老人 グラジオラス

 その老人はたいそう長生きだった。自分でもどれほどの歳を数えたらいいのか分らなくなっていた。長く、立派な白い口髭をたくわえていたが、頭頂部はすっかり薄くなってた。耳は遠くなり、腰や背中は多少曲がりぎみで、歩くときは杖をついていた。歩調も、若者のそれと比べると遅かった。が、その一歩一歩の足取りそのものは、意外としっかりしているようにも思えた。彼に出会う人々は、まさかこの人は仙人ではないのだろうかと、錯覚することが多々あった。

 彼は名をグラジオラスといった。かつては、グースという愛称で呼ばれることも多く、いつしか自らグースと名乗るようになっていた。


 彼は時々、自分は神々の時代から生きていたのではないかと、思い込むことがあった。さらには、かつての高度な文明とやらの景色が記憶の中に見える気がした。しかし、そのように考えるたびに彼は苦笑し、ゆっくりとかぶりを振った。そもそも、神々の時代は何百年以上も昔のことといわれていた。いくら自分が長生きとはいえ、そんなはずはないだろうと思った。おそらく、口伝えの話を幼少期に聞いて、勝手に想像したことが自分の記憶となっているのだろうと考えていた。

 とはいうものの、それでも充分に長生きだった。妻にも子供にも先立たれてしまい、果ては自分が暮らしていた小さな都市すら戦禍にまかれたあげく消えてしまった。住む場所も行く当てもない彼は、こうして大陸中を放浪しているのであった。自分でも、さほどかからないうちに、どこかで客死することになるだろうと思っていた。が、意外にも長旅になっていた。


 普通の旅人でも危険が伴うものだが、いまや若者のような素早い動作のできない彼は、なおさら危険が伴った。が、賊でさえ彼を目の前にすると、畏怖に近い念を抱く様子であった。それにグースが持っているのは、食料としてわずかばかりの麦を持ち歩くための革袋と、杖だけだった。もはや彼にしてみれば、盗られて困るものは命くらいなものだった。

 結局、賊はなにもせずに彼の前を去るのだった。

 これまでに何度もそうした場面にであってきた。まさしく、そうした意味では仙人そのもののようであった。


 ただ、どこへ向かっているのか?目的地、それは彼自身にもわからなかった。分かっているのは南を目指しているということだけだった。彼が若かったころ、同じように旅をしていた。そのときは、北を目指していた。そして、都市の一つで腰を落ち着け、後に妻となる女性と出会い、そこで暮らしたのだった。

 自分は何者か?グースは自身の出生を知らなかった。かつて北を目指して旅をしていたわけだが、それ以前の記憶がなかった。どうしても思い出せなかったのだ。こうして自分が存在するということは、誰か生みの親がいて、育ての親がいたはずである。そして、はっきりとした記憶があるのは、北に向かっていたときからだった。とすれば、大陸の南に向かえば何か分かるのではないだろうか?もしかすると、何もわからないかもしれないが、彼はそれでも旅を続けた。

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