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「はい、お待たせ致しました。長ネギのマリネでございます」

「うわー!すごいオシャレー。どう?ここのオーナーさんの出してくれる料理って前菜から見映えよく盛り付けて持ってきてくれるの!」

「オレ、初めて。やっぱ寮の食堂とは大違いだな……。凄く凝ってる!」

「当たり前じゃなーい!オーナーさんは見映えも重視してるんだから!ですよね?」

「ハハッ。ありがとう。そうなんです。せっかく召し上がって下さるなら見た目も堪能して頂きたいんです」

「そうなんですねー。あ、それと僕に敬語なんて使わなくて良いですよ。加美川さんと話されてるように接して頂けると……」


 一平からの申し出に一瞬戸惑ったがオーナーの方は笑顔に戻してその申し出を快く受け入れることにした。紗世もオーナーの人柄に対して悪い印象なんて持っていない。寧ろそうやって接してくれる方が一平も嬉しいかもしれないと思ってはいた。


「じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな。ちなみに紗世ちゃんは彼のことを何て呼んでるの?」

「え?私ですか?お互いに名字ですよ」

「またどうして〜?お互い下の名前で呼びあったら良いのに〜」

「ちょっとオーナーさ〜ん、私たちそんな間柄じゃないですよ〜……」


 オーナーはなんとなく二人の微妙な空気を感じていた。この後お店に来る奥さんもきっと同じ考えだろう。せっかくだからもう少し近い間柄になってほしいという思いでいる。すると一平が話し出した。


「オレは別に構わないけど?」


 紗世はお酒を飲んでもいないのに少し顔が火照った。オーナーは腕を組んで二人の会話を見守っているが、せっかくの料理が美味しいうちに食べて欲しい。あとは二人で決めるだろうと。そそのままキッチンへと戻って行った。そして一平はマリネを食べ始めた。


「あー。これネギの甘みがイイ感じ。紗世も食べたら?」

「岸田君、私たちそんな仲じゃないでしょ」

「固いこと言うなよー。もうお前がオレを名字で呼ぶとしても名前で呼ばせてもらうから。いいから、まず食えよ!」


 紗世は少し納得いかなかったが、一平から言われるままに食べてみた。すると紗世の口の中にネギの風味とオーナー特製の調味料の絡みが絶妙だ。オーナーの料理には魔法がかけられているのか紗世も自然に顔がほころび向かいに座っている一平へ頷きながら話し出した。


「ホント!これとても美味しい!一平の言うとおりだ……」


『あ!』と紗世は顔を赤くして両手で口元を隠している。しかし一平はそんな紗世を見てて嬉しかった。オーナーもキッチンから料理を作りながら今のやり取りを見ていた。オーナーからは幼い子どものやり取りを見ているようで気持ちを和まされている。


「そんな照れるなよー。それで行こうよ!別に恋人同士じゃなくてもその呼び合い方で良いじゃんか?」

「そんな恥ずかしいよ……」

「な〜にを今さら!すぐにそれも慣れてくるって……。だからさ、それで頼むよ……」

「念押しとくけど、これで恋仲になったわけじゃないからね!」

「だから分かってるって〜。今はそれ以上期待してないから〜」


 そしてお店に一組の中年夫婦が入って来た。中年夫婦はあまり野球を観ないのか、それともまだ一平の存在が分からないのか二人の座っているテーブルの横を素通りして行く。そして紗世が小声で話しかけた。

「ねえ、一平ってさ。こんな時ってどんな心境になるもんなの?やっぱ声をかけてほしいって感じ?」

「いや〜、場所にもよるんじゃね?でも今はまだ声をかけて来ないでほしいなぁ……」

「へぇ、また何で?」

「いや実はどんなサインを書こうかまだ決めてないんだ」

「はぁ?アンタさっきオーナーさんからサイン求められて頷いてたじゃない?どうするの?」

「そこなんだよ……。流れでつい返事しちゃった……」

「もー、バカ!」


 一平は舌を出して紗世に苦笑いを見せる。紗世は鼻でため息を吐いて炭酸水の入ったグラスへと口を付けた。もうこうなったらサインのデザインはここで決めて使っていくしかない。または今日とりあえず書くだけ書いて、数ヶ月後に新しいデザインになったサインを渡すのもありかもしれないが一平はここの常連になるかどうかも分からない。そう考えているうちにキッチンから奥さんがやって来た。


「あらー、紗世ちゃんいらっしゃい。珍しいわね〜、男性の方と来るなんて」


 奥さんの方はオーナーと違い一平の存在をまだ知らない。一平はそんな一回り歳上の奥さんに見惚れている。紗世はそんな一平の表情を見て笑いをこらえていた。さすがに奥さんの前では笑えない。


「そうなんです!今日は同級生と一緒に来させて頂きました。紹介しますね、彼は岸田一平君と言います」

「は、はじめまして……、岸田です」

「ふふ……。はじめまして。ん?岸田、岸田……、あれ?どこかで聞いたことあるわねえ」


 一平は紗世の気配り上手になっていたことに感謝と同時に驚いている。ここまで気遣ってくれるとは思ってもいなかった。そして奥さんへ照れながら挨拶をすると奥さんは目尻を下げて優しい口調で返事をしてくれる。しかし一平の名字を聞いて腕を組みながら右手に人さし指をアゴに当てて考えている時オーナーが料理を持って来た。


「はい、お次はカレイにレモンバタークリームソース」

「ウホォ!美味そう!」


 オーナーの持ってきた美味しそうな匂いのする出来たての料理に一平は釘づけになっている。そんな一平を見ながら奥さんはどうしても思い出せない。紗世も奥さんへ深い理由は無いが教えようとはしなかった。


「ねえ、岸田さんって聞き覚えがるような気がするんだけど……」

「何言ってるんだよ!この間ニュースに出てたじゃないか。ほら紗世ちゃんの同級生の野球選手だよ」


 やっと奥さんは喉につっかかっていたものが取れたかのように手を叩いて一平が誰なのか思い出すことが出来た。


「あー、はいはい!以前にも香織ちゃんと来た時に少し話題になった方ね」


 紗世は冷静になってオーナー夫婦の会話を聞いているが一平は目の前に出された料理を食べ始めていた。料理を味わっている一平に声をかけるのも悪いと思った奥さんは笑顔でオーナーとキッチンへと戻って行く。一平は前菜といいこんな料理を食べるなんて初めてで紗世に感想を言いたくてもなかなか言葉が思い浮かばない。フォークやナイフを上手く使えず四苦八苦している一平に注意しようかと迷ったが美味しく食べれているのであればそれならそれで良いと紗世も料理を食べ始めた。その後も前回と同様にココット仕込みにしてトマトソースの煮込みハンバーグを食べて冷えてきた季節の中、二人はお酒を飲んではいないが温まる料理に頬が赤くなっている。そして食べ終わってオーナーからエスプレッソをサービスしてもらい、同時に色紙を持って来た。それを見た一平は『げっ!』と思い紗世も『どうするの……?』と心配そうに一平の方を見ている。


「じゃあ一平君、この色紙に書いてもらって良いかなぁ?」


 そこで二人を救ったのは奥さんの一言からだった。


「ちょっといくらなんでもサインのデザインまでは考えてないんじゃない?契約とか練習で忙しいでしょうし」

「え?そんなもんかなぁ。どう?」


 一平は気まずそうに下を向いている。本来ならこの時点でサインのデザインをもう考えている選手が殆どだろう。しかし一平は紗世により振り向いてもらいたいという思いが強かったためにそこまで全く考えていなかった。そして紗世が口を開いた。


「オーナーさん、すみません!一平ってまだサインのデザインを考えていないみたいなんです……」

「ほら〜、さすがにもう少し時間が経ってからでなきゃ無理よ〜。ごめんなさいね、夫が無理言っちゃて」

「あ、いいえ……。僕の方こそ本当にすみません。あの、来シーズンまでにはデザインを考えて出来たらその時にまたこちらのお店にお邪魔させて頂きたいのですが……」

「ああ。もちろん大歓迎だよ!じゃあ色紙はその時までしまっておこう」

「オーナーさん、本当にごめんなさい。来シーズンには連れて来るか、持って来ますので」


 オーナー夫婦は笑顔で頷き会計を済ませてお店を出た。風は吹いていないが空気がとても冷たい。しかし二人は心身ともに温まる料理を食べて全く苦にはならない。時刻は七時半前になっている。駅までは十分もかからない。


「ハハッ。今日の一平面白すぎ!なによ、サインを書けないなんて」

「だって仕方ないだろー!早く一軍に上がりたくて練習しまくってたんだからさー」

「しかも奥さんを見てほの字になってたでしょ〜?」

「な、なってねえよ!でもあのお店、すごく雰囲気が良かったな」

「でしょ?ちゃんと練習しなきゃダメよ。来年は一軍で活躍してるアンタを連れて行くんだからね!」


 二人の歩く歩道には駅方面から足が重くてフラつくように家路へと向かっているスーツ姿の男性が目立ちそんな人たちとすれ違う中一平が一声かけてきた。


「なあ、手繋いで良いか……?」


『え?』と驚いた紗世は返事に少し困っている。紗世は見た目が悪くなくて中学の時から栗原健二まで多くの男性と付き合ってきた。健二との間柄みたいに意味不明な交際した相手もいれば紗世が惚れて付き合った時もある。今の紗世にはもう恋愛に対しては貪欲ではなく、どうでも良かった。だから健二や翔子に恋人が出来ても羨ましくてそれに便乗して自分も恋人が欲しいなんて思いもしない。しかし一平は紗世と違い全く恋をしていない。「手を繋いで良いか?」とを聞くだけでも胸が張り裂けそうな思いになっていた。


「だから〜、私たちってそんな関係じゃないでしょ?」


 一平は『やっぱりか……』と正面を向いて歩いているが心の中ではとても落胆している。どうしたら振り向いてもらえるのか、それともこうやってご飯を一緒に食べに行けただけで丸儲けと考えるべきなのか、一平には紗世の考える恋愛観が全く理解出来なかった。しかし紗世から意外な言葉を聞かされる。


「でも、一平ってプロ契約を結ぶまで頑張ってくれた。どう言ったら良いんだろう……、なんだか今とても幸せな気分……」


 そう言って紗世は一平の手を握った。一平はドキッとして胸の鼓動が高くなっていく。そっと繋いできてくれた紗世の指先はとても冷たい。一平はその冷えきった手を包み込むように気持ちを込めて強く握り返した。自分の顔の火照った熱を紗世の指先へ伝わるように。

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