第5章 運命の足音
「あのう」
帳場に座っていた店主は顔をあげると、女の顔を見て微笑んだ。
しかし、いつも陽気な女の顔が、暗く沈んでいる。
「おや、どうされましたか。佐伯様の風邪が
身軽に帳場から体を起こして、店主は女の方へスルスルと近づいた。
梅雨の雨の降る日と晴れた日の寒暖差の激しい日の繰り返しに、佐伯が体調を崩して二週間ばかり床についた。
思いの外長く寝付いた佐伯の看病に、通いのお手伝いの女が助けを求めて、店主は夜の付き添いを買って出た。
幸い、元来体の丈夫な佐伯は良くなり始めると、すぐに食欲も戻り、それと共に日常生活に戻ることができた。
「いえ。あの。ああ、先般はどうも有難うございました」
女は思い出したように、店主に頭を下げた。
「旦那も
「それはようにございました。ご丁寧に恐縮にございます。」
通り
相談に来てはみたものの、やはり言わずに帰るべきか悩んでいるようだ。
店主は女の顔を覗き込んだ。
「実は
一緒に召し上がって下さると、良い口実になりましてございます」
店主の
先日の看病以来、女と店主の距離は近くなっていた。
女にとって、二十歳をいくつか超えたか、三十は来ていまい……という程に見える店主は、息子か大きな孫のようにに思える。
ふっくらとした陽気な顔の頬を緩めると、一歩足を店の奥に踏み入れた。
「さあ、どうぞこちらへ」
女を帳場の机の横に座らせると、店主は帳場の長火鉢の火を火箸でつついて、火を
「あら、それは
あらまあ、懐かしい」
女が身を乗り出すようにして、長火鉢の方を覗き込んだ。
「こっちの火鉢の
最初見たときは危なくって、びっくりしました」
「おや、上方にお住まいでしたか」
いえ、と女は笑いながら手を振った。
「うちの親がね、あちらの出で。
それで家には上方の火鉢があるんです」
「左様にございますか」
店主は火鉢の引き出しから、
急須と湯のみに
女は帳場の机の椅子に座り、すっかりくつろいで昔話に花を咲かせている。
「ええ、いえ、母はこっちの人なんです。
だもんで、なかなかうちの家風っていう程のもんじゃあないんですけど、それに
そう、味付けがね。
ええ、そう、そうなんです。
違いますものねぇ。」
店主は女の話に
「ティーセットが無いもので、普通の湯呑みで失礼致します。」
「いえいえ、そんな、そんな。一向に気になりませんよ」
女は愛想よく笑って手を振った。
それから、皿に視線を移し、嬉しそうに手を合わせた。
「おやまあ!これは旦那から頂いたことがありますよ」
女はふっくらとした指で、それを摘むとサクと口に入れた。
「紅茶の葉は佐伯様から頂きましてね。
あ、
佐伯様程上手には無いとは存じますが、
今し方まで、すっかり
「佐伯様が、何か」
店主が聞くと女は唇を噛んで、視線を彷徨わせた。
「佐伯様は、私の昔の雇い主に似ておりましてね」
「ああ、そうでしたの」
女は店主の
「ええ、ですから、あなたのお気持ちが分かるように存じます」
店主は身を乗り出して囁いた。
「佐伯様の事が、心配なのでございますね」
「ええ、それが実は……」
女は手にした白いハンカチを
「以前、お友達が亡くなられて、しばらくは落ち込んでおられましたけど、今はすっかり元気になられましてね。
それが、もう前にもましてお元気になられたもんですから、どなたか
旦那も良い歳ですけど、その道には年齢なんてないって申しますでしょう。
幸いと言っていいかどうかは分かりませんけど、
ただ、悪い女じゃなきゃあ良いけどなんて気にしておりました。
ほら旦那は、ちょっと世慣れておられませんでしょう」
女は、複雑そうな笑顔を店主に向けた。
店主もええと困った笑顔をして見せる。
「分かります。佐伯様は少年のような
その言葉を聞くと、女は我が意を得たりと大きく頷いた。
「そうなんですよ。
だもんで、旦那に『
そしたら旦那は顔を赤くして、必死で手を振られましてね。
『そんなんじゃない。ただの
「知音でございますか。
その様な深い友情を
ええと女はまた頷いた。
「それなら、私だって悩みはしません。」
ハンカチは女の手の中で、またクシャクシャに揉み込まれ始めた。
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