【八歳児の悪夢】

第43話 これからの課題


 ぽつぽつと水滴で濡れていく窓の外は、ついさっきまで差し込んでいた陽光が嘘のようにどんよりと暗く曇っていた。今年は少し雨が多い年になるのかもしれない。牧畜や耕作をしている領民たちは喜ぶかもしれないが、一日中じっとりとしている雨の季はあまり好きではない。だんだんと水滴の多くなる窓を眺めながら、レオカディオは湿ったため息を吐き出した。


 書き物机の端に置いた青い鉢には、今は秋桜が二輪咲いている。彩度が低い調度品の中でここだけ浮いているように見えるが、大して香りが強いわけでもないので邪魔にはならない。庭師の老人が花の選択を請け負っているのだから、その辺に間違いがないのも当然だ。枯れる頃になるとまた新たな花を用意されるのだろう。

 十歳記の誕生祝いとして末妹からプレゼントされたガラス製の青い鉢は、今は当のリリアーナと長兄のアダルベルトの部屋にも揃いの物が置かれている。品を見繕った雑貨店にはまだ同じ鉢があったと聞いて、後日改めてふたりの分を買いに行ったのだ。

 その頃は警備体制の見直しなどが重り、店へ赴くまでにひと月ほどかかってしまったが、雑貨店の店主らしい老婆はレオカディオを一目見ただけで「あの娘さんのお兄ちゃんかい?」なんて言っていた。お互い目立つ容姿な上、リリアーナはあの性格とあの言動だ。ひと月を経ても記憶に残っているほど買い物時に目立っていたのだろう。


 吐き出した息が秋桜の花を揺らす。

 兄と妹も、湿った自室ではこの花を眺めて心の慰めとしているのだろうか。真っ青なガラスと紅に染まる花の色が鮮やかすぎて、自分の部屋にはあまりそぐわないが。それでも鉢を受け取ってからの三年間、ここに飾り花が絶えたことはない。

 同じ花を見ているだろう相手を想い、安堵にも似た気持ちと苛立ちが同時にやってくる。

 ……本当は、買い求める鉢はひとつで良かった。揃いで同じものを持てるなら、口実としては十分だったのに。それでも三人兄妹なのだからという空気を読むことくらいはできた。全員で揃えなければ父や侍女たちにだって不審に思われただろう。


「ほんっと、邪魔だよね」


 障害物など全て排除してしまえばいい。そうは思うものの、視界に入らない場所へ追いやるには、まだ自分の年齢と力が足りない。手段に目算はついていても実行に移すまでには下準備も必要だし、一度失敗すれば後はない。

 あれはあれで、まだ役に立つ面があることも知っている。それまでは我慢をしてでも家族の一員として穏和に接するべきだ。この家のため、イバニェス領のためであれば、利に聡い侍従長をこちら側へつけることもできるだろう。

 天秤にさえ載せてしまえば父だって領の利益を取るに決まっている。

 早く自身の有用性を示し、提言を納得させるだけの成果をあげなければ。大人たちだけで勝手なことを決められてしまう前に。


 大切なものは、自分で守らなければ、奪われる。


「――……」


 強く瞼を閉じ、呼びかける。もう二度と返事が返ってくることもないと分かっていても。

 薄暗い昼下がり、強まった雨音が窓越しに小さな呟きをかき消した。






     ◇◆◇






 目の前に鎮座するのは、真っ白な楕円のプレートだった。

 その中央に乳白色の液体が小振りなグラスを満たしている。木苺の菓子を出された際にも使われた容器だ。上面には柑橘のジャムと、その皮を細かく扇状に刻んで鳥を模した飾りがちょんと鎮座する。

 くちばしまで作ってある精緻なもので、アマダの手先の器用さは一体どこまで伸びるのかと、畏敬の念を抱きながらリリアーナは小さな菓子をまじまじと観察した。


「今日のおやつは、ムースド・オランジュ、だそうです」


「オレンジの菓子か。たしかにいい香りだ」


 銀のスプーンを手に一口分を掬い取ろうとすると、グラスの中身からは意外な弾力が返ってきた。プティングよりも少し固い、不思議な感触だ。改めて掬ったものを一口。弾けるような柑橘の香りとそれを包むミルクの甘い匂いが口いっぱいに広がった。酸味はさほどなく、優しい甘みが舌の上でとろける。

 もう一口をスプーンに取ってよく見てみると、白い断面にはオレンジ色をした小さな粒がいくつも混じっている。果肉よりももっと小さな半透明の粒。自分の知らない果実だろうかと再び舌の上で溶かしながら咀嚼していると、ぷちりという食感と共にほのかな苦みに気がつく。


「あぁ、この粒はオレンジの皮か?」


「そうみたいですね、いい香りがします。何か、海草も使ってるらしいですよ?」


「か、海草……?」


 かつて耕作の肥料に良いという情報を得た時に海から引き上げさせたことはあるが、その際に見た色の濃いてらてらした植物と、眼前の洒落た菓子とが全く結びつかない。一体どんな精製や工夫をしたらこんなに美味なものに変化するというのか。まるで想像がつかない。


 日々おいしい食事を提供してくれる厨房長とは、一度対面で話をして労いもしたいと思っているのだが、未だに面会すら叶わない。どうも直接会うことを本人の方から遠慮されている様子なので、こちらから厨房へ乗り込むこともできず何年も経ってしまった。

 未だ見ぬアマダへ礼を伝えたりリクエストを送るのは、専ら侍従長を介した手紙でのやりとりとなっている。

 どうも五歳記のあたりから弟子が増えたらしく、屋敷の裏側にある使用人の出入り口はここ最近人の出入りが増している。アマダが新しく作ったレシピや素材の調理法の一部は街の料理人へも伝達され、飲食店の賑わいに一役買っているのだとフェリバが誇らしげに語っていたのはつい最近の話。才能を持った者が正当に評価されるのは喜ばしい限りだが、あまり有名になりすぎると中央へ引き抜かれたりしないか心配だ。


 そのうち海草の使い方についても手紙で訊いてみよう、と心の内へメモをしながらスプーンのジャムを舐め取った。甘みを抑えた爽やかな舌触りはつるんとした乳白色部分との相性が良い。飾り切りの鳥もおそらく食べられるのだろうと、ジャムと一緒に口へ含めば、ほろ苦い甘さと一緒に弾けるような香りが鼻腔を満たした。

 淡い花の香りも気に入っているが、果物の香りも好ましい。たしか化粧品の一種に香りをつける品があったはず。いつかそれらを使う機会が来たら、果物の匂いがするものを選びたいなとぼんやり考えた。



「……はぁ。先日のジュレもうまかったが、これもすごくおいしい。柑橘の匂いは好きだな」


「リリアーナ様は甘ーい花の香りが似合いそうですけどね、私も柑橘系の香り好きですよ。たしか旦那様がお出かけの際にご使用なさってる香水に、柑橘系のものがあるんですよ」


「父上が、この匂いを?」


 フェリバの言葉に驚き混じりの声を返す。それは気がつかなかった。ファラムンドが会合などの用事で屋敷を出るのは早朝が多く、あまり見送りの機会がないせいでもあるが、そもそも父と一緒に出かけたことがないからそばで匂いを嗅ぐ機会もなかった。

 以前、壊れた馬車の中で接したことはあるけれど、あの時のファラムンドからはもっと違う匂いがした気がする。思い出してみようとしても、血臭に紛れてあまりよく覚えてはいない。


「あんまりプンプン匂いをまき散らしてるのは好きじゃないですけど、紳士が身だしなみとして纏う香りって素敵ですよね!」


「身だしなみ……なるほど」


「香水は贈り物の定番ですし、そのうちリリアーナ様もたくさんプレゼントされますよ。鏡台にキレイな小瓶いっぱい並べたいですねー」


「あなたがそうしたいだけではないですかフェリバ。……リリアーナ様、お茶のおかわりはいかがでしょう?」


「うん、もらおう」


 トマサによって淹れられた香茶は、朝のティータイムや食後に飲むものより幾分さっぱりとした香りのものだ。肺腑を満たすような、豊かな香りの香茶も気分が落ち着くから好んでいるけれど、おやつを味わった後はこういうすっきりとした飲み口のものがよく合う。

 幼い頃からちゃんと茶葉を使い分けて淹れてくれていただろうに、そうした香りの差異に気づけたのは最近になってからだ。父の手配により少し高級だという茶葉も部屋に用意されているが、こちらは特別な時にしか開けることはない。我ながら貧乏根性だという自覚はあれど、やはり特別なものは特別なタイミングで味わってこそだと思う。




 リリアーナ=イバニェスとしての生を受けて早八年。身体だけではなく、味覚や情緒もそれなりの成長をしてきた。

 ヒトとして生きる上で必要な様々な事柄を学んだのに加え、経験を重ねることで学習したものも多い。十五歳まであと七年もあるため、まだまだ子ども扱いを抜けないものの、だいぶヒトの生き方というものが理解できてきた気がする。

 見た目の成長はわかりやすくても、自身ではもっと他の部分に最たる変化を感じている。

 それは、感情だ。

 ヒトの情緒は揺らぎやすく、またそれが大きければ肉体へも多大な影響を及ぼす。三年前の事件の折に身をもってそれを痛感して以来、どうにか上手い感情のコントロールや抑制ができないものかと研鑽の日々を過ごしている。


 喜怒哀楽、大まかに分けられる四つの感情はいずれも危険だ。

 特に『怒』と『哀』は、行きすぎると命に関わるということまで判明した。安全に、平穏に、かつ健康に人生を謳歌するには感情をなるべく平坦に保って過ごす必要があると考える。


 そんなことを無人の書斎で語っていると、机に乗ったアルトは角を前後に揺すりながら上体をかしげた。


<怒りと哀しみはわかりますが……、喜んだり楽しんだりするのは、なぜ危険なのでしょうか?>


「……感動しすぎて目と鼻が痛くなるのは、もう控えたい」


 ファラムンドの執務室で醜態を晒してしまったことは、未だに思い出すと羞恥のような感情が沸き起こる。いや、もしかしなくてもこれが羞恥なのかもしれない。顔面に血が上り、思い返すたび頭を抱えて消えてしまいたくなるような行き場のない情動。正直あまり繰り返したくはない。

 その件が『喜』に該当するだろうし、かつてカミロが死にかけた際、何とか修復が間に合って一命を取り留めた時には安堵からまた泣いてしまった。あれが『楽』だろう。

 大きすぎる感情は一度箍が外れると、理性ではもうどうにもならない。ヒステリックに叫ぶ吸血族ダンピールの臣下や、怒りで我を忘れて暴走する鉄鬼族の手のつけられなさは既に見知っていたが、自分で体験してみると改めてそれがよくわかった。


「感情の変化を否定するわけではない。せっかくヒトになったのだから、ヒトらしい情緒も体感したいしな。だが、コントロールできなければ身体へ影響が出るというのはいただけない」


<幼少期はそれが顕著でしょうから、もうすこし大きくなられたら幾分落ち着かれるかと>


「うむ、十五歳まであと七年か……これまでの生の倍近くあるな」


<ゆっくりいきましょう、リリアーナ様。もう今は外敵だとか命を狙われるといった心配もないのですし>


 どこか憂慮を含ませた思念の声に、リリアーナは開いていた図鑑から顔を上げた。青灰色のぬいぐるみは表情を変えることはない。思念波だって意図を伝える以外に、感情が乗るなんてことはほとんどありはしないのに。

 フェリバによって中綿を詰め直されたアルトは、最初に手にした時よりも少しふっくらとして丸みが増した。そのせいか、目のボタンも角の配置も変化はないはずなのに、どこか愛嬌まで嵩増ししたように思う。

 机に頬杖をつき、垂れた角をむぎむぎと握る。


「お前には心労ばかりかけるな。大丈夫だ、ここには味方も多いし、身分も安定している。うまいものをたくさん食べて長生きしたいのだから、これくらい平和でないと困る」


<……はい。楽しく、平穏な暮らしを送られていて、何よりでございます>


「父上たちには、どうも命を狙われるような危険が付き纏うようだが。わたしがもっと大人にならねば事情も説明してもらえないし。今できることをしていくしかない」


<そうですね。リリアーナ様はまず健やかに育つことが、何よりも優先されるかと>


 付き合いの長いアルトは、それでも何か思うところがあるらしく角を垂らしたままでいた。

 平和に見える生活の影に、懸念事項がいくつかあることは否めない。だが、いずれも今の自分が思い悩んだところで仕方のないことだ。立場も、権限も、何もかもが足りない。歳を重ねて見聞きできる範囲が広がっていけば、いずれきっと、そうした影にも手が届く。

 並んだボタンの上、額の部分を指で弾くと、ぬいぐるみは重りの宝玉を支点にしてぐらぐらと前後に揺れる。


「これからも頼りにしているぞ」


<は、はいっ、お任せをー! 私にできることでしたら何なりとー!>


 そのまま小刻みに揺れながら、アルトはいつも通り威勢のいい返事を飛ばしてきた。


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