第4章 恋文

 

 おしまに髪の毛を結い上げてもらった亜久里あぐりは寝室に戻ると、ポケットの中に突っ込んでいた、あの紙を取り出した。


「少ししわになってしまった……」



慌てて突っ込んだせいで、留めてあった紙がゆるんでいる。

その緩みが、亜久里に読むことを許してくれているように感じさせた。


「ちょっとだけ」


息苦しい生活をほんの一瞬だけでも忘れ、他の人の人生を垣間見るような好奇心が、良心をくすぐった。

「もしかしたら、返した方が良いものかも知れないし……」


自分に言い訳をしながら、亜久里はその紙を破らぬように気をつけて、そっと解いた。


それは簡単に開いた。


ところどころ経年けいねんによる染みが浮き出ている紙の上に、何とも力強くも優雅な手蹟しゅせきの崩し文字が連なっていた。


見たこともない流派の文字だったが、何とか読めぬことはない。


「どなた宛なのかしら……。名前は書いてないわ」


亜久里はその方が自分宛のことにできると自嘲的じちょうてきに笑った。


(誰からも文など来ないもの)


引っ込み思案の亜久里は、文を交わすような友達がいない。


しかし、それは亜久里の性格のせいだけではない。


 この不況の続く時代、同じ女子部に通う同級生の中には実家の事業の悪化にともない、学校を辞めざるを得ない娘が少なからずいた。


そういう事態になれば、段々と文も途絶とだえがちになり、音信不通になってしまうのは仕方のない事であった。


 寝台ベッドに座った亜久里は一心に文字を追い始めた。


そこには勘九郎という名の男の、まだ見ぬ許嫁いいなづけに対する、細やかな気遣いや情愛が書き記されていた。


 読み進むうちに、まるで物語に引き込まれるように、亜久里は勘九郎の恋の中に取り込まれていった。


 

徒夢あだゆめの君ばかりが添い寝して、覚めれば独り床の上」

あなたに会えるのは夢の中だけ。

そしてその悪戯いたずらな夢から目が覚めると余計に虚しくなる。


逢瀬おうせは いづくなるなん」

一体 いつお逢い出来るのでしょうか。


ただ、ただ、あなたに逢いたい。


 勘九郎という男の抑えても抑えきれぬ、ほとばしるような愛情が、易々やすやすと時を越えて、愛に飢えた亜久里の心を抱きしめ、そっと耳元でささやきかけて来る。


(こんな風に思われたら……)


読み進めるうちに、熱い勘九郎の情熱的な囁きは、段々と亜久里を取り込み、恰も自分がその許嫁になったような心持ちへとさせていった。


ため息をつき、亜久里は頬を上気させ、高鳴る胸を押さえた。

「ああ……」



ゆっくりと文を閉じた亜久里は、勘九郎の文の余韻よいんが冷めず、文を熱い頬に当てた。

(勘九郎様)


見たこともない勘九郎に対する憧れの想いが、胸の奥から溢れ、ふつふつと、空っぽだった胸を浸していく。


まるで未完の恋物語のような……


胸のときめきは納め難く、亜久里は思い立って、寝台の下に隠した硯箱を取り出した。


手紙の中に姫からの返書が絶え、虚しく思っている事が、切なげに書かれていた。


「もう姫は、私の事など、忘れて果ててしまわれたのか」


「恋の形見にあわれと思い、一言だけでも言葉を掛けて欲しい……」


勘九郎は訴えかけてくる。



(その想いに応えたい...)


未完だからこそ、甘酸っぱく続く恋の余韻の中にいる亜久里は、ゆっくりと墨をり始めた。


物語の中の恋は、現実のそれとは違って、亜久里の心を傷つけることはない。


行き先を失った夫への思慕は、勘九郎への思慕へとすり替わっていく。



亜久里は考え考え、勘九郎への返書を書きつづっていった。


擦り切れ、ささくれた心の襞が、勘九郎の恋の思いで優しく潤っていく。


(こんなに心が弾むのは本当に久しぶりだわ)


亜久里の口元に幸せそうな微笑みが宿った。



紙を乾かし、勘九郎の手紙と同じように、紙の端に切れ目を入れて巻いた。



「ふふ、おかしいわね」



急に我に返った亜久里は、まるで少女のように、気持ちが沸き立った分だけ、いや、今まで以上に虚しくなった。


今まで忘れていた、部屋のしんとした静けさが、また孤独を思い出させる。



「馬鹿みたいだわ」


親も秋田の援助に大喜びで、亜久里のことなど真剣に心配などしている様子もない。


おしまたちも、自分たちの不平不満は口にするが、本気で亜久里のことは考えてくれていない。


(誰も私のことなど関心はないのだ……)



思いがけず涙が一筋、頬を伝っていった。



「馬鹿みたい」



拭っても、拭ってもそれ自体が心を苛み、涙が溢れてくる。


(なんと私は惨めなんだろう……)


「馬鹿ね」


亜久里は柔らかな布団の上に突っ伏した。






 しばらく自虐的な思いに身をゆだねていたが、それもバカバカしくなり、もう一度、筆を執りゆっくりと自分の思いを書き始めた。




(私はこの立場をめるのに必要だけれども、私という存在は誰の役にも立っていないし、必要とされておりません。


貴方様の手紙を読み、熱く想われる、貴方様の婚約者様を羨ましいと思ってしまいました)



読まれることのない手紙に、亜久里は今までになく、素直に思いのたけを書き連ねていった。


そして紙に書く事で、亜久里は自分の気持ち……この冷たい結婚生活だけではなく、ずっと、ずっと知らぬ間に抑え続け硬く縮こまっていた自分の本心に気が付いた。


(いつも、いつも我慢ばかり)

(人の顔色を気にして……)

(私だって、我儘が言いたい)


(でも、言いたい事を言うだなんて、周りの反応が怖い……)

(でも、どうして、私ばっかり……)


こんな黒い思いを自分は持っていたのか……


亜久里は、自分の目の前にさらけ出す事でその気持ちがゆっくりと溶けて、収まっていくのを感じた。


(やはり……愛し、愛されたい……)


亜久里は唇を嚙んだ。



(もし貴方様の婚約者であれば良いのにと思い、筆を取ってしまいましたが、かなわぬ事でございます)



手紙の主の書いてあった元号は、もう過去のもので、勘九郎もその婚約者の女性も人生を終えてしまっている。


それでも、亜久里の存在など知ることはなく、この世から去っていった彼らの人生が幸せであったと祈らずにおられない。


そして亜久里は、辛くとも亜久里の立場で頑張って生きて行くしかない。


わかっている。



(どうか貴方様の人生が、幸せでありましたように。

そして私の人生も、貴方様の側で生きたが如く幸せでありますように)



日が暮れて行くのも覚えぬように、亜久里は筆を執り続け、長い独白どくはくのような手紙を書き終えた。



亜久里は、書き終わっても尚、長い間、机の前に座り続け、闇に包まれていく風景をじっと見つめ続けた。


一息毎に、心臓の一鼓動毎に、勘九郎の生きた時から、我が身は離れていく。


永遠に交わらない時の流れの中にいる、始まりもしない片恋かたこいの相手を置いて、また自分は現実の世界を生きていくのだ。


亜久里は勘九郎の文に今一度そっと頬を当てた。


(あなたが届かぬ苦しい思いを抱いて生きていったように、私もかごの鳥のようなこの人生を、この一時ひとときのあなたの文を支えに、生きて参ります)



しかし、書いたのは良いが、この紙を始末することは、いつも召使いに囲まれて生活している亜久里にとっては難しい事だ。



「冬になったら、暖炉だんろにくべて燃やしてしまいましょう」


(もし……それまで居られれば……だけど)


それまで、どこかに隠しておかねば



亜久里は、硯箱の飾りほりの蓋のついた、筆入れの筆の下にその手紙を隠した。

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