第一話/頬子、迷宮入りする


 異世界に召喚されるまでいくらか時間があるようだったので、頬子はミックス作業中だったDAWをきちんと終了させ、パソコンの電源を落とした。マウスとキーボード、十九型ワイドディスプレイ、二十五鍵のMIDIコントローラーを、作業机の横に置きっぱなしていた衣装ケースにぶち込むこともできた。


 頬子の趣味はDTMだ。デスクトップミュージック。自宅録音。六畳一間の音楽。毎夜のようにパソコン上でDAWソフトを使って楽曲を制作しては、楽曲データをネットの音楽共有サービスにアップロードし、ネット上の知らない誰かの反応を細々と楽しんでいる。


 大学に入学して、ひと月が経過した。同級生たちは、本格的に女子大生として青春を謳歌しようと画策をはじめている頃だろう。しかし、そびえ立つ「女子大生」の壁は、地元ですら変人扱いされることの多かった頬子には、とても厚く、そして目がくらむほどに高かった。


 生来の無愛想ぶりと、一人きりの作業に慣れきったほの不気味さと、とっつき辛さ。自分の持つどんよりしたキャラクターが、きらきらと希望にあふれた同級生たちに受け入れられるはずなどなく、入学式以降、友人は誰一人としてできなかった。


 そもそも口数少ない上に、上京したばかりで同期生との共通の話題もない。大学進学を期に買い換えたスマートフォンも、地元の数少ない友人との単なる連絡ツールとして機能するのみ。SNSのフォロワー数も一桁台のまま、全く増えることもない。


 女子大生を早々に諦めた頬子だったが、それでもまったく問題はなかった。自分には音楽があり、曲作りへの好奇心と探求心があるのだからと、強く思った。この部屋には、何でもある。パソコンもある。ディスプレイもある。オーディオインターフェースも、MIDIコントローラーも、ヘッドフォンも。


 やはり、私にはこれしかないんだ。現実に背を向けるんじゃない、音楽作りへと前のめりに向き合うんだ。


「私には、音楽さえあればいい」


 はた目には暗くも映るだろうその決意は、引っ越したばかりのワンルームのアパートで、パソコンとインターネットを通じて世界へと広がっていった。きらきらと学生生活を満喫している同級生たちへの妬みも嫉みもなく、かといって徒労感に苛まれ脱力することもない。頬子はあくまでも前向きに音楽制作を続けている。


「だって音楽めっちゃ楽しいし」


 今夜も、大学の授業を終えてすぐに帰宅し、昨日から取り掛かっている新しい楽曲のミックス作業。気になった箇所にシンセサイザーでメロディを加えているところだった。慣れた手つきでプラグインを立ち上げて音色を選び、とりあえず思いつくままにメロディを乗せてみようと、マウスを操作し、録音ボタンを押す。


 MIDIコントローラーの鍵盤に手を乗せたその瞬間、奇妙な振動が、ヘッドフォンでふたをしているはずの頬子の耳に届いた。


(何、このノイズ……)


 頬子はヘッドフォンをはずした。六畳ワンルームの、自分の部屋を見回す。目立つ家具はベッドとデスクと座卓だけの、殺風景な部屋に、ノイズを発生させている要因を探すが、音の出所はわからない。夏の羽虫が飛んでいるような音は、頬子の鼓膜を直接揺らしているようだった。


 やがて、音はぶんぶんと強弱と緩急をともなう。脳内でぼんやりと意味を持ち始めた。


 それによって、頬子は直観的に理解した。


 これからどこか別の世界へ飛ばされるので、その準備をしろ、という意味に聞こえた。


 お酒も知らない、常飲している薬もない。何かの外因で気がふれたわけではない。部屋の中で一人、黙々とパソコンに向かうだけの日々の中では、たまに感じることのある、それは意味を持つ振動だった。


 楽曲の制作中には、いわゆる〝ゾーンに入った〟ような感覚に陥るときがある。頭から溢れ出るリズムとコードとメロディが、操作するマウスやキーボードを通じパソコンとディスプレイの中で絡み合う。それと自分が完全に同期して「今」と「ここ」さえも、どうでもよくなるのだ。自分の周囲の情報がすべて吹っ飛んで、ヘッドフォンから鳴る音だけが意味を持つ。


 そのときの感覚ととてもよく似ていた。頬子は冷静に、その意味を受け入れた。


 とはいえ、内心かなり慌てていたらしい。別の世界に飛ばされる。それはわかった。だからこそ、そのとき次に浮かんだのは、「楽曲制作の続きをどのように行うか」ということだった。制作を続けたい、という欲求しかなかった。


 頬子はケーブルを引っこ抜き、どたばたと機材を揃えた。


 最後に、衣装ケースの空いたスペースに、電源を落としたばかりでほのかに暖かいデスクトップパソコンの本体を押し込むと、自室に陽炎のような靄が起こった。


 続いて急激な眩暈に襲われ、頬子はぎゅっと目を閉じた。



 ♪  ♪  ♪  ♪  ♪


 

 横たわる頬子の耳に、幼く甘ったるい歌声が聞こえてくる。


 穏やかなメロディが柔らかく響いて目を覚ますと、頬子のぼんやりとした視界に、岩肌の天井が映った。


 いつの間にか、頬子は柔らかなベッドの上に横たわっていた。つるつるとした肌ざわりのウォーターベッドが、頬子の身体を優しく包み込んでいる。


 全体に鈍色の、ぽっかりと大きな部屋だ。外に向かって開いた壁穴から陽光が差し込んでいる。天井の細かな影に、岩肌のでこぼこが強調されている。反対に床のほうは平坦で、さらには磨き上げられたようにぴかぴかに光っている。


 はっきりしない頭を支えるように、片手を側頭部に添えて、うっそりと半身を起こす。やわらかな乳白色のベッドの上に、もう片方の手をついた。

 頬子の動きに合わせるように、それまで平らだったウォーターベッドがぐいっと頬子の腰のあたりから持ち上がり、ソファ型に変形した。頬子は、ひえ、と小さな悲鳴を上げた。


 なすがままの頬子の両足が、滑らかで冷たい石の床に、ぺたり、と下ろされた。


 ウォーターベッドは、変形を終えると身じろぎをするようにかすかに振動した。


「スライムちゃん、おはよう」


 甘い少女の声が、歌うのを止め、挨拶をした。声は、「ホーコも、おはよう」と続ける。


 洞窟の一部を丁寧にくり抜いたようなつくりの大部屋には、頬子のほか人間は一人もいない。〝スライム〟と呼ばれたらしいウォーターベッドだけが、ひとりでに、ぼよん、と動いた。


 どこからともなく聞こえる少女の声に、敵意のようなものは感じられない。


 頬子はしばらく逡巡したが、とりあえず「……おはよう」と返した。


 頭の中に薄くかかったままだった靄が、座った姿勢にかわったことで、ゆっくりと溶けてゆく。


 寝巻きと部屋着を兼ねたスウェットとTシャツ姿のまま、頬子は変形したベッドからよいしょと立ち上がり、円形にくり抜かれただけの、窓と思しき隙間へと歩いた。景色を眺める。


 絶景だった。そそり立つ鈍色の岸壁が視界のほとんどを覆う中、雲を抱いて連なる山々の頂の向こうから、遠く朝日が昇っている。


 すぐ近くに見える山のふもとは深い緑の森に覆われ、大きくゆるやかに下っている。頬子は、思わず、窓のふちに手をかけて身を乗り出した。山裾を撫でる爽やかな風に、伸びっぱなしのボブカットがさわさわと揺れた。


 一面に、緑と、土と、山と岩。周囲に人が住んでいるような気配はない。


 戸惑う頬子の背中に向かって、幼い声が告げる。


「来てくれてありがとうホーコ。わたしは、この迷宮の主なんだけど。お願いがあるの」


 自己紹介もそこそこに、〝迷宮〟と名乗った少女の声が、頬子に懇願した。


「あなたに、この迷宮を動かしてもらいたいの。……見て」


 声に促されるまま、頬子は振り返った。窓に背を向けた。


 ソファベッド型となった〝スライム〟の脇に、床から直接生えたような一本足の丸テーブルがあり、そこに、頬子のパソコンが置いてあった。タワー型の本体には、周辺機器がUSBケーブルで接続され、電源やLANのケーブルは束ねられて、テーブルの縁から床にあいた小さな穴に差し込まれている。


 このような辺鄙な場所、しかも「迷宮」やら「スライム」やらといった単語が平気で登場するような空間に、電気やインターネットがあるとは思えない。それでも、頬子のパソコンには、スタンバイ状態を表す黄色いランプが光っている。


 頬子の眉間にしわが寄る。ぐっと腕組みをする。


「……どういうこと?」


 うめくようにそう言うと、〝迷宮〟の声が応じた。


「わたしは、音の迷宮。たびたび現れる略奪者から、最下層にある『音の核』を守るのが使命なの。――音楽の力で」


 自己紹介の続きを、〝迷宮〟は語った。

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