第51話 曇天濡れる中庭②
雨の季は曇り空が多く、雨が止んだとしても日の差す時間はまれなのだが、それでも花を咲かせている植物はいくつかある。低木はぽつぽつと紅色の蕾をつけ、隅の花壇には瑞々しい紫や黄色の花が賑わいを見せていた。あまり香りのしない花だが、一輪の中に複数の色合いを持つ花弁は曇天の下とても鮮やかに映る。
それに先ほどからかすかに香る甘い匂いも、どこかに咲いている花が漂わせているものだろう。
「この匂い、裏庭の木にあの白い花がついているのか?」
「ええ、クチナシは今年も綺麗に花開いてますよ。小路を通るといい香りがします、日の出ている時にでもお散歩にどうぞ」
「そうだな、たまには裏庭も歩いてみるか。兄上たちの修練場になっていると聞いてから、あまり出ないようにしていたんだが」
「裏庭は広いですからな、近寄らなければお邪魔にはならんでしょう」
アーロンの言う通り、この屋敷の裏庭は広い。前庭も門扉がすぐには見えない程度の広さだが、裏庭はそれ以上の面積があるらしい。兄たちが剣の扱いを学ぶ授業を受けている他、乗馬の練習も裏庭を使うというのだから余程だろう。屋敷の裏手にある敷地すべてが便宜上、裏庭と呼ばれている。
草地と丘らしき丘陵がいくつかある先には広葉樹の林が横這いに広がり、その向こうは全て崖になっているようだ。つまり辺境伯邸は立地上、裏側からの侵入はできないようになっている。もっとも、敷地面積が広大である分だけ隙も生まれやすい。どこかに穴がないとは言えないが、これまで賊が入ったなんて話を聞いたことはないから、それなりの防備も敷かれているのだろう。
剣の稽古も乗馬の練習も縁がないリリアーナは、裏庭については人伝ての知識ばかりであまり詳しくはなかった。
「裏庭へおいでの際はぜひ一声おかけくだされ、クチナシの花を一枝切りましょう」
「ああ、いい香りだからな。レオ兄の部屋にも飾ってもらえば良い気晴らしになるだろう」
肌も白く線の細い次兄は、特に雨の季を苦手としているらしい。この爽やかで甘い香りを部屋に置けば、多少は気鬱がちな日々の慰めにもなるだろう。
食事の席でもレオカディオがいないだけで静けさが耳を打つ。どこか空々しい雰囲気はあっても、あの明るさはこの屋敷に必要なものだ。早く快復してくれれば良いのだが。
「次の晴れ間が来たら久しぶりに出てみよう。たまには兄たちの剣の稽古ものぞいてみたいしな」
「アダルベルト様もレオカディオ坊ちゃんも、剣の扱いについては大変優秀だと伺っておりますよ。若い頃の旦那様を思い出します」
それは初耳だったが、アーロンの年齢であればファラムンドが生まれるより前からこの屋敷へ仕えていたとしてもおかしくはない。であれば、父のことも子どもの頃から良く知っているのだろう。
ファラムンドは元々の体格も良いし、執務に専念しているとは思えないほど体躯をよく鍛えてある。筋肉の維持には継続した鍛錬が必要なはずだ。忙しく仕事をさばく傍らで、毎日何らかの修練を積んでいるのだろう。
「父上が剣を取っているところは、まだ見たことがないな」
「ふぉふぉふぉ、それはもうお強いですよ。まだアダルベルト様がお生まれになる前に、領地の北でいざこざがございましてな。お若い旦那様は自ら剣をお取りになって自警団を率い、前線で見事な戦果を挙げられました」
昔日を懐かしむように、アーロンはしわに埋もれた細い目をさらに細めた。
「父上はそんなに強かったのか、知らなかった……」
娘には多少甘いところを見せるようだが、普段は理知的で落ち着いた佇まいを見せる男だ。剣を取り勇猛に戦う姿はあまり想像できないが、常に体を鍛え続けているのは、有事の際に備えるためでもあるのかもしれない。実際、命を狙われるような立場なのだ。護身、自衛のためにも剣の心得があることは間違っていない。
その筋の良さをふたりの兄も受け継いでいるというなら何よりだ。あまり危険に巻き込まれてほしくはないが、いざという時に自身で身を守るすべがあれば安全性も上がるというもの。急な危機が降りかかった時、反射的に体を動かせるかどうかは日頃の訓練が物を言う。
広大な練兵場で日々武器を振っていた部下たちも、そうして己の生存確率を高めていた。生まれ持った資質だけで高みに上れる者など極一部だ。身へ浸透させた糧、たゆまぬ努力と研鑽の積み重ねこそ、本当に必要な時に役立ってくれる。
「ご安心を、リリアーナ様。今は安全ですから、旦那様が戦いに出られるなどありませんよ。怖い話をしてしまって申し訳ない」
「あぁ、いや、別に怖くはないぞ。知らなかった父の一面を教えてもらえて感謝している。領主の立場でありながら自らの鍛錬も怠らない、その姿勢は尊敬に値する」
「……ええ、今でも体を動かすと気分が晴れるそうです。旦那様はおいくつになってもお変わりなく」
口元へ手をあてておかしそうに笑う。おそらく若い日の出来事か、やんちゃだった子どもの頃でも思い出しているのだろう。覇気にあふれた瞳へどこか稚気を残すファラムンドは、もしかしたらリリアーナの前で見せる姿とは違う顔も持っているのかもしれない。
父も裏庭で体を動かしているなら、是非そちらも見学してみたいものだ。ヒトが戦っている姿というのは、キヴィランタへ通っていた武装商団と勇者しか見たことがない。そのため、未だヒトの平均というものがよくわからないままでいた。武力についても、魔法についても。彼らが相当なイレギュラーだということくらいはさすがに理解できるため、アレは特殊な一例としか見なせない。
そこでふと、視界の中に動くものがあって意識が引き寄せられる。中庭の葉揺れや小動物などではなく、廊下に張られた窓の向こう側だった。
水滴に濡れたガラスを隔て、西棟へ向かって歩いている男の横顔が見える。黒い癖毛に浅黒い肌。背筋を正し前を向いたまま……視線だけでこちらを見て、笑った気がした。
「あれは、たしか行商人の男か」
「ええ、たまにお屋敷へも出入りしている方のようですな。お若いのに行商人とは良く頑張っていらっしゃる、今は何かと危ないでしょうに」
「危ない? 魔物でも出るのか?」
「いえ、人の方ですよ。何でも金物強盗が出没しているそうで。あの方の扱う珍しい品などは標的にされやすいでしょうから、重々気をつけて頂きたいものです」
はて、『金物』とは具体的に何を指すのだろう。思い浮かんだのはナイフなどの刃物やカトラリー、銀食器、調理器具などだった。集めて鋳潰して何か作るのか、それともそのまま売りさばくのか。
強盗にも専門があるとは初めて聞いた。金銭や食料などよりも、それが欲しいという何か明確な理由があるのだろう。実に興味深い。
「街などへは押し入らず、街道に出没する類のものらしいですから、ご安心を。リリアーナ様はこのお屋敷におれば大丈夫ですよ。きっとすぐに旦那様や自警団の皆さんが捕まえてくれるでしょう」
「そうだな、自警団の者たちが捕縛に動いてくれているなら、任せておこう」
自警団と聞けば、黒髪の髭面を思い出す。あの事件から一度も顔を合わせていないが、キンケードは息災にしているだろうか。それからあの時に救助された若者、たしか名前はテオドゥロと呼ばれていた団員も。
キンケードと話すのは楽しかったから、顔を合わせる機会があればまた適当な会話を交わしてみたいと思っていた。いつか外出できるようになったら、また彼が護衛についてくれるのかもしれない。
……そう考えてふと理解に結びついた。おかしな強盗が出没しているせいで、リリアーナの外出が許可されないのではないか。
ぽつぽつと、頬に冷たい水滴が当たる。どうやらまた雨が降ってきたらしく、目の上に手をかざしてアーロンが空を仰いだ。
一緒になって見上げると、明るくなりかけていた雲は再び厚みを増し、先ほどより周囲も薄暗い。
「また降り出しましたな。濡れてしまう前にお戻りを、リリアーナ様」
「うん。アーロン爺も無理はするなよ」
老爺へ手を振って足早に石の通路を戻ると、中扉を開けたフェリバが待っていた。軽く髪と肩を払い、境に敷かれた網で靴裏の土を落としてから中へ入る。
「あちゃー、また降ってきちゃいましたね。リリアーナ様、濡れてませんか?」
「大丈夫、まだ小雨だから水滴に当たった程度だ。濡れた庭も中々風情があるから、良い気分転換になった」
「風情を理解しちゃう上に一番のお友達がアーロンさんとか、いくら何でも老成が過ぎませんかリリアーナ様ぁ……」
これ見よがしにため息をつくフェリバだが、彼女もアーロンのことを好いているのは知っているから冗談半分だろう。もう半分は本気で心配されているとしても、中身がこれなので老成と言われるのはどうしようもない。生きた年齢の合計だけなら、とうにアーロンを越えている。
中身が老いている件はともかく、友達と言われるとどこかこそばゆい思いがする。この屋敷で親しくしているのは家族と侍女、あとは侍従長とアーロンくらいなものだが、楽しく雑談を交わせる他人という意味ではアーロンだけが友人と言える間柄だろう。
キンケードも護衛の任を外せばそこへ加えられるかもしれない。いずれも職務という立場が対等な関係の邪魔をするが。
かつては、魔王である自分と臣下しかいなかった。そういう在り方として生きていたため疑問を差し挟む余地もなく、たとえ立場の上下があっても周囲の者たちが親しく接してくれたから十分だ。『魔王』と対等な者なんて大陸中を探しても『勇者』くらいなものだが、あれとは友人となり得るはずもない。
「……フェリバも、侍女の職務を休む日であれば、わたしの友人と言えるのではないか?」
「え、私もリリアーナ様のお友達でいいんですか、やったー!」
両手を上げて大仰に喜びを表現するフェリバ。おそらく何か持っていたら廊下の向こうまで放り投げることになっていただろう。
<わ、わ、わ、わ、私は、私はダメでしょうかー?>
「アルトも今は立派に友達だな」
<ヤッタ――――ッ! イヤッホ――ゥ!!!>
ポケットからはみ出たぬいぐるみの角がばたばた動くのを、上から潰して押さえた。昔はもっと落ち着きのある性格だったはずだが、
生前、よく話し相手になってもらった杖だが、かつてはそんな機能まであるとは想像もしなかった。たまには宝玉部分を外して楽にしてやるべきだったのかもしれない。振動機能もついているくらいだから、玉だけで好きな場所へ転がって行けるかもしれないし。
「ああ、そうだ。フェリバ、何やら道を塞ぐ金物強盗が出没していると聞いたのだが、何か知っているか?」
「金物……? あぁ、それ、武器の追い剥ぎって話ですよ」
「武器、なるほど。金物というのは武具の類を指していたのか」
「ですです。噂くらいしか聞いてませんが、道に立ち塞がって勝負を挑んでくるとか。一対一で戦って、勝ったらお前の武器をよこせーって言って。それを無視して集団でかかっても、強すぎて敵わないそうですよ」
何だか奇妙なことをする強盗だ。噂というからには何らかの尾ヒレがついているとしても、目的が武器の蒐集なのか、一騎討ちの方にあるのかよくわからない。そんなものに絡まれたらただの行商人などは困るだろうに。
「いつ頃から出没しているんだ、その変な追い剥ぎは」
「いつでしょうね? 今年の始め頃にはもう噂を聞いた覚えがあるんですけど。戦わなくても、降参して持っている中から一番良い武器を渡せば通してくれるって話ですし。あ、自警団のひとが囮として商人のフリしてたら、一騎討ちで負けちゃったって話も聞きましたねー」
「負けたのか……。なるほど、相手が神出鬼没な上に強いから、まだ捕まえられずにいるということだな」
そして、そいつが長期間に渡って不埒な強盗行為をしているせいで、道の安全が脅かされていると見てリリアーナの外出が許可されないのだ。許し難い。
道を塞ぎ、所持している武器を要求するということは、狙いは商人やその護衛なのだろう。いつまでも捕縛に至らなければ当然、他領との交易に差し障る。そのせいで自警団が侮られればキンケードの立場も悪くなるだろうし、彼らを従えるファラムンドの悪評へも繋がりかねない。
とても看過し難い状態だ。直接の手は下さずとも、何か協力できる方法はないか考えてみよう。この問題が解決すれば、きっとリリアーナの外出だって許可されるはずなのだから。
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