第5章 妻問星
雪が白く世界を
「え?ない……」
隠しておいた手紙が消えている。
亜久里は、硯箱の中を見て卒倒しそうになった。
あんな子供じみた馬鹿な手紙を、誰かに見られたと思うだけで、恥ずかしくて、恥ずかしくて、足がわななき、
いや
それより、手紙の主への憧れ、思われている
そんな醜くく、浅ましい自分の本心を知られるなど
とてもでは無いが生きてはいけない。
一体、どこに……
亜久里は震えながら、硯箱を持ち上げたり、桐の箱の中を見たり、蓋をひっくり返した。
が、無い。
亜久里は途方に暮れた。
一体、誰が
嗚呼……
亜久里は涙を必死で飲み込んだ。
「あ!」
(もしかしたら、置いたと思った場所が違うのかもしれない)
亜久里は、慌てて筆入れと反対側の蓋を開けた。
「ああ!あった!」
そこに書状が入っていた。
(あ、あ、良かった!筆入れの下に入れたと勘違いしていたのだわ。)
「え?」
取り上げた紙は思いがけず重かった。
(幾ら何でも……重すぎる)
見ると取り上げた紙と一緒に、一目で良質な物と分かる
「ヒッ」
亜久里は熱いものに触ったように、その手紙を放り出した。
赤い櫛が、亜久里の膝に当たり、音も立てず、
投げ出された手紙は見るからに、亜久里が書いた手紙の倍以上の厚みがあり、紙質も明らかに使った物ではなかった。
いや、それではない……
それでもなく
恐る恐る拾い上げ、開いたそこには
「亜久里様」
亜久里の名が見事な
「そんな……」
(有り得ない)
「どうして」
誰かが、亜久里の手紙を見つけて、ふざけて返事を書いたのだろうか。
再び手紙を取り落とし、亜久里は耐えきれず、クタクタとその場に座り込んだ。
血が引いて冷たくなっていた手の指先が、更に絶望で凍える。
(でも、わざわざこんなシミの浮き出た紙を用意して?)
亜久里は息をするのも忘れて、またその手紙を拾い、目を落とした。
もしかしたら……
もしかして……
そんなはずは無いのだけども……
ゴワゴワとした分厚く上質な紙は、確かな重みを持って亜久里の手の中で、力強く勘九郎の存在を意識させた。
(まさか……)
心を奮い立たせて読む手紙の先には、亜久里の返書を見て嬉しく思った事が書かれ、優しく亜久里を
「言の葉の間に
亜久里は頬を染めて、息を飲んだ。
「言葉の間に滲む、貴女の優しい人柄に心打たれ、心が惹かれました」
(勘九郎様……)
突然、胸の鼓動が大きく打ち始めた。
(でも、でも、許嫁の方が。
あんなに愛されておられる方がおられるのだから)
亜久里は、ときめきを必死で打ち消そうと、自分に言い聞かせた。
勘九郎は、あの手紙を書く前に既に家の事情で婚約は解消され、小さい頃から文を交わし、来るべき日を楽しみに思っていただけに、なかなか思いを切る事ができなく
「女々しき限りにて、
なかなか思い切れないので、思いを文にし、それを置き忘れていた
と
(そうなの)
勘九郎の境遇が気の毒で、亜久里は胸が痛んだ。
勘九郎の自らをさらけだし語りかけてくる誠実な言葉に、亜久里の警戒心は薄れ、次第に内容に引き込まれていった。
「しかしながら」
勘九郎は続けた。
時の壁の向こうで、机に向かい、亜久里への文を書いている勘九郎の姿が目に浮かぶ。
「亜久里殿よりの労る文を拝見し、心が救われ、奮い起つ思いにて候」
勘九郎は、女々しい自分を責めることなく、むしろ慕わしいと言ってくれた亜久里の優しい言葉に慰められ、奮い立つ思いだと言う。
その事は亜久里の心に大きな喜びを産んだ。
(そんな、そんなはずなど無いわ。私などなんの価値のない女なのに)
亜久里は、唇を噛み、消そうとしても尚消えない微笑みを必死で押し殺そうとした。
「もし、亜久里殿が我が側に
貴女が側に居てくれるのならば、他に何も要らないのに
(嘘よ!嘘でしょう。あんなに醜い私を書いてしまったのに)
妹達への嫉妬の思い。
良い子でなければ愛されないだろう自分の惨めさ。
金で買われ、無視され続ける女としての憐れな自分。
(それなのに、愛しいと本当に思ってくださるの)
勘九郎は、亜久里の心を抱きしめた。
「
(嗚呼、私も何故、勘九郎様と文を交わせるのか、とても不思議)
亜久里は頷いた。
「事の仕組みは分からねど、
まだ開けていない所に文をおけば、相手に届く。
ハッと亜久里は、硯箱に視線を向けた。
それが本当なら、後、どれくらい勘九郎様と文を
「そこで父にお尋ね致し、職人にこの手箱の作りを下問し申し付けし処、
父が申し付け、隠しにあれば教えられぬとのこと
故に、既に二つ開け候えば、残りはこの文を入れるを含め三つ。
隠しを見つけられざるを
文を置ける隙間は5つ。
既に3つ使い、1つは何処にあるか分からない隠し。
残りは……
亜久里の返信に使える1つだけ。
「あ、あ」
亜久里は勘九郎の手紙を胸に握りしめた。
羽ばたき始めていた鳥が、
「そんな……」
勘九郎の手紙は続く。
勘九郎は、何度も、何度も亜久里の手紙を読み返し、大切にしていること。
例え時が離れていようとも、愛しく大切に思っていること。
そして長い、長い手紙は
「空には
という言葉で締められていた。
(離れている
必ず来世、貴女を妻として、一生離さない。
亜久里は手紙を読み終えると、それが置いてあった場所に小さな紙包みがあることに気が付いた。
手の中で開くと中から爪ほどに小さな白い
そっと一つ
「とっても甘い……」
亜久里は
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