【転換の光柱】
第27話 本の虫
「……以上が、第三十二代聖王、エシーロ聖王陛下の御代にて施行された主な法令となります。何かご質問はございますか?」
語り終えた歴史の教師がこちらに振るが、比較的辣腕であった先代の政策をそのまま続けただけの、保守的な王だなという感想しかない。それだけで凡才と評することもできないが、在位二十余年の間、大きな災害や魔王の侵攻などの問題に見舞われず何よりだ。
「特に気になる点はない」
「そうですね、お嬢様はご自身で歴史書なども読まれますし、そちらの方が詳細に記されているでしょう……。ははは、もう来年あたりは私など不要になりそうですな」
「いや、先生の語りはとても聞き取りやすいし、説明もすっと入ってくる。差し支えなければ、これからも色々と教示願いたい」
薄茶の髪に白髪が混じり始めている壮年の教師。やや謙虚すぎることと、熱くなりすぎた際に際限なく脇道にそれて語り続けてしまう点を除けば、人柄も語り口調も穏やかな接しやすい人物だ。
たしかに専門書を読めば欲しい情報を詳細に得ることは叶うが、手元で教本を開きながら教えを受けるのも、新鮮な心地がして悪くない。今日のように飛ばして問題のなさそうな部分は簡潔に、重要な要素は微に入り細にわたって教えてくれる、そういった選択面でも信頼のおける教師だった。
「ほ、え、あ、いやいやいや、お嬢様にそんなことを言われると照れてしまいますね。私などでよろしければいくらでも。さて、今日はこの辺にしておきましょう、大事な読書の時間が削られてしまいますからね」
「だから、その……読書は好んでいるが、授業をないがしろにするつもりもないぞ?」
あまり説得力のない言い訳をしてみても、柔和な笑顔で流されてしまう。授業自体は集中して聞いていたつもりではあるが、この後に書斎へ行けるのを楽しみにしていたことは、完全に筒抜けだったようだ。
「では、また三日後に。何か面白い本を読まれましたら、後で私にも教えてください」
「わかった」
教師が退室するのを見送り、机の上の冊子類を重ねてインク壷のフタを固く締める。今日の座学はこれでお終いだ。
アルトを手にして椅子から下りると、わかっていますとばかりにフェリバが扉を開けた。「書斎へ行く」と伝えなくても、そのまま笑顔で先導をはじめる。
……まぁ、見守られていると思っておけば、どうということもない。教師や侍女たちの視線が若干生温かく感じるのも、きっと気のせいだろう。
「お時間になったらまたお迎えに参りますが、延長はナシですからね」
「わかっている。鍵を取り上げられる訳にはいかないからな」
五歳記の祝いから早三ヶ月。毎日欠かさず書斎へ行って本を読むのが、最近では何よりの楽しみとなっていた。
だが鍵を手に入れた直後のこと。やっと書斎へ入ることが許された嬉しさとその蔵書量に感動し、連日に渡って長時間の読書を続けた結果、侍従長とトマサに叱られてしまった。食事や習い事の時間は守る、書斎へこもるのは一日に二時間まで、部屋に本を持ち帰っても就寝時間は厳守。……もしそれらを破ったら、書斎の鍵を没収すると言う。
ふたりともやっと叱ることができたと言って、怒るよりもなぜか喜んでいる節はあったけれど、幼児の体でいるのをすっかり忘れて読みふけってしまったのは自身の失態だ。新たな本を手にする歓びのあまり、つい羽目を外しすぎたと反省もしていた。鍵を取り上げられては困るから、それ以降は決められた時間内の読書で我慢をしている。
アルトの首に下げた、小さなチャームのような鍵を指先で摘む。
ファラムンドが用意してくれたキーチェーンもあるのだが、なくさず持ち歩けるようにと、フェリバが手持ちの細いリボンを使ってぬいぐるみの首……顔の中央辺りに下げてくれた。これなら紛失の心配もないし、万が一ぬいぐるみごとどこかへ落としても、アルトが思念波で教えてくれるだろう。
施錠された扉を開き、古びた紙とインクの匂いを肺腑いっぱいに吸い込む。書庫特有のしんとした陰気さは立ちこめるものの、まめな掃除がなされており埃っぽさはない。場所は変われど本の匂いはやはり落ち着く。
キヴィランタの魔王城の地下大書庫も、規模こそ異なるが同じような雰囲気を醸していた。城がいくら破壊されても守れるように地下深くに設えられた書庫は、精霊たちによって室温と湿度が管理され、どれだけ古い本でも状態が保持されている。
大事なものは大抵
「もう二度と城の書庫に行けないのは残念だが、こうして屋敷の書斎を利用させてもらえるだけ有り難い。市井に生まれていたら、こうはいかないだろうからな」
<かの大書庫と比せばちっぽけなものですが、リリアーナ様の無聊を慰めるに足る本があるのでしたら幸いです>
「こら、お前の書斎というわけでもないのに、そういうことを言うのは感心せんぞ」
<申し訳ありません。どうぞ、本日も読書をお楽しみください>
「うん、今日はこの辺の植生について調べてみようかな」
時間がいくらでもあるなら、棚の端から順番に全て読みたいところだが、現在の状況を鑑みるにそうもいかない。寿命以前の問題として、領主の第三子、それも娘として生まれた自分がこの屋敷にいられるのは、あと十年余りといったところだろう。読書は一日二時間に限定されているのだから、興味のあるものと勉学に必要なものに絞って読まなければ、あっという間に刻限がきてしまう。
限られた時間を惜しむように、リリアーナは見つけだした本を長机に乗せてさっそく読み耽った。
「リリアーナ様、お時間ですよー」
「はっ?」
紙面から顔を上げ、信じられないという思いのまま口を開けて声のした方を振り返る。ついさっき書斎まで案内してくれたフェリバが、机のすぐ横に立っていた。
「そんな、まさか、そんなはずが、……今読み始めたばかりだぞ?」
「毎回それ言いますよね。書斎にいるリリアーナ様はちょっと面白いです」
「いや、待て……もう二時間? 嘘だろう……?」
「ホントですよ」
カーテンの閉められた窓へ視線を向けても、隙間から床へ落ちる日の光は読み始める前と全く変わらないように見える。腹も空いていない。やはり二時間も経っていないのでは?
そこから頭をぐるっと回してフェリバの顔を見上げると、諦めろというように首を横に振られた。
「諦めてください」
「ぐぬぅぅ……」
「そんな可愛いうなり声あげてもムダですー」
「わ、わかっている。この続きはまた明日にする」
開いていた本へ栞代わりの紙片を挟み、名残惜しさを感じながらも静かに閉じた。
「あれ、お部屋へ持ち帰らなくてもいいんですか?」
「寝る前に読んでいるものは、まだ続きが残っている。それに、この本は重いからここで読んだほうがいい」
書斎から借りて部屋で読む本は、重量以外にも綴じの部分や紙が痛んでいないもの、表装が丈夫なもの、挿し絵が載っていないものを選んでいる。持ち出しで損傷してはいけないし、挿し絵や図案のページは手描きのものが多いため、光や空気に触れると劣化が早まるのだ。
この書斎は精霊たちの守護がなくとも、本を保管し読むために光量などが調整されている。それらの本は持ち出さずに、ここで開くほうが良いだろう。読みたいからといって代々大事にされてきた本を痛めるわけにはいかない。
「そうですねー、まだリリアーナ様にはこの大きさの本を読むのは大変でしょうし」
「……ページをめくるのに、少し時間がかかるくらいだ」
「椅子にかけて片手で持ちながら読めないですもんねぇ」
「……膝の上に乗せて読めば何とかなる」
わざと意地悪なことを言うフェリバを、じっとりと横目で見る。いつも通りの健やかな笑顔からは悪気の欠片も感じない。こちらがむくれるのをわかっていて、あえてからかっているだけなのだろう。
もっとたくさん食べて体を動かして早く成長しなくては。どれもこれも全て、小さすぎるこの体が悪い。机の上に置いているアルトのツノが楽しげに揺れているように見えて、苛立ち紛れに思わず強く握ってしまう。
<きゅぷッ>
砂時計を思わせるフォルムに溜飲が下がる。八つ当たりなど不毛でしかないが、このぬいぐるみの柔らかさは握っていると気持ちが安らぐ。にぎにぎと揉んでみてもいつも通りだ、やはり動いているように見えたのは気のせいだったらしい。
アルトを一度机の上に戻し、高い椅子から両足で下りて本を元あった場所へ戻しに向かった。
「お勉強は本を読むだけでも足りるかもしれませんが、他の習い事はそうもいきませんからね。お食事の後はまたお歌の先生が来ますよ、頑張ってください」
「また歌か……。やっと聖句の授業がなくなったと思ったのに、中々楽しい授業ばかりとはいかないものだな」
「リリアーナ様、お声はキレイなんですから、ちょっと慣れればすぐ上手になりますよー」
フェリバは「ちょっと」と簡単に言うが、そのちょっとが難しいのだということはきっと理解できないだろう。少し前に部屋で歌わせてみたら、トマサとカリナも目を丸くするほど美しい歌声だった。もちろん自分の目も丸くなっていたに違いない。
耳を撫でる涼やかで柔らかい声音。音程もきちんと曲調に沿っていたし、高音の部分も難なく歌い上げる様は、熟練の歌姫もかくやという見事な歌唱だった。聞けば誰に習ったわけでもなく、小さな頃から歌うのが好きだっただけと言う。
……持つ者に、持たざる者の気持ちはわからないのだ。
別に歌の授業が嫌というほどではない。上手くできないからといって避けるのは大人げないというもの。今は幼児だが、そんなことを言い訳に習い事を回避するわけにはいかない。きっと先々のためになると思って父がつけてくれた教師なのだから、しっかり学んで必要分は身につけなければ。
この先、歌唱が一体何の役に立つのかは未だ知り得ないが。
先導して廊下を進む侍女に悟られない程度の小さな嘆息を吐き出し、ふと窓の外へ視線を向ける。磨き抜かれたガラスの向こう、中庭で水やりをしている庭師の姿が目に入った。
あのそばの花壇には、つい先日芽を出したばかりのナスタチウムが植えてあったはず。
「フェリバ、部屋へ戻る前に少しだけ中庭に寄ってもいいだろうか?」
「お散歩ですか? わかりました、私は先にお部屋へ行ってきます。後でまたお迎えに上がりますね」
部屋では昼食の準備が進められている時間だから、それを調整しに行ってくれるのだろう。
五歳記の日より、夕食は父や兄たちと一緒に食堂でとるようになったが、それ以外はこれまで通り部屋に用意される。おそらく起床や授業の時間が異なるため、朝と昼は個別に用意するのが慣例なのだ。夕食だけでも食堂に揃って同じものを食べられるようになったのは、ファラムンドが語った通り、五歳記を経てようやく家族の一員として認められた証だろう。
そういった理由で夕飯に限り時間厳守でも、朝と昼ならば多少支度を待ってもらえる。予定をずらしてしまって侍女たちにはすまないが、そう時間はかからない。ちょっとした息抜きに、庭師の老人と話をしながら植物を眺めてこよう。
リリアーナは一階のエントランスで一度フェリバと別れ、ガラスの張られた両開きの中扉を開いた。
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