第6章 夢の通い道



 ある日、思い悩んだ亜久里は、骨董屋に足を運んだ。


店主の口ぶりは、元の持ち主の事を知っているように感じさせた。


何か僅かでも手掛かりが掴めるかもしれない。


例えば


(勘九郎様の元へ行ける方法とか)



 亜久里には珍しく、召使いの同行どうこうを強く断り、久しぶりに実家の近くの道をゆっくりと一人で歩く。


塀に絡まるアイビーの根元に咲くシオンの薄紫の花の色も、道に張り出して影を作る大きな木も、何も変わらない。


 その夏の光が名残惜しく包む通りを、海老茶の女袴に編み上げブーツを履いた女子学生たちが、お互い肩をぶつけるようにして、クスクスと笑いながら通り過ぎていく。


額に光る汗までも、若さが匂い立つようだ。


亜久里は振り返り、揺れるリネンの白いリボンを見送る。


ほんの少し前まで自分もあの風景の中にいたという奇妙な喪失感が、亜久里の胸をえぐる。



 台風の影響で強い南風の吹く、土曜のお昼時である。



 「おやまぁ、亜久里様がこんな日にお越しになられるとは」



 ゆがんで光を通す硝子をはめ込んだ戸を開けると、相変わらず、澱んだ薄闇の中に溶け込んでいた店主が顔をあげて、面白そうな声で言った。


亜久里は店先で思わず足を止めた。

それは、店主の言葉のせいではなく……


店の中には焚きめた香が漂っている。


それはあの硯箱を開けた時に漂った香りを思い起こさせ、胸が強く痛んだ。


(ああ、勘九郎様)


その途端に、グニャリと足元の床がうねった。







 その日、帝都ていとが揺れた。






亜久里は、視界の効かぬ薄闇の中を歩いていた。



(夢を見ている)


亜久里は夢の中にいる自分を自覚しながら、辺りを見渡した。


足元が雲を踏んでいるようにフワフワと覚束おぼつかない。

足を下ろすとフワと体が沈むが、一定以上は沈まない。

しかし、爪先で押さえてみるとフワフワと如何にも頼りない感触がする。


あたりを見渡すと、どこもかしこも同じ色の霧が掛かっている。


時折、半透明な人の形をした影のような物が、薄い霧が立ち込めている空間から現れて去っていく。


亜久里のすぐ側を、クルリと頭に団子をつくり、兵士が背負うような背嚢はいのうに似た物を背につけた、忍者のような身なりの女がキョロキョロと辺りを伺いながら、通りすぎて行った。


かと思うと、大勢の影のような物が大急ぎで駆けていく。


一瞬だけ光り輝くものが見えた気がしたが、それも目を向けた瞬間に消えていった。


音もなく、静かで、どこか寂しい空間である。


(夢の通い道)



亜久里は昔、お世話係の女に聞いたそんな言葉を思い出した。



(あれは、なんで聞いたのだったかしら?あの女の名前は、なんて言ったかしら)




ふっとお守りのように肌身離さず持っているあの櫛に手を当てると、何やら熱を持っているように熱くなっている。



(櫛が……)



櫛を出して、手に取ると微かに光っているように見えた。


(何か、不吉な)


胸騒ぎを感じ、立ち止まり、じっと恋の形見の赤い櫛を見つめた。




その時、突然、音のない空間に、か細い高い音が聞こえた。



「……り!」



声のする方を透かして見ると、寝巻き姿の幼い少女が霧に埋もれるようにして座り込んでいる。



亜久里は思わず駆け寄って、その少女を抱き上げた。


「あ」


抱き上げて顔を上げた向こうに禍々まがまがしい赤い光が見えるのに気がついた。


その光と櫛が呼応こおうするように、またたいている。




く!」



突如、鋭い声が響いた。



そこだけ、血を吸ったように、霧が不吉に茜色に輝いている。

時折、稲妻のような光が走り、大きな破裂音が響く。


その中から人の声がする。


亜久里が引き寄せられるようにその雲に近づくと、光が強くなった。




「疾くとせよ!」



「そちらはもう、危のうござる!」


透かして見ると、影がその茜色の霧の向こうにうごめいている。



亜久里は少女を抱いたまま、恐怖にかられ後ずさった。




手合てあいは来ぬのか!」


人の声は切羽詰まり、悲鳴に似て悲痛である。


恐怖に体が縛られ身動きの取れなくなった亜久里は、少女の暖かな体を抱きしめ、その影がこちらに来ぬ事をただ祈るしか無かった。



「あんくろおさまぁ」



雲の向こうからそう呼ぶ声がしたと亜久里は思った。


「勘九郎様?!」


亜久里は悲鳴をあげた。

その言葉は、亜久里に体を縛るような恐怖をも忘れさせた。

亜久里は、少女を下におろすのももどかしく、霧に走りよった。



「勘九郎様!


 勘九郎様!」



亜久里は必死で目の前の血を吸ったように赤い闇をき分け始めた。


あの勘九郎ではないかもしれない。


しかし、亜久里には関係なかった。


あの勘九郎かもしれない。



それで十分だった。


ああ!この凶々まがまがしい、雲の奥にあの愛しい方がいる……



「助けて!助けて!

勘九郎様を助けて!」




その時突如、一人の白皙はくせきの人形のように顔の整った少年が駆けつけた。


紅の元結もとゆいでまげを結んだ少年は、細い体に似合わぬ、長い十文字槍をひらめかせ、その血染めの雲に斬りかかった。



と、閃光せんこうが走り、雲を斬り裂き、光の向こうに黒い人影が立った。



「城介殿!」


その少年が叫んだ。


どこか見覚えのある細面ほそおもての男が、一瞬、亜久里の前を通り過ぎて行った。


そして……


途端に目の前が暗くなった。





 「亜久里様」




座った店主が、亜久里の力の抜けた体を抱きとめるようにして、見下ろしていた。



薄暗い店内は、空気が冷えて、不気味なほどシンと静まり返っている。


そして、何か埃っぽい。


「何が……」


自分の声が驚く程にかすれて、聞こえた。



「何処かで大きな地震が起こりましたようにございます。

ここもまだ揺れて居りますので、今、しばらくはじっとしておいでください」



確かにゆらゆらと、地面が不気味に揺れている。

天井から下がった、枠に蔦が絡まった装飾の、丸い雪洞ぼんぼり型のシャンデリアも、ゆらり、ゆらりと大きく揺れている。



亜久里は無意識のうちに、店主の白い襦袢じゅばんに重ねた涼しげな淡藤色の小袖の胸元を握りしめているのに気がついて、慌てて離すと、体を起こそうとしてふらついた。



「お気になさらずに、此方こちらへおもたれ下さい」


亜久里はまだ半分程、体があの奇妙な夢の中にいるような気がした。


「夢を見たのかと思いました」


「左様にございますか」


店主は静かに微笑んだ。



「よい夢でございましたでしょうか」



先程まで息苦しいほど立ち込めていた香の香りが、洗い流したように消えていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る