第8章 邂逅



 「まあ。それはよろしゅうございましたこと」



 亜久里あぐりは向かいの席についている、女に微笑みかけた。


最近、秋田の仕事の関係の奥方達の集まりに顔を出すようになり、顔見知りも増えた。


そんな亜久里を見て、実家の母親が

「流石、結婚して一家の主婦になると亜久里もしっかりして来たものね」

驚いて言い、何かと相談をしてくるようになった。


前なら自分に自信がなくて何も言えなかったが

「こうしたら、どうかしら」

助言をすることが出来る。


 秋田に対しても、勘九郎との思い出のサブレ以外のお菓子を作って差し入れをしたり、笑顔で接するように努力をしている。


しかし、相変わらず、秋田は一歩退いた態度で礼儀正しく亜久里に接してくる。

そして、秋田の部屋に、毎日のように弁護士やその使いの者が訪れている。


離縁後の亜久里たちへの扱いの話し合いを弁護士との間で続けているのだろう。


以前は彼らの姿に怯え、見て見ぬふりをして、心の平静を保ってきた。

今は彼らに対しても、笑顔を向けることができる。


夫に捨てられかけ開き直ったように、堂々として、可愛げの無い女だと思われているかもしれない。


だが、もう関係ない。

どう思われようが、もういい。

心煩わせないと決めたのだ。


(私はただ、今、できることをして生きる)


その思いは、意識している以上に、亜久里を毅然として見せた。


時に、使用人を叱責する秋田に、彼らが下がった後、意見をすることすらある。


そんな亜久里に秋田は困惑した顔を向ける。


さぞや嫌な女だと思っていることだろう。


秋田の愛を乞い願おうなどもはや思わない。


(これが勘九郎様と私のきずな


肉体は時の流れによって勘九郎から離れていく。

しかし、勘九郎の言葉を胸に、少しずつ、一歩だけ自分の殻から出ていくことで、勘九郎の存在を感じることができる。


(いざとなれば、働けば良いのよ。

誰に頼らなくたって生きていける)





 「ああ、お嬢様の花嫁道具のご用意で」


「ええ、このご時世、昔のように良い職人がおりませんもの。

亜久里様のご紹介で参りました骨董屋のお陰で良い物を支度することができました」



亜久里の隣に座る女に、二重顎にじゅうあごの女性は、最もらしく頷きながらそう言った。


それから小さな目を精一杯大きく開けると、扇子を開き口元を隠して身を乗り出した。



「それが、先日里帰りで顔を見せた娘が申すので御座いますの」



女の扇子に染み込ませた香がふわりと漂い、一瞬、亜久里は勘九郎のことを思い出して胸を押さえた。


そんな亜久里の仕草も、話に対する期待と取った、二重顎の女は、嬉しそうな顔をした。


「なんておっしゃられたので御座いますの」


同じテーブルに座る他の女達は一斉に身を乗り出して先を促した。



「あれはカラクリになっているって」


「え」


亜久里が驚いて声を上げると、嬉しそうに頷いた。


「上蓋の中の蒔絵まきえの萩の実が、一つだけ小さな穴が空いておりましてね」


「まあ、素敵ですこと。カラクリだなんて。

どこの骨董屋ですの」


「私も隠しのある手箱が欲しゅうございますわ」


「それが、もう店じまいをすると」


「まあ、それは勿体のうございます」


女達は口々に羨ましげにそう言うと、一斉に扇子を使い始めた。


入り交じった香の匂いが、甘く空気を染めた。




 茶会が終わると、亜久里は大急ぎで屋敷に戻った。


 最早、勘九郎の恋の形見となり、使うことなく大切にしまっている桐の箱から、硯箱すずりばこを取り出すと、蓋を開けて引っくり返した。


どれだけ、何度も探しただろう。


亜久里は内蓋うちぶたに舞う龍のウロコの一つに細い、細い、小さな切れ目を見つけた。


鏡台からかんざしを持ってくると、その切れ目に差し込んで、力一杯跳ね上げた。



「あ」



中から一枚の紙が落ちてきた。


「ああ、そんな……勘九郎様」



亜久里は呆然とその紙を見つめた。





「亜久里様」


亜久里を呼びに来たのは、おしまが最近探しあてて連れてきた、昔、亜久里の世話役にしていた、鈴里すずりである。



「旦那様が、手が空いたので、どうぞお越し下さいとの事にございます」



亜久里は血の気がひいた青い顔で、廊下を渡り、秋田の書斎へ向かった。


震える手を、そっと鈴里の冷たい手に滑り込ませる。


於鈴おすず、万一、私が一文無しで旦那様に里へ帰るように言われても、ついて来てくれますか」


亜久里が潤んだ瞳で見上げると

「大丈夫でございますよ」

於鈴は優しく微笑んだ。


まるで塗りこめた漆のような黒い、そして螺鈿らでんのように輝く瞳に強張った亜久里が映っている。

(於鈴は不思議なほど変わらない……)


その瞳は、見つめるだけで心が落ち着いていく……






 「覚えているのは」


やや高いが、よく通る鋭さを秘めている声が、静かな書斎に流れる。


その声が今、哀愁を帯びて震えている。


「最期を決して入った部屋の壁に、突如、黒い穴が出来、そこへ走りこんだこと。


持ち物といえば、懐に入れていたこの」



懐から、小さな紙を取り出した。



「後ろに名前の書いてある、色褪いろあせ、消えかけた一葉の写真、それから」


宙に視線を上げ、遠くを見つめた。


「微かに、我が名を呼ぶだれかの声の記憶」


ふっとため息が、空気を震わせた。



城介じょうのすけと」



亜久里は涙を流して、夫にすがり付いた。


「勘九郎様、勘九郎様、よう私をお探しくださいました」


「良かった。

私は間違ったのかと思うて、また必死で探しておった」


過去、勘九郎と呼ばれた男は、細面の貴公子のような顔に微笑みを浮かべて、妻を抱きしめた。


亜久里の手から、伴天連バテレンに描かせたという勘九郎、いや、織田秋田城介信忠の肖像画が床へとはらりと落ちていった。



 





「どうじゃ」


あつが、店主と野風に声をかけた。


あの薄暗く音もない霧の中である。


「緩んだか」


「左様でございますね。随分と……」

店主は眉根を寄せた。

「しかし、思うた程にはございません」


溜息をついた店主は目を伏せた。


「どうしたことでございましょう。

申し訳ないことにございます」



「気に病むことはない。

得てして物事とは左様な物じゃ。

思うようには行かぬ」


「いや、最近こやつめは鈍っておる。

益々ひ弱なことになって、しくじったのやも知れぬわ。


野風の影響を受けすぎておるのではないか。

少々緩めたらどうじゃ」


厚が野風に鋭い眼光を向けて問うた。


「まさか私情なぞを入れておるまいな。

のう、野風」


「また、無神経に余計な事を言わはるものや」

野風の近くに姿を現した、茶杓の付喪神であるるいが厚を横目でにらんだ。


「いえ、所詮私が役に立たぬのでございますよ」


下唇をグッと噛んだ店主は、白い顔を更に白くした。


「まるでお涙頂戴の舞台役者のようなことを。


思てたより、壁が厚かったんやろ。

思うたように行かんからゆうて、ほんまに」

苦い顔で涕は吐き捨てるように言った。


「どうするか考えまひょ」


「予定よりも、も少し、渡らさねばなるまい。

物は集まっておるのか」

気持ちを切り替えた厚が野風に問うた。


野風はそれに応えず、

「そういえば、あれは見つかったか」

店主に聞いた。


「あれはご自分の意思でお出ましになります故に、こちらから探しても」


「そうじゃ。あれは時期にならずば現れまい」

厚が頷いた。


野風は自分から問うていながら、店主の返事が聞こえているのか、聞こえていないのか、じっと虚空こくうに視線を向けている。


「どうかされたのでございますか」


野風は、店主に注意をうながした。


「ほれ、落ちてきたぞ」


 上を見ると、瑠璃るり色に輝く薄い玻璃はりのかけらが、羽根のようにゆらりと落ちてきた。



「これは何と見事な。輝きといい大きさといい」


店主は白く長い手を伸ばして、そのかけらを、手の平に受け止めた。


その途端、それは受け止められたのを喜ぶように一層、輝きを増し、辺りの薄闇を払って見せた。



「流石、流石じゃな」


厚の言葉に、「ええ」と店主は頷いた。


「丹精込めて作られた品は、何百年もの間、人の思いを受け止めて付喪神に変じます。


そして器を越えた純粋な思いを受け止めれば、それは凝縮されて玻璃のかけらになってございます。」



手の平のかけらは笑うように輝く。

うっとりとした顔で透き通るほど銀色に輝く店主は、玻璃のかけらに微笑み返した。


そして螺鈿らでんの小箱を取り出すと、かけらを滑り込ませた。


「きっと見事な香になりましょう」


パタンと蓋を閉じると、途端、周囲は、また、ただの薄暗闇に包まれた。



闇の中で、のっぺりとした背の高いそれは、色黒の男の眼差しに気付かず微笑んだ。


「全てはあの日のために」


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