掛けてきた。


「お前の、次の指名客を部屋に案内しようと思っていたところだよ」


 マリアに向かって店主は客の男を見るよう、顎をしゃくって促した。

 客は、真っ赤な長い髪と瞳を持つ、大造りな顔立ちの美しい青年だった。


(……この人に見覚えがあるような……??)


 小首を傾げ、青年を訝しげに凝視するマリアを、店主は男に見惚れていると勘違いし、「マリア、ぼさっとしていないでさっさと部屋へ案内しろ」と、すかさず注意を促した。


「ひゃっ、す、すみません」

「いえ、お気になさらずに」

 青年は慌てるマリアを、くつくつと愉快そうに笑ってみせる。

 が、すぐに店主を振り返り、「少し、彼女を外へ連れ出しても構いませんか??お金なら後でちゃんと払います」と、尋ねた。

 店主はやや躊躇してみせたが、「お金なら幾らでも払うつもりですから」と、青年が畳みかけると態度を一変。

「どうぞどうぞ、気が済むまで連れ回してくれてもいいですよ」

「では、遠慮なく。さぁ、参りましょうか、姫君」


 青年が気取った口調で手を差し出すと、マリアは遠慮がちに手を取った。

 人を食ったような笑みを口元に浮かべるのを目にしたマリアは、半年前に出会ったあの青年だとようやく思い至る。


「やっと思い出したのですか」


 思わずぎょっとなり、青年の顔を見上げ、穴が空きそうな程凝視する。

 青年の笑みは益々深くなり、口元のみならず頬や目元までもが緩んでいく。

 美しさも相まって、酷く嗜虐的な笑みにどことなく居心地の悪さを覚えながら、彼に肩を抱かれて店を出ていく。

 夜の帳がとっくに降りたというのに、路上で馬鹿騒ぎする酔っ払いや客を引こうと科を作る街娼達のかしましい声が辺り一帯に響き、歓楽街は喧騒と活気に満ち溢れていた。その中を、青年はマリアの手を引いて颯爽と歩き続ける。

 特に行く当てもなさそうな足取りに、マリアの不安は募っていく一方だ。


「あの……、もうそろそろ店に戻った方が」

「もう二度と戻る必要はありません」

「え??」


 青年は一旦立ち止まり、軽やかに呪文めいた言葉を一言、口にした。


「おや、魔法が使われるのをみたのは初めてですか??」

「貴方、一体何を……」

「貴女が店に戻らなくてもいいように仕向けただけですよ。貴女は、ただ黙って僕についてきてくれさえすればいいのです」


 青年は無理矢理彼女を連れ去るかのように、ずんずんと歩みを進めていく。

 マリアは彼に連れられるがまま店からどんどん離れ、歓楽街からすらも離れていく。


 ここで彼の手を振り払い、店に走って逃げ帰らなければ。

 頭では理解しているのに、青年に付いて行く足取りが恐怖で震えをきたし、一歩進むごとにもつれて転んでしまいそうなのに。


 ひょっとしたら、彼は、神様が与えてくれた、自らへの救いかもしれない――、なんて、甘すぎる期待を抱く自分が心の片隅に、確かに存在しているのだ。

 さながら、窮地に陥ったお姫様を颯爽と助けにきた王子様に違いない、と。


 酷く夢見がちで少女趣味な願望なのは百も承知。

 万が一、青年がマリアに危害を加えるなり何なりするつもりであったなら、運が悪かったのだと諦めるだけの話。

 どんな理由にせよ、彼が自分を必要としているのは事実なのだから。

 青年の速すぎる歩調に必死についていきながら、マリアはある種の覚悟を決めたのだった。


 一方、同じ頃、マリアが働いていた娼館では、店主の身体から突然炎が発生、燃え移った炎は娼館ごと焼き尽くしてしまっていた。 


(夢見がちな君がどこまで甘い戯言を言っていられるのか。力がないから戯言に縋っているのか、力を持ってもその志が変わることがないのか。力を与えてやるから、是非とも僕に見せてもらいたいものですね)


 こうしてマリアはイザークの弟子に迎えられ、彼の予想以上に優秀な魔女として成長。

 純粋で素直な性格が功を奏してか見る見る内に力を身に付け、国で禁止されている禁忌魔法すらもイザークの換言に乗せられ、次々と覚えていく。

 イザークの目論見に一切気付くことなく、彼に畏敬の念を抱き、一人の男としても愛するようになり――、そして、二人が出会ってから約百年後。マリアはイザークの子を身籠った。通常、魔女と魔法使いは魔力を得るのと引き換えに生殖能力を失う、というのに。


 奇跡中の奇跡と呼べるマリアの妊娠を知ると共に、イザークは彼女の前から失踪した。絶望に深みを持たせるため、時には甘い蜜を与え――、例えば、十年に一度くらいは会いに行き、すぐにまた姿を消す――を何度も繰り返した。

 父親になるなど気がないのは勿論、一人取り残されたマリアが子を護る為なら矜持を捨て去るだろう、その姿を遠くから眺めて楽しんでやろう、と。


 希望と絶望の両極を何度も行き来していく内、マリアはイザークへの深い思慕の念を我が子アストリッドへの愛情へと擦り返るようになり――、イザークの予想通り、マリアは少しずつ変わっていくのであった。


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