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 米田はその質問に何と答えて良いものか、紗世の目を見てずっと立ったままだ。今の二人には球児たちの練習している声など全く耳に入らない。そして言葉を選ぶように米田は話し出した。


「私も出来ることなら最低限の治療をしてあげたいんです。でも……」

「でも?」

「一度そうしたらその人のことを好きだなんて他の人から勝手に決めつけられて揶揄われたんです。それが校内中に知れ渡って……」


 紗世は上を向いてため息を吐いた。米田は紗世と違い立ち向かうという性格ではない。それならば毎日練習前の朝礼の時にでも言うべきだと思った。しかし出来ることなら米田を押しつけるようなことだけはしたくはない。


「それで源田監督には相談したの?」

「監督は非常勤で練習の時以外はいないので……。それにこんな場合どう相談したら良いかも……」

「ねえ米田さん。あそこに岸田って選手いるでしょ?彼もね人に歩み寄る姿勢なんて持ってなかったの。それで一人で閉じこもってしまってね、いっぱしな体つきになっていたのに私から聞かされるまで自覚もしてなかったんだ。それで思ったの。一人じゃ限界があるって。でも米田さんはそんな噂話に惑わされずにマネージャーとしてしっかり努めてる。どうかな、そろそろ監督に自分の意思を含めて相談してみても良いんじゃない?」

「良いんでしょうか…。監督へそんな相談しちゃって」

「当たり前じゃない。野球はチームプレイだけど、サポートがあってこそ成り立つものだと思うの。だから米田さんの存在はとても重要なの。ダメだよ……。一人で考え込んじゃ」

「でも、相談しても結局意味がなかったら……」

「大丈夫よ。万が一そうなったらこんな野球部に尽くす必要はない。ムカつくじゃない、真面目な人がバカを見るなんて。その時は辞めたら良い。そんな結末になったって米田さんを軽蔑する人なんていないから。だからまずは監督へ相談してみない?それで言いたいこと言おうよ……。監督も今までのあなたのマネージャーとしての頑張りを見てるはず」


 米田はどうしても踏ん切りが付かない。一人で多くの男子に立ち向かうなんてとても勇気がいる事だと思う。紗世もその気持ちが分からなくもない。紗世の時は逆に貫禄があり機嫌の悪い時は近寄って来る球児すらいなかった。しかし球児への気配りだけは怠らなかった。


「もし一人じゃ不安なら私も一緒に監督へ言ってあげる。任せて!」


 米田の瞳には次第に涙が出そうなほど充血していた。相談出来る相手がいなかった彼女にとって紗世の最後の言葉がとても嬉しかった。正しいことをして変な視線を浴びることほど歯痒いものはない。その思いを理解出来る人にやっと会えた。そして米田は両手で目を隠し泣き始めた。今まで肩に溜まっていた不快感を流し出すように。そんな彼女を紗世は優しく抱きしめてあげていた。

 この日最後の練習メニューは近くの小さな山にある神社へと上る階段ダッシュだ。一平は高校一年生の時この急勾配に連なっている階段を走るしんどさに慣れることはなかった。そのために久々に見るこの光景は決して嬉しい再会ではない。そんな一平の不幸を喜ぶような紗世はまた悪い性格が出ていた。


「なあ、やっぱオレここもう十本追加しなきゃダメか〜?」

「当たり前じゃな〜い。心肺機能を鍛えるのも大事なんだからさ〜。私そんな難関に立ち向かうカッコいい一平を見たいなぁ」


 そんな二人の会話をよそに源田監督は口にくわえているホイッスルを鳴らし、それと同時に『アアァーッ!』と言いながら球児たちが二人ずつで階段ダッシュを始めた。待っている一年生の数人は上がりきれるか不安の色を隠せずに口を開けて見ている。しかし彼らは決して弱音を吐かない。この辛さを乗り越える先に必ず得るものがあると信じて。そして先ほど涙を流した米田は監督の隣で檄を飛ばしている。慣れない声出しをしている米田は必死だった。紗世はそれで良いかどうかまでは分からなかった。そしていよいよ一平の出番が来て念入りにストレッチを行なっている。先ほどまで見せていた不安そうな表情ではない。そして勇ましい一平の目線は一瞬だけ紗世へと向けて源田監督のホイッスルが鳴ったと同時に走り出した。駆け上がる速さはもう高校球児たちとは比べ物にならない。紗世や源田監督、そして階段ダッシュを終えて下りて来る球児たちはその速さに驚きを隠せない。育成枠で入って今日まで練習してきたことは決して無駄ではなかったことを監督と紗世は思い知らされた。


『なによ……。不安がる必要ないじゃない……』


 この日の練習が終わり球児たちはまるで一年間の練習を無事に終えれたかのような安堵感を浮かべながら寮へと戻って行く。一平も追加分の階段ダッシュを終えているがまだ顔に余裕がある。一方で少し浮かない表情を浮かべている紗世へ源田監督が話しかけてきた。


「どうだ?まだ初日を終えたばかりだが」

「う〜ん……。ちょっと米田さんのことが心配かなぁって……」

「そうか……。加美川お前ちょっと今日の晩飯付き合え。焼肉でもどうだ?岸田も行くだろ?」

「その前に。米田さんにメモを取らせてるんですよね?ちょっと私のせいで数分取れなかったと思うんです。だから今日は叱らないでやってもらえませんか?」

「あー、さっき泣いてたな……。大丈夫。そこまで俺も鬼じゃないさ」


 一旦三人は着替えに行って校門で待ち合わせることになり、更衣室で一人着替え終わった紗世はカバンを持って校門の方へと歩いていると「あの……」と誰かが後ろから声をかけてくる。呼ばれた方へ振り向くと昼休み前に腕を痛めて紗世がケアをしてあげた球児だった。紗世は練習初日でまだ球児みんなの顔を覚えきれていないために誰なのかと思い出すまで少し時間がかかった。


「あー、昼休み前に話した人?よね」

「はい。さっきはありがとうございました!」

「ハハ。わざわざそれを言いに?ありがとう」

「あの……、一つ訊いても良いですか?」

「ん?どうしたの」


 ユニフォームから着替えてジャージ姿になったその球児は気まずそうに下を向いている。紗世は何故そんな態度を見せるのか意味が分からずにその球児に対して徐々に苛立ってきた。男のくせに女々しい態度を見せられることほど不快なことはないと思っている紗世はしびれを切らし口調を強めにして訊ねた。


「ねー、はっきり言いなよ!もう行くよ?」

「ちょっと待って下さい!その、米田と何を話してたんですか?」

「別に。たわいもない会話をしてただけよ」

「そうですか……。でも米田泣いてましたよね?」

「うん……。でも何で君がそれを気にするの?」


 紗世がそう訊いた途端に球児は「はっ!」と誰かに気づいて頭を下げて足早にその場を去った。「あ、ちょっと!」と紗世が引き止めようした時別の方から足音が聞こえてくる。一平だった。少し怪訝そうに去って行った球児を見ながら紗世のもとへとやって来た。紗世は何も一平が関係してることではないと思い話し始めた。


「ちょっと〜。何であんたがそんな目つきであの子を見るのよ〜」

「いや、アイツ何か言いたげな顔してたしオレを見ていなくなるからさ」

「だからってアンタがそんな目つきで見てたら萎縮して練習しづらくなっちゃうかもしれないじゃない」


 一平は納得したような表情を見せないために紗世はそれ以上にあの球児のことを話すことはやめておくことにした。もしかしたら米田のことが好きでちょっと心配したのかもしれない。紗世はいずれ分かる日が来るだろうと思い慌てるまでもないという結論に至った。そして二人は校門へと向かった。夕方の六時になろうかという時、校内にチャイムが鳴り響く。二人とも久々に聴く高校のチャイムがとても懐かしく思いながら源田監督が来るのを待った。


「うわぁ、懐かしいな!このチャイム音」

「ハハッ!ホントだよね。当時と全く変わらないね」

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