第3話(7)
ここに来てどれくらいの時間が経っただろうと、純は携帯で時刻を確認した。
「よし、まだ全然、余裕あるな」
観客席からの階段を降りながら、純はそう呟いた。
そして、最後の一段を降り、廊下に出ようとした、そのとき──
「……?」
ドム!ドム!と、床を打つ特徴的な音がして、純の足元にバスケットボールがバウンドしてきた。
咄嗟に、いつもの癖で純はそれを拾って掌に収める。
「ヘイ!
突然、軽快な声が、廊下に響いた。
純が声のした方向をみると、壁に手を付いてもたれている人影が見えた。
「恐れ入りますが、それ、こっちに投げてもらえます?」
サッと前髪をかき上げる、男子生徒。
見たところ、背は純より高いが、バスケ選手としては恵まれていない方だろう。
しかし、その身に纏っているのは、白の地に赤色のライン──虎賀美高校のユニフォームだ。
整った顔立ちに、艶のある黒い長髪は、校則違反にならないギリギリの長さで切り揃えてある。
「……」
純は口を噤んだまま、静かに男子生徒を見据えた。
純にとって、この手の流れに良かったと思えた経験が無い。
まず、突如現れたこの男子は、純のことを『女子』だと、勘違いしている。
それ自体は今まで、何度も経験してきたことだが、やはり何度あっても腹が立つ。
丁寧で物腰穏やかな紳士然とした、彼の喋り方も癇に障った。
そして、純が何よりも気に入らなかったのは──
(コイツ、待ち伏せしてたな)
壁にもたれて、口の端で微笑みをたたえる男子生徒に対して、純は嫌悪の眼差しを向けた。
こんな暗く狭い廊下で、ボールなど使った練習など普通はしない。
そもそも、廊下でそんなことは許されていないだろう。
おそらく、さっきの試合を客席から観戦している純をたまたま発見し、試合が終わって客席から降りてくる純の元に、近くキッカケ作りとして、わざとボールを投げたに違いない。
「そのジャージ、龍嶺のだよね? 君もバスケ部の人?」
そう問われても相変わらず、純は無言を貫く。
謎の男子生徒はフッと微笑んだ。
「ねぇ、ボール返してくれないなら、力づくで奪っちゃうけど、構わない?」
壁から離れて、彼がこちらに近づいてくる。
一歩一歩、向かってくる彼の歩幅を、純は目測で測った。
(丁度いい。 ちょっと虎賀美の男バス部員で遊んでやるか……──)
男子生徒の足が、純の領域内に入る──
──!
瞬間、音も無く身を屈めて、純が動いた。
あまりの速さに、空気が揺れて風が巻き起こり、しなやかな純の髪が
虚を突かれて、男子生徒が驚きで目を見開く──
ダン!と、一度、床にボールをつき、潜り込むようにして、彼の横を通り抜ける純。
“余裕だな”と、彼が笑みを浮かべようとした瞬間──
「なかなかやるじゃん!」
「!!」
──今度は純が驚愕し、目を見開く。
相手が腕を伸ばして、彼の行く手を遮ってきた。
慌てて、純は急停止。
後退して、彼と距離を取る。
(おいおい。 まさか、今のに反応したのか?)
純は等間隔で、ボールを床につき、眉間にシワを寄せた。
その様子を見て、男子生徒は微笑んだ。
「見事な『ダック・イン』だね。 本当に消えたように見えたよ!」
腰を低く落とし、左右に手を広げ、
「君が『右利き』だって、僕が気づいていなければ、抜かれてたかもね!」
「……ッ」
彼にそう言われて純は不快そうに舌打ちした。
確かに、『右利き』の純が彼の『左側』を抜こうとするのは、当たり前の動きだった。
初見時に、この男子生徒は、純がボールを拾う仕草を見て、『利き手』を見抜いて、彼が動いた瞬間に左側を抜きに来ると判断したのだ。
──……いや、判断と言うより、これは必死でバスケを続けてきた者の『本能』や『反射』と言ったほうが正しいだろう。
「腐っても、虎賀美の選手か……」
純は呟いた。
思えば、初めに気づくべきだった。
彼は
相手は完全に臨戦態勢に入っている。
もう、不意をつくことはできない。
不規則なテンポでボールを床につきながら、純は考えた。
そして、それを見通すかのように、男子生徒は言う。
「言っておくけど、君が僕を抜くのは無理さ」
「黙れよ、チャラ男…!」
思わず、純の口から皮肉が零れる。
しかし、純の声をようやく聞けたことで、男子生徒はさらに笑顔を見せた。
「キュートな声してるのに、そんな乱暴な言葉遣いじゃ台無しだよ?」
パチッとウィンクしてみせる彼に、純は鳥肌を立てた。
「黙れっつってんだッ!」
言い終わると同時に、またも純が動く──
右に踏み出し、抜くと見せかけ、ボールを
しかし、これも対応された。
「くっ…!」
数歩下がって、
しかし、これもダメだった。
相手に覆いかぶさるように守られると、身動きが取れない。
小柄な純の体格上、覆われやすいこともあるが、この男子生徒もそこまで背丈は大きくない。
相手の
(くっそ……! めんどくせぇ体格してんな、コイツ!)
再び身体を翻して、正面から彼と対峙し、
狭く暗い廊下で、純は幾度も、幾多の手を駆使して、彼を突破しようと試みる。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
お互い、肩で息をしながら──もう、何度目か──距離をとって二人は向き合った。
「正直…女の子に…ここまで、できるとは…思わなかったよ…」
苦笑しながら、純を賞賛する男子生徒。
純はイライラと眉間にシワを寄せた。
(ネチネチ、ネバネバと、嫌なマークしやがって!)
どうしても、彼を抜くことができない。
(気に食わねぇ……が、コイツ、かなり上手い……)
ここまで来ると、もう認めざるを得ない。
意地になるのを辞めて、一度頭を冷静にし、純はまた策を考える。
その間に、また男子生徒が口を開いて喋り始めた。
「フフフ……。 確かに、君のテクニックは素晴らしい。 特に、『チェンジ・オブ・ペース』は男子の僕にも脅威的なレベルだ。 その腕前で、なぜさっき試合に出てなかったのか、不思議でならないよ」
(それはオレが男だからだ、バーカ!)
せっかく冷静になった頭で、思わず純は悪態をついた。
当然、そんなことを知る由もなく、男子生徒が続ける。
「しかし、君はあまりにも教科書通りの行動を取りすぎる。 慣れた人間からしたら、格好の餌食だ」
サッと前髪を払って、彼が微笑んだ。
(大きなお世話だ!!)
一層、眉間のシワを深くする純。
ふと、男子生徒は構えを解いて、両手を広げた。
わざわざ臨戦態勢を解いたのは、それでも十分対応できると看做されたからだろう。
「どうだい? この『虎賀美高校男子バスケ部一年生レギュラー』の僕が、君の弱点を教えてあげるよ──」
誇らしげな彼の姿に、純の頭の中で、カチンと何かが切れたような音がした。
「そうすれば、君もさらに────へぶっ!!」
“さらに──”なんなのか、彼はその先を言い損ねた。
なぜなら、純が高速で放ったチェストパスが、勢い良く顔の真ん中に直撃したからだ。
完全に不意打ちを喰らった男子生徒は、廊下に大の字で倒れた。
もちろん、通常そんなことをするプレイヤーはいるはずもない。
誰であっても、こんな仕打ちには対応できないだろう。
そして、返ってきたボールを純は当然とばかりに受け取り、床に転がる彼の横を、颯爽と通り抜けた。
「これは『教科書』に載ってたか? クソヤロー」
眉間にシワを寄せて、キツく言い放つ。
「──フン!」
そのまま、ポイッとボールをその場に残し、踵を返すと彼は歩き出した。
「イデデ……まぁ、そんな一面も、僕は嫌いじゃないけどね」
遠ざかっていく純の背中に、男子生徒は屈託のない笑顔を送る。
しかし、次の瞬間──。
「おい! お前、廊下で何をやっとるんだ!!」
自軍のコーチが、タイミング良く──いや、彼にとっては、タイミング悪く──憤怒して現れた。
そして──
「バカヤロウ!! 今すぐグラウンド50周して来い!!」
そんな怒声が、暗い廊下に響いたのだった。
一方、謎の男子生徒との思わぬ対決を終えて、純はイライラと帰路についていた。
「あ〜!イライラする! あんな、カンチガイヤローにぃ~っ…!」
結果として、勝つには勝ったのだが、あれでは気持ちは晴れない。
正当な方法で突破した訳ではないし、あそこまで苦戦を強いられた相手は、かなり久しぶりだった。
「この前も鳳佳とぶつかったし、最近、マジで身体が鈍ってるな……」
バシッと掌に、拳を打ちつけながら、純が呟く。
「まぁ、いいや。 また変なのに絡まれると面倒だ。 早いとこ、ここから出ちまおう」
夏の熱い日射を浴びながら、純は虎賀美高校の校舎を後にした。
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