脳内掃除人
「ひかるちゃん、おはよう」
あたしはびくりと肩を震わせて声のしたほうに向き直った。そこには、ニコリとあたしに微笑みかける柳さんの姿があった。
「……ぉ、はよ……ございます」
「学校まで一緒に行ってもいい?」
「!」
人との付き合い方がわからない。あたしにとって、その提案を受理することなんて容易ではない。断るべきか、しかしうまく言葉が出てこない。どうしていいか分からずただただ黙り込んでしまうと、柳さんが少しだけ眉尻を下げた。
「あ……ごめんね。急に。気が向いたら、一緒に行こうね。じゃあ、また学校でね!」
そして柳さんは、またニコリと微笑んで、駆け足で先に行ってしまった。あたしはその背中を見て、やっぱりなにも言えなかった。
* * *
昼休みにご飯を食べるような友達もいないから、あたしはいつも中庭で一人ご飯を食べる。……いや、本当は、さっき、柳さんがまたあたしに声をかけた。あの笑顔で、“お昼一緒に食べようよ!”って。でも、あたしはそれに応えることができなかった。何も言えず、逃げてきてしまった。
──彼女はなぜ、あたしに声をかけるのだろう。
根暗でボッチなあたしに声をかけるメリットなんて一つもない。彼女は友達も多いんだから、なおさら。
はじめから彼女はそうだった。あたしのことも最初から“ひかるちゃん”と呼んだし、前から変わらずあんな風に笑顔を見せた。彼女の本心は分からないけど、一生懸命こちらに歩み寄ろうとしてくれてるのは痛いくらい伝わった。それでもなお、こちらから働きかけることが出来ないのは──。
“キモいんだよ、ブース”
過去の記憶が、スライドショーみたいに頭に浮かんでくる。冷たいトイレの床。びしょ濡れになった身体。グリグリと頭に押し付けられた上履きとモップの匂いは、家に帰って洗った後もずっと鼻に残っていた。今でも、ずっと。
あたしは、中学時代、いじめにあっていた。主犯格は、一番の親友だと思っていた子だった。
“仲良いフリしてたのは、あたしの引き立て役にするために決まってんじゃん? 勘違いすんなよブス”
あぁ──じゃあ、あのときのあの言葉も、あの笑顔も、全部全部嘘だったんだな。そう思ったら涙が出て止まらなかった。あたしが泣くのを見て彼女たちは笑った。そんなことがあったから、あたしは他人を信じることが出来ないでいる。怖いのだ。裏切られることが。
「ひかるちゃん!」
「!!」
突如声がして、我に返る。すると、遠くのほうから柳さんがこちらに走ってくるのが見えた。
──うそ、どうして。
驚いて言葉が出ない。さっき、あんなにひどい対応をしたばかりだ。……あぁ、もしかして、その報復に?
「あ、あのね。あたし、空気読めなくて、ひかるちゃんに嫌な思いさせてたらごめんね。でも、えっとね」
柳さんは、ええと、うんと、と唸りながら言葉を選んでいる。やがて、やっと考えがまとまったのか、あたしの目を真っ直ぐに見つめた。
「あたし、ひかるちゃんと仲良くなりたいの! 友達になりたいの!」
「……っ」
この人は、どうしてそんなことを言うのだろう。根暗でボッチなあたしと。友達になりたいだなんて。
「せっかくこうして同じクラスになれたんだし……ゆっくりでいいから、仲良くしていきたいの!」
「……ぁ、」
「自分の意思ばっかり伝えてごめんね。このことが言いたかっただけだから、行くね!」
あたしは一生懸命声を振り絞ろうとしたけれど、喉からはヒューヒューと息がもれるだけで、柳さんには届かなかった。嵐のようにやってきた柳さんは、やっぱり嵐のように過ぎ去って行った。
“ひかるちゃんと仲良くなりたいの!”
“仲良いフリしてたのは、あたしの引き立て役にするために決まってんじゃん?”
ぐるぐる。ぐるぐる。さっきの言葉と、中学時代の嫌な思い出が頭の中を駆け巡る。あたしだって、本当は。
「柳さんと……仲良くなりたい」
柳さんは、裏表がなくて、天真爛漫で、キラキラしてて、友達も多くて。彼女の今の言葉が本物だなんて、さっきの目を見ればわかる。でも、やっぱり怖くて。彼女の笑顔は、あいつらの笑顔とは違うってことくらい、わかってるのに。記憶の中のあいつらが、ケラケラとあたしを嗤うんだ。
「あなたの脳内を掃除しましょうか?」
「……っ!?」
突然声がして、頭を上げた。さっきまで、人はいなかったはずだ。それなのに、いつの間にか、目の前に人が立っている。背が高くてヒョロヒョロした男の人だ。こんな用務員さん、うちの高校に居ただろうか。いや、でもおかしい。作業着は作業着だけど、この人が着てる作業着は、毒々しい紫色。こんな色をまとった人間は、今まで見たことない。頭にタオルを巻いて、顔にはマスクをしているため、その顔はほとんど見えない。怪しい。怪しすぎる。
「あなたの脳内を掃除しましょうか?」
「……掃除」
怪しい、と頭の中ではわかっているのに、あたしはその男の言葉に答えていた。
「ハイ。いらないものは捨てましょう。大事なものはしまいましょう」
「いらない、もの」
ごくり、と唾を飲み込んだ。男は大きく頷いた。
「脳内の、いらない記憶も……?」
「捨ててしまいましょう。お掃除しましょう」
まるで歌でも歌うみたいに、いらないものは捨てましょう、と繰り返す男。その声を聞いていると、あぁそうだ、捨ててしまわないと、という気持ちになってくる。
「片付けましょう。お掃除しましょう」
大事じゃないものを、忌まわしいものを、どうしてとっておく必要があるのだろう。大事なものだけ、頭の中にとどめておけたら、どれだけ幸せだろう。あいつらの醜い笑顔が消えてしまえば、柳さんの笑顔に向き合える?
「……お願い、してもいいですか」
あたしの中の、いらないもの。全部全部、捨ててしまいましょう。
* * *
眠ってしまったみたいだ。すごく長い時間眠っていたかと思ったけれど、時間は5分と経っていない。何をしていたんだっけ。と思ったところで、ハッとした。そうだ、あたし、柳さんを追いかけなきゃ。
あたしのことを追いかけてまで、気持ちを伝えてくれた柳さん。応えなきゃ。そして、言わなきゃ。「あたしも柳さんと友達になりたい」って──!
走ったのなんて本当に久しぶりで、脚が何度ももつれた。でも、脚は止まらない。ずっとずっと、仲良くしたかった。何で尻込みしていたのだろう。今なら言える。面と向かって、柳さんに。
「やな……、由紀ちゃん!」
柳さん──由紀ちゃんの背中に、思い切り叫んだ。少し前を歩いていた由紀ちゃんは、キョトンとした顔で振り返る。
「あのね……いままで、言えなくてごめんなさい。あたし……あたしも、由紀ちゃんと友達になりたい! これからも、あたしと仲良くしてくれる……?」
あぁ、言えた。やっと言えた。由紀ちゃんは驚いたような顔をして、いまだに目を白黒させている。それはそうか、今まで良くない態度をとっていたあたしからこんなことを言われたのだから。でも、由紀ちゃんなら、きっと──。
「あの……」
「うん!」
「あなた……誰ですか?」
──……え……?
今、何て? 冗談にしては、急すぎるよ、由紀ちゃん。あたしがそっと顔を上げると、本当に困った顔の由紀ちゃんが、変な人を見る目で、あたしを見ていた。
「あの……あたし、急ぐので。ごめんなさい」
「え……由紀、ちゃん? あたしだよ? 同じクラスの……」
「ごめんなさい、分からないです」
「……っ!?」
由紀ちゃんは、怯えた様子で走って行ってしまった。そんなのって。そんなのってないよ。あの言葉は、嘘だったの……? 一人で廊下に取り残されたあたしは、自分が泣いていることにも気がつかないまま、立ち尽くしていた。
* * *
頭の中を掃除しましょう。
いらないものは捨てましょう。
大事なものはしまいましょう。
片付けましょう。お掃除しましょう。
お値段格安。あなたの大切な人の、あなたに関する記憶だけ。
さぁ、片付けましょう。お掃除しましょう。頭の中を掃除しましょう──。
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