第29話 Shadow Boxer(3)

(1) 


 無限に拡がる白銀の原野。

 橙と薄紫が混ざり合う夕方の空模様。

 センフェン山の峰より高く、降り注ぐ細雪。


 名匠の風景画を思わせる美しい情景に、一点の染みが影のように映り込む。

 その染みは人間――、若い女の形をしていた。


 女は着ていた黒い衣服を引き裂かれ、ほとんど裸に近い状態で雪の中に埋もれている。散々甚振られたのか、顔だけでなく全身に掛けて無数の痣や擦り傷が残っている。出血も酷く、剥き出しの青白い肌は女のものではない、様々な体液で汚されていた。


 見開いたままの榛色の瞳には何も映らない。

 寒さすらも最早感じられない。


 女が少女だった頃も雪の中で死を迎えかけていた。

 しかし、その時は幸運にもセンフェン山の麓で暮らす魔女達に命を救われた。

 そして魔女の住む集落で暮らし続け、自らも魔女と化した。かつての自分のような弱き者を助ける為に。


 だが、時代はそれを許してはくれなかった。




『エヴァ!この魔法書を持って逃げるんだよ!!』


 魔女狩りと称し、北方軍に連れ去られる仲間を背に魔法書を手に逃げた。

 逃げた、逃げた、逃げた、逃げた、逃げた――、逃げたつもりだった。

 まさか別動隊が潜んでいたなんて。


 女が何をされたのか、など、今の姿を見れば一目瞭然。

 左程魔力が高くない魔女の場合、凌辱の末に雪の中に放置され、凍死させられるのは珍しい話ではない。これ以上ない恥辱に塗れ、仲間も魔法書も奪われた。


 感覚を失い、寒さで凝り固まった指先に力が籠る。

 榛色の瞳に少しずつ生気が戻り、やがて怒りと憎悪の色に満ちていく。

 全身を蝕む痛みを堪え、呻き声をあげてはゆっくり時間をかけて身を起こす。

 更に時間をかけて、何度もよろめきながら立ち上がる。


 自分が弱かったから、仲間も自身の身も守れなかった。

 そうだ、力が、力が欲しい――


 次第に吹雪へと変わり始めた薄闇の中、女はボロ雑巾のような身体に鞭打ちながら、一人歩き始めた。











(2)


 リントヴルム各地に建つ城や宮殿の多くの地下には、他国の捕虜や不始末を仕出かした身内、不義や姦通で生まれた者を監禁する為の地下牢が設けられている。この氷の宮殿も例に漏れず、地下牢が存在していた。

 氷漬けの鉄格子と壁に囲まれた、七帖程のそう広くない空間には、粗末な寝台が置かれているのみ。薪ストーブ等暖房器具のない、氷点下の室内の床に直に座らされているのは、長い銀髪の妖艶な美女、放浪の魔女ことヘドウィグだ。彼女の膝の上には長方形型の氷の塊を何枚も乗せられ、手首を後ろ手に鎖で縛りつけられている。

 美しい顏は寒さと疲労で色を失い、ぽってりした唇も瞳の色と同じく青紫色に変色しているものの、ヘドウィグは平然とした表情を崩さない。その眼前には、大鎌を手にする黒いローブ姿のエヴァ。長い髪を馬の尾のように結い上げ、寒々とした深い青色の外套を纏うディートリッヒが佇んでいた。


 旅の途中、たまたまリュヒェムから程近い寒村に滞在していたヘドウィグを、『エヴァ様が貴女に用があると仰っております』と北方軍を引き連れたディートリッヒが突然迎えに来た。

 断ろうものなら武力行使も厭わないと暗に匂わせるやり口に辟易しつつ、半ば強引にリュヒェムの宮殿に連行されたあげく、魔力封じの結界が張られた地下牢に幽閉され、今に至る。


「放浪の魔女よ!今一度問う!マリアの魔法書はどこに隠した?!」


 もう何十回目であろう、同じ質問をエヴァはしつこく繰り返す。


「何度も言わせるな、アイス・ヘクセよ。あれはとっくの昔に燃やしてしまった、と、何度言わせれば気が済むんだい」

「貴様こそ何度も同じ誤魔化しをするだけでなく、何度も私に同じ台詞を言わせるな!あの魔法書が綴られた紙は特殊な材質で、決して燃えない筈だ!!」

「あぁ、そう言えばそうだったか??知らない、どこかで落としたか、失くしたかしちまったんじゃないか??昔の話なんでよく覚えていないね、忘れたよ」


 不遜にエヴァを鼻で笑い飛ばすヘドウィグの頭上に、エヴァは大鎌の刃先を振り下ろす。が、頭頂部に切っ先が突き刺さる寸前で動きを止める。代わりに、ディートリッヒの平手がスパン!と音を立ててヘドウィグの頬を打った。


「エヴァ様。貴女がわざわざ手を汚す価値など、この売女にはありません」

「女に手を上げるとは、随分なことをしてくれるじゃないかい」

 頬を赤く腫らし、ヘドウィグはディートリッヒをきつく睨みあげた。

「黙るがいい、薄汚い淫売。お前はマリアの弟子となる前、王都で名うての高級娼婦だったらしいじゃないか」

「…………」

「どんな手管を持ってしてマリアに取り入ったのか」

「…………」


 ディートリッヒの酷薄そうな薄青の瞳に蔑まれながら、ヘドウィグは長い銀髪で顔を隠すように俯く。ディートリッヒに本来の素性を明かされたことへの屈辱……、などではない。


(……お前さん達に、マリアと私の真実の関係など、決して分かりはしない……!……)


 顔の前に垂れる長い髪の下で、ヘドウィグは唇の端を引き上げる。

 今から百年以上前、王都の片隅で行き倒れていたマリアとアストリッド母子を気まぐれで拾い上げ、当時暮らしていた豪邸に引き取ったこと。高い魔力に反し、無垢な幼子のように純真なマリアに、次第に惹かれ始めたこと。

 身一つで成り上ったものの二十代も半ばに差し掛かり、ヘドウィグ自身が今後の生活の先行きに不安を感じていたこと。

 母子共に体力を取り戻したところで、また旅から旅への生活に戻るとマリアから告げられ、『私を弟子にして欲しい。旅に同行させてくれ』と懇願したこと。魔法の修行をしながら、マリア母子とリントヴルム各地を巡ったこと。

 何十年もの間マリアを慕い続け、家族同然の生活を送ってきたヘドウィグは、マリアが世間で噂されている凶悪な魔女ではないことを誰よりもよく知っている。

 彼女はただ、どこまでも純粋で清らかで――、無知ゆえに、間違いを犯し続けてしまったのだ。


「あの魔法の書は一つ残らず、この世から抹消されるべき代物だ。だから、私はとっくにあれを手放した」

「何処へだ!何処に捨てたと言うのだ?!」


 あぁ、こ奴らは何も分かって等いない。

 己に過ぎた力など求めたところで、身を破滅させるだけなのに。

 再び口を閉ざしたヘドウィグを、エヴァはやや焦りを含んだ眼差しで見下ろした。


「……まぁ、いいさ。貴様が黙っているならば、半陰陽の魔女とシュネーヴィトヘンを締め上げてやれば、何か手掛かりが掴めるだろう。ギュルトナーに、貴様ヘドウィグの身柄を引き渡す代わりに、半陰陽の魔女とシュネーヴィトヘンをリュヒェムに寄越すよう声明を送ったのさ!そしたら、二人共素直にのこのこと姿を現してくれた」

「何だって??」

 ヘドウィグは思わず顔を上げ、エヴァの痩せこけた青白い顔を凝視する。

「お人好しの半陰陽の魔女は来るだろうと予想していたが、まさかシュネーヴィトヘンまで来るとは予想外だったがな。あの東の女狐は貴様の弟子だったし、魔法書に書かれた禁忌魔法を少しは知っているかもしれない」


 ははは、と、ヘドウィグは乾いた笑い声を上げる。

 すかさずディートリッヒから二発目の平手打ちを食らうが、お構いなしに笑い続ける。


「ロッテにはマリアの魔法の書を見せたこともなければ、禁忌魔法を教えたこともない。あの娘は何も知らない」

「お前はそのつもりでも、あの強かな女狐のことだ!お前の目を盗んで魔法書を読んでいた可能性は否定できないだろう??」


 ヘドウィグの笑い声は止まる。

 勝ち誇ったように、鷹揚に胸を反らすエヴァにきっぱりと反論できないことが悔しく、ぎりりと歯噛みする。 


「なぁ??同胞殺しのヘドウィグよ」


 『同胞殺し』と呼ばれたヘドウィグの瞳が動揺で揺れ動く。

 エヴァは見逃さず、非情にも更に言葉を畳みかける。


「貴様はマリアを裏切っただけでなく、かつて行われた魔女狩りで大勢の同胞達の居場所を軍に密告したあげく、拷問や研究所の実験に協力していた!確か、貴様は北部の研究所担当だった筈だ!!」

「まさか、お前さんはあの研究所に……」

 エヴァの、黒いアイシャドウが塗られた大きな猫目と眉が怒りで吊り上がる。

「私自身は捕縛されなかったが……、代わりに逃がしてくれた仲間達が捕われ、研究所で全員が殺された!!仲間達が捕まる中、北方軍の中に紛れて貴様があの場にいたこと、私は一生忘れてなどやるものか!!」


 どこか芝居がかったように叫び散らすエヴァを見兼ねたディートリッヒが、「エヴァ様、落ち着いて下さい」と横から宥めに掛かる。抑揚のない平坦な声の響きは、どこまでも機械的で冷たく聞こえる。


「私への復讐がしたいのか。何故、今頃になって……」

「本来ならば、貴様と知り合ってすぐにでも八つ裂きにしてやりたかったさ!だが、私は元は大罪を犯した身、まずは軍からの信用を得て警戒が薄れてくるのをずっと待っていたんだ!!それと、私は欲深な質でな。貴様への復讐も果たしたいが、マリアの魔法の書も手に入れたい、もしくは禁忌魔法の使い方を知りたいのだ!!」

「ならば、何故アストリッドやロッテまで……。関係ない者達まで巻き込むな」

 再びエヴァをきつく睨み据えるヘドウィグを、エヴァは嗜虐的に薄い唇を歪める。

「あの二人は貴様にとって大事な存在だからさ。あの二人を始末した後、すぐに貴様も後を追わせてやるよ!勿論、マリアの魔法の書に関する手掛かりを聞き出してからな!!」

「身の程知らずの愚か者め。私一人だけならまだしも、アストリッドとロッテの身に何かあれば、リヒャルトが黙っていないだろうよ」

「は!マリアの禁忌魔法の力さえ得られれば、軍などひと思いで殲滅できる!!それとも、どうしてもあの二人を助けて欲しければ、さっさと魔法書の隠し場所を私に教えろ!!」


 依然、エヴァとの睨み合いを続けながらもヘドウィグは口を噤む。

 エヴァの言う通り、愛する師マリアの遺児アストリッドも、かつての愛弟子シュネーヴィトヘンも、どちらもヘドウィグにとっては大切な者達だ。しかし、マリアの禁忌魔法の危険性を知り尽くす身としては、魔法書の隠し場所をどうしても教える訳にはいかない。

 二人には申し訳ないが、降りかかった火の粉は自身で払ってもらうしかないだろう。己自身も、例え命を奪われようとも沈黙を守り通すつもりだ。


「エヴァ様。放浪の魔女の衣服を全て剥いだ上、氷板の数を更に増やしましょうか」


 何の感情も読み取れない顔で、ディートリッヒはエヴァに告げる。

 長身といい冷たい鉄面皮といい、ディートリッヒは、アストリッドの白髪隻眼の従僕と雰囲気が似通っている。だが、かの者は一見冷徹に見えて情が深い(ゆえに流されやすくもある)一面があるのに対し、ディートリッヒの心の内は芯から凍り付いているように思う。 

 ディートリッヒの提案にエヴァはしばらく逡巡していたが、やがて盛大に舌を打ち鳴らした。


「もういい!行くぞ!ディートリッヒ!!放浪の魔女は、東の魔女も半陰陽の魔女も、私がどうしようとも構わないようだ!!」


 右手で大鎌の柄を握り、肩にもたせ掛けると、エヴァは憤然と地下牢の扉を開けて氷の廊下に出て行く。ディートリッヒも黙ってエヴァに付き従い、ヘドウィグを振り返ることなく、足早にこの場から立ち去っていった。

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