第38話 崩落④


 三ヶ月前に訪れた聖堂での出来事を思い返す。


 リリアーナが唱えた聖句、そこに含まれる意味のない精霊語パスディオマの音に漂う汎精霊たちは喜び、燐光を散らしながらくるくると舞い踊っていた。

 古くからヒトの領域で唱えられてきた聖句ならばここの精霊たちにも馴染みがあるし、喜ばれることは実証済みだ。古言語イディオマの響きが懐かしいのか、それとも音階が彼らの好みなのか、聖句の成り立ちを知らないリリアーナには理解の及ばないことだった。


 そこに意味を含まない音でも、汎精霊たちを喜ばせることは叶う。

 だが、それだけではまだ足りない。


「意味がないのなら、意味を与えてやればいい」


 ――ヒトの聖句を、『精霊語パスディオマ』に。


 覚えさせられた聖句の音はすべて諳んじることができるが、今この場で必要なのはそんなものではない。

 言語を解さない精霊たちへ、こちらの意志を伝えて動かす。自分とアルトだけでは出力の足りない、巨大な構成を回す手伝いをしてもらわなくてはならない。

 ヒトの間で長く伝わってきたという音に、詞に、意味を持たせてやる。


 一度岩の陰へ身を隠し、キンケードの指示によって自警団の者たちが馬で駆けて行くのを見送ったリリアーナは再び岩場の縁へ立つ。

 吹き付ける乾いた風が、ワンピースの裾と結った髪を激しく揺らす。けぶるほど濃い土の匂い、混じる砂埃に目を眇めながら眼下を睥睨した。

 削れた峰を、積もった土砂の山を、途切れた領道を、その下に父たちを押し潰している全てを視界へ収める。

 広大ではあるが認識可能な面積だ。効果範囲を確認して、両眼への集中を高めながら大きく息を吸い込む。


 ――詞を。 精霊たちへ捧げる唄を。



謳えԹౠ౬౬ 謳えԹౠ౬౬ 光の梢էయయ ఎص ――』



 平坦な音階、忘れられた言語。

 旧い記憶の中へうずもれた音の羅列に、今、意味が吹き込まれた。



廻れխఅఅ 廻れխఅఅ 夜の階Նకకء ౠ――』



 リリアーナが詞を唱えるたび、大気中へ散っていた精霊たちがぽつぽつと光を纏う。

 地中に潜んでいた精霊たちが歓喜に拍動する。


 懐かしい音、自分たちへ贈られる詩。

 かたちを持たない小さなものたちが心地よいその調べに乗って現出し、リリアーナの周囲から空へ、山へ、土へ。

 無限の孔へ収まる範囲のすべてに、小さくも力強い光の粒子が舞い踊る。



翔けるֆسس 翔けるֆسس 風霧のՁփبււ誼はここにĦةش ش――』



【この視界へ映るすべてを、我が領土とすることを宣言する】


 煌めく名もなき力の破片たちへ、境界を引き切り取らんとする大地へとそう宣う。

 魔王の目、無二の精霊眼へ映した風景。それを効果範囲と定め、虹彩へ描かれた紋様がその権能を露わとした。

 瞳を虹色に輝かせながらリリアーナは両の手を高く、頭上へ広がる空へ向けて掲げる。



 浮かび上がったのは線。


 線は繋がり大きな真円となる。


 円は次第に輪を広げながら、その内側へ緻密な構成をえがきだす。


 見上げる先、上空へ浮かんだ巨大な構成陣と、それを中心に燐光を散らし続ける汎精霊たちの輝きの奔流。


 その現実離れした光景を、キンケードは口を開けたまま、パストディーアーは楽しくてたまらないといった表情を満面に浮かべ、小さな背の後ろで見守っていた。




 永き時を渡るパストディーアーから見ても、第六十七代魔王のデスタリオラは奇異なる魔王だった。

 平和にかぶれた者なら過去にいなかった訳でもないが、デスタリオラのそれとは種類が異なる。

 自領へ侵攻しようとする者へは容赦がなかった。ヒトを殺すことだってある。配下を処刑したことだっていくらでも。

 時に冷酷に、判断は冷淡に、成すべき事を成し遂げるための障害に対しては、手加減すら放棄するような極端な面も持っていた。


 それでも、冷酷さだけでは他の魔王に大きく劣る。

 所持する力の多寡でも語るに及ばない。

 知略に関してだってさほど抜きん出ていた訳でもない。

 もっと強大な魔王、もっと凶悪な魔王はいくらでもいた。


 そんな中でデスタリオラは、素質には特に秀でた部分のない平凡な魔王でありながらも、尽きない探求心と試行錯誤を苦としない『勤勉さ』だけは他に類を見ないほどのものを持っていた。

 それらは資質などではなく、おそらく性格由来のものだ。だからこそ、パストディーアーは面白いと思う。用意された器の能力に依存しない、個の精神の性質。

 そういう性格の者が、たまたま魔王として生まれてしまっただけ。ただそれだけのことが、長い歴史の中でも有り得なかった特異な魔王を生み出した。


 大地へ降り立ち、存在した瞬間から大陸最高の能力を保証されている『魔王』には、研鑽も努力も必要がない。

 初めから全ての力が最高値なのだから、それ以上を望んでも変化はない。そんな無駄なことに時間を割く魔王などただのひとりもいなかった。


 だが、研鑽と努力は無駄ではなく、新しいものを生み出すきっかけなのだと信じる者がいた。

 能力の上昇がなくとも、別の何かを作り出せるなら決して無駄などではないと。尽きない探求心を持ち、結果が出るとも知れない試行錯誤や思索が大好きという、風変わりな性格を持って生まれた魔王が。



 回転しながら滞空を続けていた円は、円周を拡大しながらその内側へ次々に精緻な構成を描いていく。

 それはさながら緻密なレース編みのようだ。ひとつの意志を乗せるだけで十分に機動するというのに、細かく細かく効果を積んでいく。

 以前であれば瞬きの間に描き出していた構成だが、さすがにヒトの子どもとなった今は手間取っているらしい。

 その美しくも幻想的な描画のゴールに、大精霊はうっそりと微笑む。

 光点から線へ、線から円へ、円から円盤状へと姿を変えた構成は、今や頭上を覆い尽くさんばかりの巨きさへと広がっていた。


 そして。大円は自身を複写して三層となる。

 三層に重なった構成円は天と地へ向けて、果てない光を打ち出した。


「なっ……なんっだありゃぁ……!」


〘イイもの見られたわねぇ、お兄さん。一生モノよ?〙


 傍らで愕然と空を見上げる髭面の男へ笑いかける。効果範囲内にいるため、ただの目しか持たないヒトでもあれを視認できているのだろう。


 それは、巨大な光の柱だった。

 遙か天を貫き、地の奥深くまでを貫通する立体構成陣。


 ただの多層陣であれば、その層の多さや巨大さを誇った者はいくらでもいる。百を、千を、万を描いて重ねたと。

 構成は『編む』ものであり、陣は『描く』ものだ。大きさや精密さに差こそあれ、総じて平面に描かれる。どれだけ魔法を得意とする者でも、たとえ魔王であってもその摂理に例外はない。

 ……だからこそ、円の構成を描いた面の状態から、光を照射して柱にする、陣に体積を持たせるなんて馬鹿げた発想をし、さらにはそれを実現してしまった魔王なんて、デスタリオラ以外に歴代でひとりもいはしない。


 初めて目の当たりにする巨大な構成柱に、集った汎精霊たちは歓喜した。

 驚き、悦び、眩い白光が一層強まる。

 面に描く構成は地表付近に漂う精霊たちを従えよう。

 だがそこに体積を伴えば、天は遥か成層圏、地はヒトに認知不可能な深層までを貫き、その総てを領域と宣言することが叶うだろう。


〘あぁ、やっぱりアナタは最高だわ、リオラちゃん〙


 発想の転換と実行。たったそれだけのことで、自分たちへこれまで知覚しなかったもの、これまでになかったものをいくつも見せてくれる。

 精霊に愛される魔王、その本当の理由を未だあの子は理解していないとしても。

 その瞳をあいしている。その希有なる魂を心からいとおしいと。


 もっともっともっと、楽しくて面白くて爽快で悦ばしくて心地よくて嬉しくて愉快でたまらないものをワタシたちに魅せておくれ!




 リリアーナの召集と宣言に倣った汎精霊たちが、喜びに湧きながら同意の光を返す。

 それを受け、円陣に向けて手を掲げていた少女は、己の望みを高らかに告げた。



【この領域を、ただちに陽が昇る前の状態へ戻せ】



 精霊たちには時間の概念がないため、細かな指示は難しい。また、犯人が何らかの仕掛けを施していた可能性があるため、直前までの状態へ戻すのは危険だと判断したリリアーナは半日前を復元点に指定した。

 命を蘇らせることは不可能でも、状態の復元くらいであれば相応の魔法を使えば容易い。その場を記憶している土着の精霊たちが協力してくれるなら尚更だ。


 リリアーナの支配下に降ることを了承した精霊たちは、あふれるほど元気に輝きを放ち、たちどころに崩壊した全てを修復していく。

 岩も土も元あった場所へ。倒木も生えていた位置まで。ひび割れた道は昨晩までの整備された姿へ。

 眩く照らされる効果円の範囲のみ、時間が戻されるように目まぐるしく変化し、冗談のような質量の土砂が持ち上がって削れた峰へと吸い込まれていった。

 宣言からほんの十数秒ほどの出来事だ。



「……っは。疲れた」


 リリアーナが短い息を吐き、掲げていた腕を下ろすと、終息した復元と共に上空で回り続けていた構成陣も姿を消した。

 役割を終えた光の柱が空気中へ溶ける。

 ぱたりと、一瞬の間に汎精霊たちの煌めきまでも霧散する。崩れ落ちていた全ては元に戻った。

 倦怠感の渦巻く体から力を抜き、復元された領道を見下ろす。


 ……後に残ったのは平坦な道と、そこに転がる無惨な死体。

 馬車の破片、砕けた窓、転がり落ちた車輪。『陽が昇る前』までこの場になかったものだけが、領道の上に転々と残されていた。


「あ……あ、あぁぁっ、……ちくしょうっ!」


 それまで目の前で繰り広げられる現象を呆然と眺めていたキンケードが、言葉にならない呻き声を漏らし、地面を殴りつけて立ち上がった。

 広い道の上に残された異物。潰れた馬の死骸と、そのそばに転がるヒトの死体――であったはずの残骸たち、いずれも見覚えのあるものだったのだろう。


 この距離では顔の判別まではできないが、いずれも揃いの服を身につけていることから自警団の者だとわかる。四肢がちぎれ、すり潰されて分散している部位もあるため確かとは言い難いけれど、その遺体の数はおそらく三人分。

 護衛でついて行ったのはもうひとり。それから御者と侍女、ファラムンドとカミロが馬車にいたはず。

 震える膝が思うように動かず、半ば倒れ込むようにして駆け出そうとするキンケードの裾を掴んだ。


「待て、わたしも、連れて行け!」


「嬢ちゃん、だがな……、あぁぁ――っもう! わかったよ、何見ても知らねぇぞ!」


 キンケードは苦虫を噛んだ厳しい表情のまま、裾にしがみつくリリアーナを引き剥がすと片手に抱き上げた。少し離れた場所で未だ落ち着きなく足踏みしている馬をちらりと見てから、乾いた斜面を駆け下りる。

 土煙を上げながらかかとで滑り、時折飛び出た岩に足をかけて切り立った部分を飛び越え、膝のばねで衝撃を殺しながら器用に岩場を下りていく。

 先着の自警団員たちは、もう少し横手の傾斜が緩やかな部分を下りたのだろう。乗ってきた馬が未だ落ち着きを取り戻していないため、キンケードは最短距離を足で下りることを選んだらしい。

 地表へ残留する汎精霊たちが、興味深げに周囲をちらちらと舞う。


 岩を蹴るたび伝わる衝撃に耐えながら、視線は馬車へ。

 車輪が砕け、支柱はひしゃげ、屋根は潰れてもはや原型を留めてもいない箱へ。

 それは決して棺桶などではないと念じながら、息切らす肩をつかまる腕へ力を込めた。


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