第57話 心中の条件

「はい! ブルペン!」


 河本コーチは、今日はフル稼働だったブルペンのマネジメントに疲労困憊になりながらも、最後の声を振り絞って電話を取る。

 受話器を持つ河本コーチの視線が自分に向くのがわかって、楓はおもむろに立ち上がる。

 それを見て、大久保も次の登板に備えて、ブルペンのマウンドへ向かった。楓をワンポイントで起用した後は、自分の番だということがわかっての行動だ。


「いや、立花、大久保、ちょっと待て。」


 河本コーチは二人を呼びとめる。


「ツーカーで動いてくれるのはありがたいんだが、今日はちょっと違うんだ。」


 楓の方を見ると、さらに神妙な面持ちで言葉を差し向ける。


「立花……今日、3人いけるか?」


「いけるかって、河本さん……私は……。」


 思わず楓も口よどむ。


 5月にセットアッパーとして打ち込まれ、ワンポイントへの切り替えは楓自身だけでなく、チームにとっても最適解だったはずだ。

 ワンポイントだからこそ、戸高との日替わり方針のリードが生きる。3人に投げたら、そのリードの傾向も読まれて、打たれてしまうに違いない。

 それはドルフィンズだけでなく、他のチームやプロ野球ファンでも認識していたことだ。


「お前が言いたいことはわかってる。だが、これは監督からの指示だ。」


「それって……」


「監督も、このチームも、立花楓と心中する覚悟を決めたってことになるな。」


 楓は、セットアッパーとして失った信頼を、ワンポイントとして取り返してきた。

 そのワンポイントとしての信頼が、この場面でセットアッパーとして起用させる覚悟をホワイトラン監督に与えたのだ。


「それはとんだ無理心中ですね。」


 すかさず口を挟んだのは、楓とセットで交代することになるだろう戸高だった。


「何のリード方針も指示せず、対策もとらず、ただ『今日まで抑えてきたから』という理由でマウンドに上げる。KPIの鬼だかなんだか知りませんけど、それは思考停止以外の何物でもない。」


 こんなに河本コーチに噛みつく戸高を見るのは初めてだった。

 河本コーチも、そばで見ていた大久保やリリーフカーに乗ったチアも、その場で凍り付くほどの威圧感だ。


「すまん——だけどな、戸高……」


 自分が大忙しで思考停止していたことは、河本コーチも認めざるを得ないところだった。だが、この場面での監督指示は絶対だ。

 なんとか戸高をなだめようとする。


 しかしそれにも構わず、戸高は言葉を続けた。


「それなら、1つ、条件があります。」


 戸高がそう告げるとほぼ同時に、楓のテーマソングが大きくスタジアムに流れ、アナウンスが入る。


《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。キャッチャーの谷口に代わりまして、戸高、背番号27。ピッチャーの須藤に代わりまして、ピッチャー……立花、背番号98。》


 ここしかないという場面での楓の起用に、ドルフィンズファンたちは大きく沸いた。

 大きな歓声と天井がきしむ音で、楓には戸高と河本コーチの会話内容がよく聞き取れない。


「え? 戸高くん今なんて?」


 楓が聞き返すが、


「立花さん! もう乗ってください! 時間です!」


リリーフカーの上からハンドルを握ったチアが声をかける。


「立花、頼む。俺からはもう、それしか言えん。」


「まったく、信頼されちゃったなあ、私も。」


 今シーズン一番のしおらしさを見せた河本コーチに、楓は軽口で答えると、


「任されました!」


そう言って左手を顔の高さに掲げる。


「ああ、頼んだ。」


 河本コーチはレギュラーシーズン最後の登板に、楓をハイタッチで送り出した。


 走り出したリリーフカーを迎えたのは、レフトスタンド以外真っ青にぐるりと囲むスタンドだった。


 万年最下位球団ドルフィンズの本拠地は、この時期消化試合で閑散としたものだった。

 しかし、


「楓ちゃん! 頼んだぞ!」

「なんとかしてくれ!」


ドルフィンズカラーの青い服に身を包んだファンたちの声援が、ほぼ360度から楓に向けられる。

 リリーフカーを降りてマウンドに向かう楓の背中を、ファンの声が後押しする。


「俺たちを、クライマックスに連れて行ってくれ!」


 楓はいつものようにリリーフカーを降りて振り返ると、運転手のチアと、その後ろにいるファンたちに向けて、いつもより大きな声で言う。


「ありがとう! いってきます!」


 楓が内野陣の待つマウンドに合流すると、盛んにショートの新川と戸高が議論を交わしていた。

 聞いていると、次の打者の対策について、戸高がキャプテンの新川に指示する場面が多い。新川もそれを尊重する様子で、戸高の指示を他の内野手に細かく伝えている。


「戸高くん、リード方針だけど……」


 戸高の指示が一通り終わるのを待って、楓が話しかける。


「うん。基本変えない。」


「マジでいってんの?!」


 思わずレギュラーシーズン最後の大ツッコミを入れてしまった。


「でも大丈夫だから。ちゃんと考えてる。」


 そういうと、主審に時間切れを急かされて、戸高は守備位置に戻ってしまった。


(いろいろ指示出してたわりに、私にはないんかい……でも、私は決めたんだ。戸高君のサイン通り投げるだけだって。)


 他の選手にホームベースから指示を出す戸高を見ながら、楓は改めて思う。

 一抹の不安がないわけではないが、1年間で2人の信頼関係は、その程度の不安を凌駕するほど揺るぎないものになっていたのだ。


 いよいよ最終回。泣いても笑っても、これで結果が出る。


(ノーアウト1・2塁でクリーンナップ……さあ、勝負だ!)


 楓は打席を見据える。


《バッターは、3番、レフト、細井》


 ベンチの指示なのか戸高の指示なのかは分からないが、守備位置に大きく変化が出ているようだった。

 左打者の細井に対して、かなりライト方向へ内外野ともに寄せている。特に外野は顕著で、レフトの高橋はほぼ左中間の真ん中を守っている。

 引っ張られたらアウトにできる確率は高いが、流されたら一巻の終わりだ。


(さて、こんな守備位置にして、三冠王様はどんなリードをするんですかね?)


 楓も一周回って心に余裕が出てきたのか、少し笑みを浮かべてリードをのぞき込む。


(アウトコースに、ボールになるシュート)


 またまた、右に守備を寄せておいて、左打者のアウトコースとは……本当に大胆な人だね君は。

 慣れてきた自分がさすがにこわいよ。


 自嘲気味に内心でつぶやくと、楓は指示通りのボールを投げる。

 戸高の「明らかにボールだけど、守備位置的に無理矢理流し打ちしたくなる球」という意図もきちんと受け取っていた。


 ストレートと一見見分けつがないボールが、打者の手元でボールゾーンに変化する。

 2人の予想通り、細井はこれを打ちに来た。


「ファウル!」


 素早い打球が3塁キャンバスのすぐ外側を抜けていく。

 球場全体が安堵のどよめきをあげるのと同時に、3塁塁審が両手を広げた。

 これでカウントは0−1。


 すかさず戸高は次のサインを出す。


(インコースに、ストライクになる大きなシンカー)


 これも意外なリードだった。

 インコースは打者も警戒しているはずだ。

 そこにストライクからボールになる変化球を投げても、振ってくれないだろう。

 だが、戸高はあえてこのサインを出した。


「ふーん、相変わらず性格悪いねえ。」


 楓も戸高の意図を察して、グラブで隠した口元を緩ませてつぶやく。


 戸高がこの打席で、走者を3塁に進ませたくないという思惑も、細井の頭にない楓ボールで空振りをとることも、すべて把握していた。


(ピッチャーの決め球をこんな使い方するなんて、ほんと嫌な人だよ!)


 強い気持ちと少しの呪詛を乗せたシンカーが、細井の手元で大きく変化する。すかさず細井はこれを打ちに来る。

 しかし、バットの少し下をボールがくぐり抜けていった。


 細井は思わず顔をしかめて戸高の方を見るが、戸高は我関せずという表情で楓にボールを返す。


 それもそのはずだ。

 走者1・2塁でバッターはロイヤルズの3番。ルーキーバッテリーにとっては格上の存在だ。

 打者とすれば、バッテリーは「インコースのくさい球を引っかけさせる」という意図があると思い込んでいる。当然「簡単に三振をとれる相手」などと思われていないだろうと考えている。

 しかし、戸高はそれを逆手にとったのだ。


 普段から正捕手の谷口が戸高を「末恐ろしい」と評する根拠はここにある。

 細井としては、「若造がなめやがって」と怒るのも当然だろう。


 これでカウントは0−2。

 定石からすれば当然1球遊び球を挟むところだ。


(アウトコースに、ストライクになる真っ直ぐ)


 定石から外れたどころではなかった。


(この人……チームのCS進出を何だと思ってるんだ……。)


 戸惑いながらも、楓はサインに頷く。

 しかし、こんな大胆な意図さえ読み取れるようになっている自分が、少し嫌になってきていた。


 戸高くんのサインは、こういうことでしょ?

 バッターの頭には、決め球はインコースという思い込みがある。


 この守備位置からして、アウトコースには見せ球しか来ないだろう。

 来るとしても、私の球は遅いから、変化球しかあり得ない。

 アウトコースはボールになる変化球だけ考えておけばいい。


 って考えてるはず、って。


(いくらなんでも大胆すぎる……。)


 楓はさすがに震えそうになる左手を一度強く握った後、ストレートの握りでボールをつかんだ。

 そして投じたボールは糸を引くように外角いっぱいのコースへ。


「ストラック! アウト!」


 ボールがミットに収まると、大きな歓声が上がった。


 細井がバットを地面に叩きつけると、グリップのところでボキリと折れた。

 こちらを細井が思い切り睨んでいるのがなんとなく分かったので、楓はスコアボードをじっと見るふりをしていた。


 「125km/h」。

 スコアボードには、恥ずかしいので余り出さないでほしい球速と、その隣に「MAX」という余計な一言が添えられていた。


 しかし三振は三振だ。これで1死1・2塁。

 とはいえ、1点でも取られてしまえば、CSは絶望的だ。

 まだ予断は許せない。

 戸高もしきりに守備陣に指示を出していた。


《バッターは、4番、ライト、福本。》


 まだまだ続くチャンスと、頼れる4番の登場に、ロイヤルズファンは大きな声援を送る。

 関西の球団でありながら、関東にもファンは多いロイヤルズ。

 彼らの声援は、十分な威圧感を放っていた。


 ここで本来ならワンポイントの楓はお役御免だが、今日は続投だ。

 しかし残りの投手がいない総力戦だということを、ドルフィンズファンも分かっている。

 ドルフィンズファンも負けじと楓に声援を送る。


 楓だけでなく、すべての選手が、この状況で1つの感情を共有していた。


(こんなに、ファンの声援が心強いことはない——。)


 楓はその声援への感謝を感じながら、振り返る。


「えっ?! マジで?!?!」


 思わず大きな声を出してしまった。

 

 楓の視線の先には、なんと内野に5人。

 ショートとセカンドの間に、レフトの高橋。左中間にセンターだった金村、右中間にライトだったボルトンがいる。


 河本コーチに提示した「条件」やさっきの「ちゃんと考えてるから」の中身はこれだったのかと今更気づいて、戸高を見る。

 戸高は胸のプロテクターをどんと一度叩いた。


(任せとけ! じゃないって……。)


 おそらく、スタジアムで戸高以外の全員が戸惑っていただろう。

 こんな大事な状況でここまで大胆になれるのは、戸高の若さ故なのか、それとも楓が言う「本物の野球バカ」故なのか。


 しかし、もうここまで来たら、乗りかかった船だった。


(なんか悔しいから、絶対驚いたそぶりとかみせてやるもんか!)


 意味不明な対抗心を燃やしながら、楓は福本と対峙する。

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