第8章 物言わぬ蛍

 


 翌日の夜半、神社に笛の音が低く響いた。


あかりを落とした部屋で、布団を直していた宮司ぐうじが、ふっと耳をすませた。


(何と、まあ、輝夜姫を迎えに来た、天人の笛の音色のような)



カタリ



障子しょうじを開いて、青く澄んだ闇に包まれた白い砂の庭を見た。


吹く風の冷たさが、また心地よい。


太り始めた三日月の、まだ淡い光に照らされた庭は、幽玄の美しさに包まれている。



その庭の隅の岩に座った野風は、膝に短刀の付喪神を乗せ、一節切ひとよぎりを吹いている。


一節切から流れるその音色は、夜の静寂しじまを縫って、空気を震わせてうつつけがれを振るい落とさせ、静かに、静かに誰かを招いている。



 どれほどの時間が経っただろう。

いや、然程さほどの時が経った訳ではないかもしれない。



細い月の光に照らされた闇の中にただ、精妙な一節切の笛の音が、磁場を整えるように響いている。


雲間に入った月が、ため息をつくようにまたたいた。


その瞬間


ふっとその青い闇の中央に、男の影が立った。

その影は姿を現すと同時に、一節切の音色に深く甘い声を添わせた。


【我が恋はぁ】



大紋だいもん姿の男は、白扇を開き、水面みなもを滑るように砂の上を進む。


「!」

その男の姿を見た膝の上の童子が、弾かれたように立とうとした。

それを野風が気配で抑える。


【水にぃ 燃立つ蛍蛍ほたるぼたる


扇を返し、風をはらませた袖で顔を覆う。

今日は勝色(藍)の袖の裾に結ばれた、白い露がフルフルと揺れる。


姿に似合わぬつやめいた声が、闇に溶けていく。


【物言はで】


スッ


音もなく、庭の手前の部屋の障子が開き、病みさらばえた体を引きずって直生が現れた。


笑止しょうしの蛍】


「お松、お松殿?」


直生は庭の男を熱く見つめたまま、障子のふちをつかんで、体を支えるようにして、ゆっくりと体を起こしていく。


白い小袖に包まれた体はか細く、袖から突き出た腕は、骨も血管も露わになっているほどに細い。


【羨ましや】


膝の童子は息を呑んで、必死で体を起こし、男の元へ行こうとする直生の様子を見つめた。


【我が心】


 舞う男は、直生の事など眼中にない様子で、野風の方へスルスルと近づき、膝の童子の方へ身を屈めた。

が、今や触れなんという間際まぎわで止まると、扇で口元を隠し、愛嬌のある丸い瞳で、問いかけるようにじっと、童子の顔を見つめた。


【夜昼 君に離れぬ】



男の哀しげなそして何処までも優しい瞳が、月の光を受けてきらめいている。

その瞳を野風の膝に座る童子が食い入るように見つめ返している。


誘われるように、男に顔を近づけると


男はサラリとその視線を外して、扇を口元から外して、あでやかな微笑みを見せた。


【あまりの見たさにぃ】


その微笑みは、切なげで哀しみにいろどられている。


くるり


男は微笑みを残して、きびすを返し背を向けた。


【そと隠れて走てきた】


童子はつられるように、立ち上がり男の背を追った。


「お松殿!」


同時に、直生が落ちるようにして、縁側から庭に降り、男の方へいざり寄って行く。


白い小袖の裾はまくれ、骨と皮になった細い脚があらわになる。

しかし、そんな事は毛頭気にならないように、痩せこけた顔の、熱で潤んだ瞳を男に向け、骨のような腕を伸ばし、必死で這い寄る姿は浅ましく哀れである。


庭の中央でその男は足を止めると


トン、トトンと足拍子を打った。


【愛しうて】


渡る月は中天を指し、空気はシンと涼しく澄んでいる。


男に走り寄りかけた童子は、暫し呆然と直生の姿を見入った。

が、ゆっくりと、ゆっくりと、それでも視線は直生に向けたまま、男の側に寄り添った。


男は、問いかけるような瞳を童子に向けた。


そして

袖をふわりと回しがけ、自らのかいなの中に入れた。


【まず放さいなう】


男の腕の中に絡め取られた童子は、それでも直生が必死で体を動かし、いざり寄り、涙を流しながら、男に震える腕を伸ばすのを見つめた。


短刀の付喪神は、振り返り一度男に視線を向けた。


男は、その煌めく瞳に童子だけを映し、ただ思いを込めた笑みを投げかけている。


【放してものを言わさいなう】


短刀の付喪神を胸に抱いた男は、ゆるり、ゆるりとあやすように揺れながら、皮をスルリと脱ぐように、衣冠いかん姿の貴公子になった。


「あ、あ!お松殿」


ヒュー


直生の弱々しい叫びが、鋭い笛の音に巻き取られ、闇に紛れる。


【そぞろ】


深く、低く謡う声が響く。


今一度、男を見上げた童子は、自らに言い聞かせるように一つ頷くと、強く声を発した。


「我が元へ戻れ、我が思い」


直生の男に伸ばした手を、腕を伸ばして童子が掴んだ。



「来よ!」



【愛ほしうて】


一際高く、澄んだ笛の音が響き、月がまたたいた。


一瞬全ての影が消え、幼い童のいた場所には、水干姿の匂い立つ程美しい、十代も後半に差し掛かった頃の青年が立った。


フワリ


稚児髷ちごわげが解け、冷たい黒髪が風にたなびく。


青い闇の中でなおも輝く白い顔に、つり目がちの大きな瞳が、衣冠姿の男をとらえて微笑んだ。


その姿を見た男は、見るもの全てが身悶みもだえしそうなとろけるような微笑みを、稚児に返した。


次の瞬間、その水干の青年の姿は光の小さな粒になり、パラパラと地に降り落ち、地に落ちた粒は集まり形を作っていく。


【愛ほしうて】


男は短刀に戻ったそれを拾い、愛しげに強くき抱き、頬擦りをした。


【何とせうぞなう】


甘い溜息のように細く、男の声が澄んだ空気に紛れて消えていった。


舞い終わった男は短刀を掻き抱いたまま、するするとまだ笛を吹いている野風の方へ近付いた。


そして婉然えんぜんと微笑んだまま、野風をその鳳の地紋がきらびやかな濃い紫のほうの袖の中に入れた。


フワリとえも言えぬ、高雅な香りが野風を包みこむ。


何かを囁いた後


更に一節、まだ笛を吹き続けている野風に、口を寄せてうたうとニッと笑い



消えた。



 じっと目を瞑り、笛の音に聞き惚れていた宮司は、笛の音が長く風の中に消えて行くのを聞き届け、ため息をついて目を開き、庭に視線を向けた。


と、その淡い月の光の中、直生が白い体をさらして、地に倒れているのに気がつき、叫んだ。


直生の亡骸なきがらの上には、ご神刀しんとうである、鳳の飛翔するあつらえのさやに納められた太刀と、その揃いの凰の誂えの短刀が抱かれるように置かれていた。








 「あの差料さしりょうは、岡崎三郎様、いえ、家康公ご嫡男の松平次郎三郎信康様が、自らの弟である三河侍従様の双子の片割れで、ご母堂様の実家である池鮎鯉神社ちりゅうじんじゃにお預けになった、於松殿こと永見貞愛ながみさだちか様を哀れんで、密かに下賜かしされた物にございます」


店主の静かな声が暗い店内に流れた。


「時は下り、それを直生殿のお母上が、嫁入り道具の守り刀として持たされました。

元々直生殿は、母の胎内で亡くなる宿命さだめにございましたが、太刀たちの元に戻りたい一心の短刀が直生殿の命を繋ぎ、何とか太刀の元へ帰りました。


が、そこで思いを途切らせば、直生殿は亡くなってしまう。

恩もあり、また情が移った短刀は、直生殿をしばしの間、生かしめておりました。


また太刀も、愛しい短刀の意を汲み、於松殿の幼い日の思いを現し、直生殿の遊び相手になっていました。

そのまま直生殿が、神域で人の子の生を全うして居れば問題はなかったのでしょうが」


ふっとため息をついた。


「また、人足の銭の無心に困った直生殿の兄によって、離されてしまった」


ええと店主は頷いた。


「まさか直生殿も、自分の命を、守り刀の付喪神が、身をすり切らしながら繋いでいるとは思いませんでしょう。

寧ろそこで亡くなって仕舞えば、短刀の付喪神もそこまで命を擦り減らさずに済んだのです。


短刀の思いを受けて生きている直生殿は、いつしか短刀の太刀への深い思いまで受け継いでしまっていました。


親御殿との縁が無くなった直生殿は、於松殿、即ち太刀へ縋り付き、知らぬこととはいえ短刀の命を吸い取り始めていました。


最早、短刀自らが止めを刺すしかないところまで来ていたのです」


「短刀は、では止めを刺すために神社へ?」

いいえ

店主は被りを振った。


「野風から聞きましたが、そこまで深くは考えておらぬかったようで、ただ、自分が神社へ帰れば、太刀の力で元どおり、何とかなると思っていたそうにございます。


分かっていたのは、ただ太刀だけ。」


「では、なぜ太刀は迎えにいかなかったのか」


「太刀は最早、神社を護るご神刀ですからね、神域から自儘じままには動けませぬ。ですからその代わりに野風に約をされました」


「どのような」


「一人、良い方にご縁を頂きましてございます。

それから……」


ニタリ

店主は笑った。

には、御神刀として神の力を貸そうとね」


【羨ましや 我が心 夜昼 君に離れぬ】


帳場の後ろで寝転んでいた野風は、ふっとあの夜の光景を思い起こした。


黄金色に透き通った月の光の中で、愛しい凰を胸に納め、鳳は羽根を大きく広げて宙に歓喜の声を響かせた。


何を置いても、胸に抱かねば止まぬ思い。


鳳の声は、喜びよりも尚深く、自らの一部を喪っていた夜の苦しさを感じさせた。


あの声が耳から離れない。


そして、その声が野風の為に、うたったうたいが胸によみがえる。


「さて、野風、短刀が通した直生殿の思いは、そろそろにございますかね」


一節切ひとよぎりこそも良けれ 君と一夜ひとよは寝も足りぬ】


「参りましょうか」

店主は自分の背中の後ろで、横になっている野風に声をかけた。


「寝る隙もないわ」


野風の呟きに、振り返った店主は不思議そうに眉を上げた。

「え……お疲れにございますのか」


野風は溜息をついた。


そして


遠くで、ご神刀が笑った。




‥‥謡、解説‥‥

【我が恋は 水に燃え立つ蛍蛍 物は言はで 笑止の蛍】

私の孤独な恋は あの人と会う事も出来ず ただ身を焦がし 何も言えない哀れな恋


【羨ましや 我が心 夜昼 君に離れぬ】

一日中 あなたの側にいる 私の心のようにあなたの側にいたい


【あまりの見たさに そと隠れて走てきた まづ 放さいなう 放してものを言はさいなう そぞろ 愛ほしうて 何とせうぞなう】


余りに会いたくて こっそりと出てきてしまった  

先ずは抱きしめる手を放して、話をしようか

思いが募って いとし過ぎて 一体どうしたらいいのか分からない 


【一節切こそ音も良けれ 君との一夜は寝も足りぬ】

一節切ひとよぎりの笛の音こそ素晴らしい 貴方との一夜は寝足りない


ここでは

床上手の野風の相手は、いくら寝ても寝足りない


閑吟集より

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