第5話(12)

 王城家の医務室は、そのまま病院が邸内にあるかのような広さだった。

医師だけでなく、看護師もいるようで、案内されている途中、2,3人それらしき人とすれ違った。

しかし、『医務室』といった印象はなく、室内の色彩も館のイメージを損なわないように造られ、今まで見てきた廊下のように、絵画や花、彫刻などが飾ってある。

壁紙の色も白ではなく、深紅と金で統一されているが、床は先程までの絨毯ではなく、リノリウム製のものになっている。

「こちらです」

担当の女医が、個室のスライドドアを指す。

「何度も申し訳ありませんが、本来なら、お嬢様は安静にしているべき身です。 くれぐれもご無理をなさらぬよう、お嬢様自身にあなたからも伝えていただけませんか?」

心配そうな彼女の言葉に、純はコクリと頷いた。

それを確認すると、女医は純に踵を返し、その場を去っていった。

残された純は、戸に手を伸ばす。

「……」

鏡のように磨かれた銀の取っ手には、深刻そうな自分の顔が映っていた。

──そこには、露わになった額の痣が映っている。

前髪を撫でつけ、怪我を隠し、純は戸をノックした。

「鳳佳、アタシ。 入るよ?」

数秒待って、カラカラと戸を開ける。

まず、目に着いたのは、向かいの壁にある大きな窓。 しかし、今はカーテンが閉められ、外の景色は見えない。

その手前……一つだけ置かれたベッドに、横たわる鳳佳の姿があった。

「……大丈夫?」

中に入りながら、純は彼女にそう尋ねた。

コクンと小さく頷く鳳佳。

「鳳佳、アタシと一緒に式典に出る為に、無理してくれたんだよね? ごめんね……」

スッと頭を垂れる純。

重力にしたがって、長髪がサラサラと流れる。

鳳佳はゆっくり、首を左右に振って、否定の意を示す。

顔を上げて、純はベッドの脇にある、丸椅子に座った。

「ちょっと喋ってもいい?」

彼の言葉に、鳳佳が頷く。

「あの──、ホントに鳳佳はなんにも悪くないから、自分を責めないでね」

じっと純の言葉を聞き入れる鳳佳。

「えっと……その──」

言いながら、次第に純の目線が床に落ちていく。

彼女に、どんな言葉を紡いで良いのやら、わからない。

「……」

どうにか思考を巡らすも、思い浮かぶのは、源道を前にして、恐怖に打ち震える鳳佳の姿。

「……」


自分は彼女に何をしてやれるだろう。


自分は彼女を変えられるだろうか。


いや、違う。


そうじゃない。


さっき瑠璃子に、純自身が言った通りだ。


変わっていくしかない。


それはわかっている。


だが、今になって、彼女にその『気持ち』があるかどうか──


(……)

聞くべきことはわかっている。

しかし、純は聞く事を恐れていた。

もし、それに対して、鳳佳が“もういい”と答えてしまったら──

鳳佳に対する、純の存在意義は失われる。

もう女性のフリをする必要もなければ、図書室で会うこともない。

もちろん、小説について話すことも──

(……なんて声をかけりゃいいんだろ)

純には、わからなかった。

いつもの彼なら、毒を吐きながらも、相手の心配を吹き飛ばすような事が言えた。

だが、今の鳳佳には、どんな慰めも逆効果に思える。

無意識のうちに、完全に俯いてしまった純の腕に、ふと何かが触れた。

「!」

それは、鳳佳の手だった。

彼女の指が、純の腕に点々と貼ってある絆創膏をなぞった。

──鳳佳が爪を立てたときの傷だ。

「ああ、これは大したことないよ」

傷を見て、再びあの時の情景が脳裏に浮かぶ。

しっかりと自分の腕を掴んだ鳳佳。

爪が食い込むほど必死だったのだろう。

立つことさえ、精一杯だったはずだ。

ふと目線を鳳佳に戻すと、当時の事を思い出したのか、瞳に涙を溜めているのが見えた。

「……鳳佳、初めてアタシとバスケした時の事、覚えてる?」

苦し紛れか、それとも意図的にか……

純は突然、過去の話を引き出した。

コクリと頷く鳳佳。

「あのときね、実はアタシ、心のどこかで上手くいかないだろうって思ってた」

苦笑しながら、純は打ち明ける。

「でも違った。 夢中になっていくアンタを見て、アタシ自身が熱くなってた」

「…」

「花火をしたときも、鳳佳が楽しめればって思ってたけど、なによりアタシが楽しかったよ」

「…」

「今回、初めて上手くいかなくて──」

一度、言葉を切る純。

「鳳佳にたくさん怖い思いをさせちゃったけど──」

純は慎重に──しかし、ほとんど感覚で喋っていた。

「アタシはこれからも、鳳佳と楽しい事をしたいし、新しい事を持ってくるよ」

「…」


ポタッ……


シーツに水滴が落ちた。

鳳佳の溢した涙だった。

「今日みたいな式典だって、いつか必ず一緒に行こうよ」

純は懸命に言葉を紡いだ。

「鳳佳のおじいちゃんのことだって、いつか──」

彼の語る間、鳳佳は静かに涙を流した。

それは、純に対しての感謝の涙か、それとも、既に諦めてしまった自分に対する絶望か……

「これからも、二人で一緒に失敗して、二人で一緒に成功させよう」

「…」

「何があっても、アタシは鳳佳のそばにいる……だから──」

──“だから、逃げないでくれ”

本当はそう言いたかったが、純は思い留まって、別の言葉を探した。

鳳佳が今回受けた『恐怖』を打ち消す言葉を──

源道へのトラウマを乗り越えて、もう一度、“やってみよう”と思ってくれる言葉を──


「……」


しかし、そんな言葉が都合良く、すぐに浮かぶはずもない。

何も言えない自分の無力さに落胆し、純が瞼を伏せたとき──

鳳佳の手が、純の手を取った。

「?」

彼の掌を、鳳佳の細い指が、そっとをなぞる。

良く見れば、彼女が“あ”と書いているのが、動きの流れで純には理解できた。


“ありがとう”


一文字ずつ、ゆっくりと書かれた『ひらがな』は、感謝の言葉だった。

しかし、果たして、この後に続くのは──

“またやってみる”という希望の言葉か。

それとも──

“でも もういい”という終焉の宣言か。

少し緊張して、純は自分の掌の上で動く鳳佳の指先を見つめる。


“でも”


と、鳳佳は書いた。

一瞬、純は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。


“あたしのせいで 純ちゃんが傷つくのは怖い あたしのおじいちゃんは ああいう人だから”


全て一文字ずつ、ひらがなで彼女が書き終えるには数分かかり、さらにそれを純が脳内で漢字に変換し、会話を理解するまで数秒かかった。

“純ちゃんが 身代わりになってくれたんでしょ?”

鳳佳の手が、純の前髪をそっと掻き分ける。

痛々しく腫れた額。

「気づいてたの?」

純がポツリと尋ねる。

鳳佳は哀しげな瞳をして頷いた。

“お医者さんに全部聞いた”

彼女の筆跡が、そう告げる。

“もうこんな事 二度と起きて欲しくない”

「大丈夫だよ! こんな怪我、全然大したことないから!」

鳳佳の消極的な雰囲気に、純は少し慌てた。

自分の身の安全を理由に、彼女に引いて欲しくない。

そう訴える彼の目を、悲しく見つめ返す鳳佳。

“あたしは純ちゃん 琴乃先生 桜井学園長 他にもいろんな人に迷惑をかけてる”

震える指先が、なおも語り続ける。

“だけどあたしはその人たちに なにも返してあげれない”

「そんなこと──」

口を挟みかけたが、彼女の指がまだ動くので、純はすぐに黙った。

“おじいちゃんの言う通り これはあたしの我が儘なの”

ここまで書き終えて、あの時の源道を思い出したのか、鳳佳は純の掌を握って俯いた。

その手を伝って、純は彼女の微かな震えを感じる。

「……」

いつものように、純の眉間にシワが寄った。

しかし、普段みせる嫌悪や疑いの表情とは違い、今は苦しさを表し、諦めの色すら見える。

やはり、今回の一件は、鳳佳の心を深くようだ。

再び、鳳佳が人差し指を伸ばす。

純の掌に綴られる文字──


“だから もういいの”


「──……そう、か」


ゆっくりと、純が目線を落とす。

ドクンドクンと緊張に激しく脈打っていた心臓は、潮が引いていくように、驚くほど静かに鎮まった。

それは、純が現実を悟った事を意味していた。

(結局、オレは鳳佳コイツを変えられないままか……)

たまたま、小説を見つけたあの日。

それを夢中で読み漁り、躍起になって作者を探した日々。

そして、桜井学園長に、鳳佳のことを頼まれたあの時。

鳳佳を前にして、協力を決断した瞬間。

他愛のない図書室での会話。

バスケ、花火、交し続けたメール……

長いようで、あっという間だったこれまでの事を、純は一つ一つ思い返していた。

しかし、その時──……


「!」


鳳佳の指が、再び動いた。

自分の掌に彼女の指の感触を感じて、純が目線を戻すと──

“もういい そう思ったんだ”

鳳佳がそう書いた。

さらに続けて、ゆっくりと綴っていく彼女の指先に、純は釘づけになった。

“なのに”

「?」

“なのに さっき純ちゃんが 一緒にって言ってくれたら そばにいるっていってくれたら”

「……」


“また頑張りたいって思っちゃった”


「……鳳佳」

“純ちゃんに迷惑かけて 心配させて 傷つけてるのに”

「……」


“やっぱりそれでも あたし 純ちゃんといたいよ”


ボロボロと大粒の涙が、鳳佳の瞳から溢れた。

“あたし最低だね ごめんなさい”

そう彼女が書いたとき──純は無意識に、鳳佳の身体を引き寄せていた。

「……最低なんかじゃない」

互いの表情は見えない。

純がどんな顔をしているのか、鳳佳にはわからなかったが、耳元で囁かれた言葉は、とても温かだった。

ときどき、彼が発する『安心感』──この小さな身体から溢れる大きな力を、鳳佳はすぐ隣で感じていた。

「鳳佳──頼みがあるんだ」

いつものように、冷静で澄み渡るような純の声。

鳳佳は彼の肩の上でこくりと頷いた。

純が告げる。


「アタシと一緒に、『学園祭』に出よう」

















 純が鳳佳と病室で面会する少し前、王城邸のとある一室に二人の人影があった。

灯りの点いていない和室の書斎で、一方の人影が口を開いた。

「『あれ』がお前の用意した『鍵』か?」

低く小さい──だが、聴く者全てを震撼させる声。

王城 源道は、腕を組み、大きな窓から月夜の中庭を眺めていた。

「ええ」

短く応えた声は、女性のものだった。

部屋の暗がりの中で、ぼんやりと見える着物姿の女性。

それは、龍嶺学園の学園長、桜井 嘉子だった。

「とても良い子ですよ。 純粋で真っ直ぐ、強く勇敢な精神の持ち主で、小柄な身体からは信じられないほどの運動能力を発揮し、成績も、上級生を含めたとしても、飛び抜けているくらい優秀です」

源道の背中に語りかける桜井。

「……」

「名前は──」

彼女の言葉を、源道は片手を挙げて制した。

「名に興味などない」

再び腕組みして、源道が続ける。

「『鍵』としての役割を果たせるかどうかだ」

「あの子なら必ずやり遂げます」

静かだが、強く言い切る学園長。

「……」

何も応えない源道。

二人の間に沈黙が漂う。

「まぁ、良いだろう。 下がれ」

源道がぽつりと言った。

桜井はさっと踵を返し、部屋の出口に向かう。

「──眼……」

微かに源道の呟きが聞こえて、桜井は立ち止まった。

「はい?」

もう一度、源道の方を振り返る。

「あの眼には、見覚えがある」

「どの眼?」

桜井がそう尋ねると、源道はしばらく黙って、

「なんでもない」

とだけ返した。

桜井はしばらく、その場に静止していたが、再び踵を返し、書斎の襖を開けて、出て行った。

その時、桜井と入れ替わりで、今度は男が書斎に入ってくる。

執事の古逸 範仁だ。

「失礼致します、ご主人様。 面会人が来ておりますが」

相変わらず、中庭から目線を外さない源道。

「何の用だ?」

「“例の案件で報告がある”とおっしゃっております」

「……通せ」

言われて、一礼すると、範仁は書斎を出ていく。

すぐにまた、書斎に男が入ってきた。

がっしりとした身体をグレーのスーツに包んだその人物は、純と琴乃がホールで出会った男。

大塚 宏一おおつか こういちか。 久しいな」

男の名前を口にしながら、源道が彼を振りかえった。

「あの……一応、『昭夫』って偽名を使ってるんで、本名を呼ぶのは、やめてもらえませんか、王城さん」

困ったように笑顔を浮かべて、がりがりと頭を掻く宏一。

源道はそれを無視して、じっと宏一を凝視する。

「そんな怖い顔せんでくださいよ。 こっちも必死で捜査してるんですから」

宏一がそう言うと、源道は表情を変えずに、目を伏せた。

「何の情報も得られなかったと言うわけか」

「……面目ない」

宏一が軽く頭を下げる。

源道は再び沈黙した。

そんな彼に対して、宏一は口を開く。

「正直な話、こんな事態は初めてでして。 我々もどこから手を付けていいやら、わかりません。 ですから、お嬢様の件──考え直した方が良いと思いますよ」

「余計な口を叩くな。 貴様に意見など、儂は求めておらん」

ぴしゃりと言う源道に、宏一は再び困ったように苦笑する。

しかし、すぐに真顔に戻ると、続けて言った。

「ここから先は、もっと予測不能な事態が待ち構えているはずです。 加えて、この国では、我々にできる事も限られる──今すぐでなくてもいい、先ほどの意見、どうか御検討願います」

今度は先ほどと違い、しっかりと頭を下げる宏一。

源道は相変わらず何も言わない。

「では、上司に報告がありますので、これにて失礼します」

頭を上げ、宏一は踵を返すと、書斎を出ていく。

「……」

源道は無言のまま、彼の背中を見つめた




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