第156話 策
迅速に、精密に、慎重に。
わずかの綻びもあってはならない、どこか一端でも怪しまれることがあれば、それまでだ。
冷静さと平常心。急いで、でも焦る必要はない。容量の増した今の自身なら描ききれるはず。
心の内でそう念じ、リリアーナは呼吸を保ちながら構成の描画に集中する。
「もう追いかけっこはお終いかなーって思ったら。おやおや、それ、何があったの?」
二枚重ねの構成の外縁までが完成したところで、アルトのカウントダウン通りに背後へ足音が近づいてきた。
……懐かしい声だ。
軽やかで、気負うものなく、それでいて芯の形を見せない男の声音。
自分の体感では八年ぶりだが、時間の流れではもう数十年が経過している。だというのに、当時と変わらず若々しい声に聞こえるのは一体どういうことだろう?
(老いていない……? いや、今は集中を乱さず構成を完成させねば)
気掛かりはもとより、因縁の相手に背を晒したままでいるのは正直気が気ではない。
自分だけではなく、今はカミロもノーアもひどく無防備な状態だ。
間違っても攻撃を受けたり拘束されたりすることのないよう、こちらに注意を引きつけつつ、警戒を抱かせないようにしなくては。
そのためにも手がけている構成は必ず完成させる。
生前であればそう時間をかけずに描ききれていたのに、やはりヒトの身では経験と知識に体が追いつかない。
せめて少しでもその溝を埋められるよう、屋敷へ帰ったらカステルヘルミと一緒に魔法の鍛錬に励もう。
そんな雑念もひとまず横へ置いて、緊張に精神を乱されないよう、今やるべきことだけに意識を向ける。
集中を切らさないままちらりと目を向けたノーアは、カミロの横に座って俯いたまま微動だにしない。
フードに阻まれて顔までは見えないが、あちらの準備もまだ整わないのだろうか。
注意を引きつけつつ、すぐには近寄らせないようにするのが肝要。
もし『勇者』が想定外の動きをするようなら、自分が何とかして時間を稼がなくては。
◇◆◇
「さっき会った時にも言ったけど。僕をここまで転移させたのは精霊の仕業だから、元の場所まで戻るのもソイツにやらせるつもりだ。そのついでに、ふれているモノを一緒に飛ばすくらいは……できると思う」
ノーアの打ち明けた一手に、カミロと揃って顔を見合わせた。
この場から逃れるとか、追っ手の足を止めるとか、そういった場当たり的な対処からはずいぶんと飛躍した解決策だ。
だが真っ向からしかけて窮地を脱するより、ずっと現実的に思える。
相手だってまさか構成も介さずに、精霊の自発的行動によって転移させられるなんて想像もしないだろう。自分だって実際にこの目で見た後でなければ、話半分に聞いていたかもしれない。
「それは、ですが、この場を切り抜けるためとはいえ、結局あなただけを危険に晒すことになるのでは?」
「だから、囮とか犠牲になるつもりはないよ。まさか本気で僕がそんな殊勝な人間だと思っているわけでもないだろ」
「では、どうする?」
「まぁ、適当に落とすよ。ここから五領分くらい離せば十分だろ」
「落と……」
策の乱暴さにか、聞いていたカミロが絶句する。
転移の途中で放り投げるなど、常人であればあまりに危険すぎるためカミロが驚くのも無理はない。
だが、今回ばかりは話が別だ。どんな高所から墜落させたところで死ぬような相手ではないから、本当にそんなことができるのなら否やはない。
「それをして、お前自身は本当に大丈夫なんだな?」
「転移でどうにかなることはないよ、来た方法で帰るだけだ。だから僕のことは構わなくていい。それよりも、問題はその後じゃないか? 一度遠くへ飛ばしたところでこの街が安全になるわけでもない、ひとまず今日は大丈夫でも、絶対また戻って来るだろ」
「……そこは、後で考えるさ。時間を稼げるだけありがたい」
防衛の準備も何も整っていない状態、しかもコンティエラの街の中で『勇者』と遭遇するなんて、完全に想定外の出来事だった。
いずれまた来ると、そうわかっているならまだ対策の立てようはある。通用するかはともかくとして、何の備えもないまま対面することになるよりはずっとましだ。
「ただ、一緒に飛ばすには直接相手へふれる必要がある。僕は顔を見られるわけにはいかないから、背を向けさせた状態で奴の動きを止めてくれ。ほんの数秒でもいい、完全に身動きを停止してもらえれば、あとはこっちでやる。……できるか?」
「ああ、腕前を信じると言ってもらったからには、期待に応えよう。方法はこちらに一任してもらうぞ」
「何でもいいよ、訊きもしない。任せる」
「もし失敗しても、お前には危害の向かないよう何とかするから、安心してくれ」
もしもノーアが無理そうなら、自分が『勇者』を大陸の果てまで転移させる。
ヒトの身では魔法の転移に耐えられないが、構成を描いて回すだけなら精霊たちの力を借りれば今の自分でも何とかいけるはず。
失敗した時の非常手段であり、その時はもう正体を隠す必要もないわけだから、遠慮なく周囲の汎精霊たちを呼び寄せよう。
円柱陣を使ったっていいし、体のもたないような大掛かりな構成を使ってもいい。周りの者たちに危険が及ぶくらいなら何でもやってやる。
魔法による生物転移は、対象者への負荷が大きい。
だが『魔王』ほどでないにしろ、人並み外れて頑丈な相手だ。強引に飛ばしたとしても、転移の最中に細胞がバラバラになるようなことは、たぶん、……たぶん、ないと思う。
「あとは、奴の注意を引きつける役が必要なわけだが」
「それは私が、」
「カミロは、ダ、メ、だ!」
そう言い出すのはわかりきっていたから、言い終わる前に釘を刺す。
「追いつかれて即攻撃を受けることのないよう、この三人は無力を装わなければならない。安全のためでもあるが、過剰な警戒をさせては背なんて見せるわけないだろう」
「じゃあどうするんだ?」
急くようなノーアの問いに、そのまま視線を上へ向けた。
もうどこにも人影らしきものは見当たらないが、身を潜めてこちらを見守っているのだろう。
「カミロ、屋根にいるエーヴィにも手伝ってもらうことはできるか?」
「お気づきでしたか」
「あ、ええと、うむ。まぁ。連絡役か何かでついてきてくれているのだろうが、今は少しでも手があるのはありがたい。追っ手がここまで来て、……そうだな、両手を伸ばしたくらいの距離まで接近したら、奴の注意を引いてもらいたいんだ。何か物を落とすとか、声をかけるとか」
こちらの位置を的確に掴んでいるくらいだ、きっと屋根の上にいるエーヴィの存在も認識していると見ていい。
ただそれが、逃げている三人の仲間なのか、自分と同じように追っている者なのかの判別まではつかないはず。
目当てがはっきりしている以上、まずこちらに注意を向けて、上にいるエーヴィがどう動くのか出方を見るだろう。
警戒の割合としては半々と予想する。
だから、ひとまず三人が無害であると認識させることが叶えば、エーヴィがアクションを起こした時点で意識の大半がそちらへ持って行かれるはず。
相手が強者だとわかっているからこそ、その思考や慢心もなぞるように理解できる。
「それで、こちらに背を向けさせるわけですね」
「ん。わずかでも害意を見せれば反撃される、くれぐれも攻撃などはしないように伝えてくれ」
「エーヴィにはそのようにお伝えいたしますが、では、私は……」
控えめに訊ねてくるカミロには、そばの地面を指し示した。
「そこに伏せて寝転がっていてくれ。コートを汚してしまってすまないのだが」
「気絶を装うということですか、……かしこまりました。その手の偽装は得意です、お任せください」
「うん? そ、そうか、任せた。追いつき様にいきなり気を失っている相手へ攻撃はするまい。何があったのか、まず状況把握に努めるはず。わたしとノーアも、一切の敵意を見せず、動かないまま奴の注意を引くんだ」
得意とはどういうことか問い返したくなったが、今は時間がないため流しておく。
カミロはうなずいて了承を返すなり、上に向かっていくつかの合図らしきハンドサインを送った。
言葉を介さなくても意思の疎通が叶うのはちょっと便利そうだ、今度自分でも使えそうなものを教えてもらおう。
「……本当に、そんなことで奴が背を見せるか? 僕たちのことだって警戒しているだろ、いくらなりが子どもだからって、そう易々と警戒を解くとは思えない」
ノーアの沈んだ声音は問いかけというよりも、抱く不安を表すものだろう。
指示をしている自分からしたって、この作戦が完全確実なものとは言い切れない。
準備も時間も何もかもがない状況で、「背を向かせる」「動きを止める」という限定条件を満たすためだけの苦肉の策なのだから。
「ここまで追ってきたんだ、奴がまず我々を警戒するのは当然。だがその相手に動きがない、敵意もないとなれば、安易に近寄らず様子を見るはず。その背後を取る形でエーヴィが気を引けば、緊張からの反射行動だ、必ずそちらに気が逸れる」
「……」
「だからそれまで、お前も決して動くな。精霊に転移をさせるとかいう、構成を描かない術がどんなものかは知らないのだが、奴に悟られないよう準備だけはしっかり頼んだぞ」
自分にも不安があるからこそ、断言をした。
当然とも、必ずとも言い切れるものではない。だからこそ急拵えの策に乗ってくれるカミロとノーアには、成功の可否がわかるまで大丈夫だと信じていてほしい。
元々自分の招いた事態だ、ふたりがどう思おうと――これを言えばきっと怒られるか文句を言われるに違いないのだが、「責任は取る」と決めていた。
「……ああ、その点は大丈夫だ。わかったよ、もう他に手もないし、君の案に乗る」
<リリアーナ様、来ます! 対象の到着まであと……五、四、三、>
振り返るとカミロは土に汚れることも構わず、地面にばたりと倒れ伏していた。
土を掻いた手、生気を感じさせない顔、途絶えた気配にこれが演技とわかっていても寒気がする。
赤く染まった狭い空間、咽るような鉄臭さの記憶を振り切り、伏せるカミロのそばに佇む。
緊張はしている、だが心臓の鼓動は意外なほど平常を保っていた。
感情の起伏で冷静さを欠きやすいと自覚しているが、これなら大丈夫そうだ。
眼を薄く開いたまま、思い描いていた構成の描画に入る。
<……二、一>
背後から土を蹴る足音。
『勇者』が追いついた。
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